礼拝・祈祷会メモ2011年07月29日 08時07分

 きょうは、高校野球の静岡大会の決勝が楽しみです ^^

 遅くなりましたが、礼拝と祈祷会のメモです。

<7月24日礼拝メモ>

『流れるほど増す恵み』
【エゼキエル47:1~12】

はじめに
◎ 18日の大阪の奉仕者研修会には様々な教会から多くの人が集った。
◎ 「主は一つ、信仰は一つ」(エペソ4:5)であることを感じた。
◎ 同じ恵みをいただけるのは、神の恵みの源が一つだからである。

Ⅰ 神から流れ出る恵みは、流れるほど深さが増す
A.エゼキエルはエルサレムの滅亡後に捕囚の地で神殿の幻を見た。
B.神殿の東の門から流れ出た水は、神殿を離れるほど深さを増した。
C.理屈で考えれば、一つの水源から流れ出た水は深くはならない。
D.しかし神の恵みとはそのように、流れるほど増し加わるのである。

Ⅱ 神の恵みは世の常識では推し量れないものである
A.イエスの弟子たちは五千人と四千人の給食の後も常識から離れることができず、「まだ悟らないのですか」と言われた(マルコ8:16-21)。
B.一つの水源からの水は深くならないと考えるのは弟子たちと同じ。
C.世の常識と異なる霊的な感覚をしっかりと養わなければならない。

Ⅲ 神の川の流れには、あらゆるタイプの人々が集まる
A.教会にいろいろなタイプの人々が集うのも、世の常識とは異なる。
B.宗教的なタイプが教会に集うと考える人をロイドジョンズは批判した。
C.罪で汚れた世で生活する人は霊的に聖い場所を避ける傾向がある。
D.神にきよめていただき、本来の霊的な感覚を取り戻す必要がある。

おわりに
 流れは地理的なものだけではなく、時の流れのことでもある。聖書という大河の流れは、流れれば流れるほど恵みが増し加わっていく。旧約聖書の神の愛が全部、新約聖書に流れ込んで行き、神の愛は十字架で最高潮に達する。神の愛の大河の流れを感じながら聖書を読む喜びを味わおう。そして神の愛に満たされ、神にきよめていただこう。

<7月21日祈祷会メモ>

『変化には過程がある』
【ヨナ1:1-17,3:1-10】

 ヨナは北イスラエル王国のヤロブアム2世の時の預言者である。ニネベはアッシリアの首都で、後に北イスラエルを滅ぼした敵国である。ヨナがニネベで預言することに気が進まなかったのは当然だろう。ヨナは反対方向に向かった。
 主に背いて海難に遭ったヨナに主は再び、ニネベに行って主のことばを伝えるよう命じた。ヨナが町を歩き回り、「もう四十日するとニネベは滅ぼされる」と叫ぶとニネベの人々は神を信じ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。
 人はこんなに素直に従うものであろうかと疑問に感じる。しかし、聖書は過程をすべて省略している。ヨナの言葉は初めは小さな波紋を生じただけのものが、さざ波のように広がり、やがて大きなうねりとなっていったのであろう。聖書を読む時、途中の変化の過程に想像力を働かせると、多くの恵みをいただくことができる。小さな変化に敏感でありたい。我々の伝道も、小さな働きの積み重ねが大きな結果を生むことにつながることであろう。

祈祷会メモ2011年07月21日 22時23分

 一週間遅れになってしまいましたが、先週14日の祈祷会メモです。
 先週はオバデヤ書を開きました。
 今週と来週はヨナ書です ^^

<7月14日祈祷会メモ>

『食に貪欲だったエサウ』
【オバデヤ・全(1-21)】

 オバデヤはエドムの滅亡を預言した。エドム人はエサウの子孫である。エドムはモーセの通過を拒む(民20:14-21)等、イスラエルと敵対していたが、その元はヤコブとエサウの争いにある。発端はヤコブが謀ったためでエサウに悪意はなかったのに聖書はエサウに冷たい。マラキには「わたしはエサウを憎む」とある。何故そこまで冷たいのか。

