20.形式的な儀式の終焉予告2011年01月26日 13時46分

『世界の中心で、お風呂に入る』(20)

20.形式的な儀式の終焉予告(第七の入れ子・その2)
 2章に描かれている「宮きよめ」は、2つのことを暗示していると私は、考えます。一つは、神殿に犠牲の動物を捧げることで人がきよめられるという儀式を、イエス自身が十字架上で犠牲になって終焉させることを予告していること。もう一つは、イエスの血がイエスを信じる者の心の中をきよめる、ということです。きょうは前者について説明し、後者は次回に説明します。

 神殿にいけにえの動物を捧げる儀式については、モーセの律法に書かれていることであり、旧約聖書の特に「レビ記」において、その詳細を知ることができます。この儀式に関する規定は神から民に与えられたものですから、当然のことながら軽視すべきでない極めて重要な儀式です。しかし、その儀式に「心」が伴っていなければ、単なる形式主義になってしまいます。イエス・キリストはそのことを問題視していました。形通りに儀式をおこなってさえいれば本当にきよめられると思っているのか、と問うているわけです。

 さて、ここでイエスは、いけにえ用の動物たちだけでなく、その祭儀に乗じて金儲けをしようとしている商売人たちも、排除したことに注目したく思います。イエスは言いました。

「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2:16)

 神を礼拝する場所で、自分の利益を考えるという自己中心的な心は、神を思う心とは正反対を向いています。イエス・キリストはこのことをも厳しく責めました。そのような自己中心性は、この商売人たちだけでなく、私たちの心の中にも存在するものです。

19.律法主義の追い出し2011年01月22日 08時21分

『世界の中心で、お風呂に入る』(19)

19.律法主義の追い出し(第七の入れ子・その1)
 第七の入れ子は【2:13~22】と【18:1~40】のペアで、それぞれに「イエスによる律法主義の追い出し」と「律法主義者によるイエスの追い出し」が描かれています。この二つの場面はマタイ・マルコ・ルカによる福音書にも描かれており、前者はいわゆる「宮きよめ」、後者は「イエスの逮捕・裁判」です。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書では「宮きよめ」は十字架を目前にした最後の方に描かれています。一方、ヨハネの福音書は2章という最初の方に描かれているため、これは大きな謎として議論の的になっています。ヨハネの福音書における最大の謎と言っても良いでしょう。

 この早すぎる「宮きよめ」をどのように解釈したら良いでしょうか?

 注解者によっては、「宮きよめ」は1回ではなく、最初と最後の2回(或いはもっと)行われたと考える人もおり、それなりに支持されています(例えばモリスの注解書を読むと、複数回説がいくつか引用されています)。しかし、カーソンなどは、かなりの紙幅を費やして、この2回説に反論しています。それは、

「(イエスは)宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒して・・・」(2:14,15)

のような激しい行為をイエスが何度も繰り返すことを、律法主義者たちが許すはずがないからです。最初の宮きよめを呆然と眺めた人たちも、2回目以降は阻止することでしょう。

 このヨハネの福音書の早すぎる宮きよめの謎は、入れ子構造により理解することができます。イエスが死ぬ直前の最後の週、エルサレムに入京し、最後の晩餐→逮捕・裁判→十字架の死→復活と辿った順番を逆にすると、イエスを信じた人が救われる順番になるからです。これまで私たちは、1章で弟子たちがイエスと出会い、「来なさい」という招きに応じ、それに対して2章のカナで祝宴が開かれたところまでを見て来ました。

 イエスの招きに応じた者は、イエスの血により心がきよめられます。これを表わしているのが「宮きよめ」です。そしてまたヨハネの「宮きよめ」は、律法主義の追い出し、そしてイエス自身がいけにえの動物に代わって犠牲の小羊になることをも象徴しています。これらについては次回以降で説明します。

18.しばし休息の時2011年01月19日 12時56分

『世界の中心で、お風呂に入る』(18)

