天に任せた出会い2006年01月19日 06時54分

(1982年6月の北大着任時の桐谷先生 先生の自作OHPより)

 1982年の4月、4年生になった私は「物理工学講座」という講座名の研究室に配属になった。この講座の教授は3月に定年退官になっており、4月の時点では教授がいなかった。研究室を選ぶ時、研究分野も大事だが、指導教官がどのような人物かということも極めて大事な要素だ。私の場合、やりたい分野の講座に教授がまだ着任していなかったので、どのような先生と出会うことになるかは、天に任せたというわけだ。
 4月、5月と教授不在でのんびりと動いていた研究室は、6月1日、大阪大学から来たエネルギーの塊のような先生を迎えて、急に目まぐるしく動き始めた。しかし嵐は1か月で去った。
 7月になると先生は、上の写真にある特注の真空容器に様々な材料(金、銀、銅、鉄、アルミニウム、ニッケル、シリコン、ゲルマニウム、金と銅の合金、…、等々)を入れて回転ターゲット中性子源による第一回の核融合中性子照射実験を行うために単身でアメリカの研究所に乗り込んで行った。日米科学協力による第一回の照射は7月に行われ、この照射中の間、先生は照射した試料を現地で電子顕微鏡観察するために目まぐるしく働いて、短期間で電子顕微鏡の設置や暗室の整備を行い、照射完了後の8月には自身で数多くの照射試料の観察を現地で行い、8月末に照射した試料と撮影した電子顕微鏡フィルムを携えて帰国した。フィルムには、これまでに観察されたことがない新しい発見が数多く捉えられており、大成功を収めた。その後、この日米共同プロジェクト研究は5年間に亘り続けられ、多数の日本人研究者がこの核融合中性子照射実験を行うために渡米したが、桐谷先生はその先陣役を任されていたのだ。
 わずか2か月のアメリカ出張の間に電子顕微鏡試料の核融合中性子照射という大掛かりな実験を立ち上げて軌道に乗せ、結果まで出すという画期的な成果を上げるなどということは、桐谷先生でなければできないことだったと学会の先生方の誰もが後日、語っていた。
 そんな、超エネルギッシュな先生に私は鍛えられることになったわけだ。
 上記の実験内容は後になって理解したことであり、当時の私はもちろんまだ何も分かっていなかった。
 1982年9月、嵐は再びやって来た。

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