 神は食に貪欲な者を非常に嫌う。荒野で民は泣いて言った。「ああ、肉が食べたい。魚…きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも」(民11:4,5)。主の怒りは激しく燃え上がり、民を打った。イエスは「何を食べるか…などと言って心配するのはやめなさい」(マタイ6:31)と言った。食に貪欲だと神から離れ、霊的でなくなる。空腹に耐えかねて食事と引替えに長子の権利を売ったエサウ(創25:33)は霊性が貧弱な人物だったのだろう。これを教訓として祈りに励み、霊性を磨こう。

礼拝・祈祷会メモ2011年07月11日 08時18分

 7月10日の礼拝と7月7日の祈祷会の要約文を掲載します。

 礼拝の説教は5月と6月は月に1回でしたが、7月からは月に2回ずつ行うことになりました。次は24日に行います。祈祷会はこれまで通り、毎週です。

<7月10日礼拝メモ>

『神は我らの嘆きを聞かれた』
【出エジプト2:23~25/ヨハネ1:38,39】

はじめに
◎聖霊の働きの個人的な証し:律法は恵みであるとの確信を得た。
◎ヨセフの時代にエジプトに移住したイスラエル人はおびただしく増えた。
 勢力が増すことを恐れたパロは、彼らを労役で苦しめた。
◎イスラエル人は労役にうめき、わめいた。

Ⅰ 神は契約を忘れていた?
A.神は彼らの嘆きを聞かれ、ヤコブらとの契約を思い起こされた。
B.思い起こしたとは、神が契約を忘れていたということだろうか?
C.神が契約を忘れるはずがない。もっと深い何かがあるはずである。

Ⅱ 時が満ち、機が熟すのを待っていた神
A.人は現状に満足している間は、神の存在になかなか気付かない。
B.エジプトを出るのに必要な莫大なエネルギーが溜まるのを待った。
C.10の災いのしるしはパロにもイスラエル人にも必要になっていた。

Ⅲ 神は心の奥底の嘆きを聞いてくださる
A.人はイエスに出会うまでは自分が何を求めているのか分からない。
B.最初の一歩は自分の無力さを自覚し、誰かに助けを求めること。
C.人の心を見る主は、嘆き・助けの声を上げる者に近づいて下さる。
D.イエスは「あなたがたは、何を求めているのですか。来なさい、
  そうすればわかります」と言い、従う者を救ってくださる。

おわりに
 神はエジプトにいたイスラエルの民を、エジプト人に10の災いを下すことで救い出して下さった。そして、イエス・キリストは、ご自身が十字架という災いを背負い込むことで私たちを救い出してくださった。これに勝る愛があるだろうか。このイエス・キリストの大きな愛を覚え、感謝し、従っていこう。

<7月7日祈祷会メモ>

『善を求めよ。悪を求めるな。』
【アモス5:8-15】

 何が善で何が悪だろうか。神の存在そのものが善である。創造主に造られた我々は、善である神を善悪の絶対基準にして生きている。C.S.ルイスは『キリスト教の精髄』の第一章で、人間には「利己的であってはならない」という人類共通の「自然法則」が生まれながらに備わっていることを説明している。そしてこのルールは誰でも知っているが、これを守っている者は一人もいないと指摘する。
 ルールが守れないのは生まれながらに持つ罪の性質のためであると我々クリスチャンは知っている。我々はイエスに似た者へと変えられていく必要がある。オズワルド・チェンバーズは『「祈りの時」を変える黙想』の中で、「神は私たちの祈りに答えるのではなくイエスの祈りに答える。神にはイエスによらなくては到達できない」と説く。イエスと一体となる祈りを通じてイエスに似た者とされたい。