18.しばし休息の時(第六の入れ子・その4)

 第六の入れ子には副構造的に、もう一つのペアがあります。【2:12】と【19:38~42】のペアです。

「その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。」(2:12)

 この2章12節は、これだけ見ると何だか不要のようにも見える中途半端な節です。何故わざわざ、こんな説明を入れたんだろうか?、と思わせるような節です。しかし、入れ子構造から考えると、この節は必要不可欠な節であることが分かります。この節は、十字架で死んだイエスが埋葬される場面とペアを組んでいるからです。

「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。・・・、彼らはイエスをそこに納めた。」(19:41,42)

 イエスは死んでから三日目によみがえりましたが、死んでいた間は墓に入っていました。墓の中に入っている間、激動の地上生涯を送ったイエスにとってはもしかしたら、しばしの休息の時であったのかもしれません。ペアの相方の2章12節でイエスはカペナウムでしばらくの間、母や兄弟たち、弟子たちと一緒に過ごしました。それはイエスにとって、最後のくつろぎの時であったのではないかと思うからです。

17.十字架による救いの祝宴2011年01月12日 21時36分

『世界の中心で、お風呂に入る』(17)

17.十字架による救いの祝宴(第六の入れ子・その3)
 2章のカナの婚礼には弟子たちも招かれていました。弟子たちは1章でイエスの招きに応じてイエスに付き従いました。イエスは神の子ですから、それまで神の方を向いていなかった弟子たちが神の方を向き、付き従うようになったのです。
 ルカの福音書15章の有名な「放蕩息子の帰郷」では、父(神)のもとを遠く離れて放蕩していた息子が、悔い改めて父の方を向き、父のもとへと帰っていきました。父はそんな息子を大喜びで出迎え、祝宴を開きました。

 カナの婚礼も同様です。天は弟子たちが神の方へと向きを変えたことを喜び、盛大な祝宴を開きました。その祝宴がカナの婚礼です。天の神様は私たちが神から離れていたことの非を認めて神の方を向くだけで、それまで神から離れていた罪を無かったことにしてくださるのです。無罪としてくださるだけでなく大喜びで祝宴を開いてくださるのです。それは、イエス・キリストが十字架に掛かって私たちの罪を全て背負ってくださったが故のことです。

 第六の入れ子は神の救いの御業を、十字架と祝宴というセットで見事に描いています。ヨハネの福音書の入れ子構造には実に巧妙にメッセージが組み込まれており、その構造の巧みさには本当に感嘆します。

16.良いぶどう酒と酸いぶどう酒2011年01月10日 09時43分

『世界の中心で、お風呂に入る』(16)

16.良いぶどう酒と酸いぶどう酒(第六の入れ子・その2)
 ぶどう酒が登場するのは2章と19章だけです。母マリヤが登場するのも2章と19章だけです。それゆえ、この二つの章が強い関係にあることは明らかです。

 ぶどう酒はイエスの血を表わします。マタイの福音書にはイエスが最後の晩餐でぶどう酒の入った杯を取り、次のように言ったことが記されています。

「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)

 神に反逆するという私たちの罪をイエス・キリストは全て背負って十字架に掛かり、血が流され、そのイエス・キリストの血ゆえに私たちは罪が赦されました。それゆえ、イエス・キリストを信じる者は誰でも神の子とされ、永遠のいのちを持つことができるのです。

 良いぶどう酒は、私たちに新しい命を与えてくれる、生命力にあふれたイエスの血です。一方、酸いぶどう酒とは発酵が進み過ぎて死ぬ寸前のぶどう酒ですから、滅ぼされるべき罪の象徴と考えても良いのではないでしょうか。

 イエス・キリストの血は私たちの罪を滅ぼし、新しい命を与えてくださいました。この、二つのぶどう酒による生と死の鮮やかなコントラストを描く2章と19章の両方に母マリヤもまた登場するのは、生命と母とは強い関係にあることから、決して偶然ではないであろうと私は考えます。