近況2011年07月04日 17時18分

 更新が滞ってしまいました。
 今また、ヨハネの福音書の研究にのめり込んでいます。そのうち、ここでもお知らせできたらと思っていますが、すごく面白いことが分かりました。
 面白いと言えば、「おひさま」も戦争が終わって面白くなってきましたね。先週の土曜日のストーリー展開は抜群だったと思いました。

 以下は、先週木曜(6月30日)の祈祷会の説教の要約です。

 『わたしは最初であり、最後である』
 【ヨシュア3:14~4:18/黙示録22:13】

 エジプトを出てから荒野を40年間放浪したイスラエルの民はモーセの死後、ヨシュアに率いられていよいよヨルダン川を渡って約束の地カナンに入るところまで来た。ヨルダン川へは、まず神の箱をかついだ祭司たちが入った。すると水は完全にせきとめられたので民は乾いた地を渡った。

 民が渡る間、神の箱をかついだ祭司たちは川の真ん中に立っていた。そして神の箱が最後に上がると川は元の流れに戻った。神は川の真ん中で民を見守ってくださった。ここに神の深い愛がある。

 上半期最後の日、私たちは川の真ん中にいる。神はこうおっしゃる。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録22:13)。

 神は時間的にも空間的にも私たちの前と後ろを行き、常に共にいて下さる。私たちは何も恐れることはない。下半期も神の見守りの中、信仰を持って歩んで行こう。

あなたがたは帰って来なかった2011年06月25日 17時52分

 6月23日(木)の祈祷会説教の要約文(教会の週報用)です。

『あなたがたは帰って来なかった』…アモス版・放蕩息子の父親

【アモス4:1~13】

 ホセアの少し前の時代(760B.C.頃)にアモスが預言した北イスラエルのべテルは、王国が南北に分裂した時(931B.C.)に、民が南ユダのエルサレムの神殿に行かないよう、ヤロブアム1世が金の子牛を造って祭壇に置いた所である。これによりイスラエルの民は偶像礼拝を続け、長い間、神から離れていた。

 主はアモスを通じて同じ嘆きの言葉を、4章で5回も!繰り返している。

「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」(6,8,9,10,11)

 本書の主はルカ15章で家出した弟息子の帰りを待ちわびる父親のようである。父親は、我に返った放蕩息子が戻って来た時、まだ家まで遠かったのに、彼を見つけた。父は息子のことを片時も忘れずに心配し、帰って来ることを願い、いつも遠くの方を見つめていた。

 「あなたがたは帰って来なかった」と何度も何度も繰り返す主は、それほどまでに私たちを深く愛してくださっている。

あなたがたの心を引き裂け2011年06月18日 11時17分

 毎週木曜夜の教会の祈祷会で、20分ぐらいの短い説教をしています。そして、その短い説教をさらに短くまとめたメモを日曜礼拝の時に配る週報に掲載しています。
 今週から、できるだけ祈祷会メモをこちらにも掲載します。
 よろしくお願いします。


6月16日祈祷会メモ

『あなたがたの心を引き裂け』
【ヨエル2:12~14】

 聖書中の人物は激しい怒り・悲しみ・嘆きを、着物を引き裂くことで表した。しかし民に悔い改めを迫った主は、ヨエルを通じて言った。

「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け」(2:13)

 着物ではなく心を引き裂けとはどういうことか、次の3点で考えよう。

①人を意識したパフォーマンスであってはならない(マタイ6章)
 イエス・キリストは山上の説教で、善行も祈りも断食も目立つ場所でしてはならないと話した。悔い改める場合も同様であろう。

②激しい感情を外にではなく、神に向ける
 感情を外に発散するばかりでは信仰が育たない。神に委ねよう。

③心の貧しい者は幸いである(マタイ5:3)
 着物を引き裂くと貧しい身なりになり、心を引き裂くと心が貧しい状態、つまり神以外に頼るものがない幸いな状態になるのである。