15.祝福とのろい2011年01月09日 21時20分

『世界の中心で、お風呂に入る』(15)

15.祝福とのろい(第六の入れ子・その1)
 第六の入れ子は【2:1~12】と【19:1~42】のペアです。私はこの第六の入れ子が、世界の中心の【7:37~39】以外では最も重要であると考えますので、何回かに分けて、じっくり説明したく思います。なぜ重要かと言うと、キリスト教の核心である「十字架」について書かれた19章が含まれるからです。

 このペアは「カナの婚礼」と「十字架」のペアです。婚礼の「祝福」と十字架という死刑の「のろい」のペアです。十字架がのろいであるということについて、パウロは「ガラテヤ人への手紙」の中で旧約聖書の申命記21:23を引用して次のように書いています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

 キリスト教のシンボルは、ユダヤ人にとってはのろいのシンボルなのです。このように死刑になったのろわれた者を救い主として神と崇めるキリスト者を、人々は愚か者であるとあざけりました。しかし、パウロはコリント人への手紙第一で次のように書きました。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(第一コリント1:18)

 キリスト教は逆説の宗教です。十字架は究極の逆説です。イエスを信じない人々にとっては愚かに見える十字架が、実は人々を救うのです。イエスの時代に先立つこと約700年前、預言者イザヤは未来を見通して次のように預言しました。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

 この逆説を、第六の入れ子は「祝福とのろい」のペアによりワンセットで示しているのです!このようなヨハネの福音書の入れ子構造の仕掛けは、本当に凄いなあと思います。

14.御使いに関する予告と成就2011年01月08日 11時29分

『世界の中心で、お風呂に入る』(14)

14.御使いに関する予告と成就(第五の入れ子)
 第五の入れ子は【1:50~51】と【20:1~18】のペアです。入れ子の構造は、この箇所に関して驚くほど豊かな情報を提供してくれます。隠れて見えなかった部分が見えて来るのです。まず、
 
「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(1:51)

が何を表わすのか、注解者たちの間で定まった見解はありませんでしたが、「イエスの復活」のことであることが、入れ子構造から分かります。20:12に御使いが出てくるからです。

「すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。」(20:12)

 イエスの遺体が消えて空っぽになった墓に御使いがいたことはマタイ・マルコ・ルカの福音書にも書かれています。そして、興味深いことに、四つの福音書全てが、この御使いを目撃したのは弟子たちではなく、マグダラのマリヤなどの女性たちであったことを記しています。

 御使いを見たのは女たちであったことを1:51に戻してみると、何が見えてくるでしょうか。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(1:51)

とイエスが言った時、そこには弟子たちだけでなく、既に女たちがいたのだということが分かります。ナタナエルは21:2によればガリラヤのカナの人であり、マルコ15:41によればイエスがガリラヤにおられたとき、いつも女たちがつき従って仕えていたとありますから、イエスはガリラヤでナタナエルに会い、その時からイエスの周囲には女たちがいたことが分かります。

 入れ子構造が、これほどまでに豊かな情報を提供してくれることに、私は感動を覚えずにはいられません。

13.ナタナエルとトマス2011年01月07日 22時58分

『世界の中心で、お風呂に入る』(13)

13.ナタナエルとトマス(第四の入れ子・その2)
 第四の入れ子の中にはナタナエルとトマスのペアもあります。二人とも他の弟子の言うことを素直に信じずに、疑っていました。

「ナタナエルは言った。『ナザレから何の良いものが出るだろう。』ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』」(1:46)

 ナタナエルは、イエスがナザレの出身と聞き、そんな田舎町出身の者だったら大したことはないだろうと思いました。しかし、イエスの次の言葉により彼は自分が間違っていたことを知り、イエスの弟子になりました。

「イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(1:48)

 イエスが見たナタナエルは、過去のナタナエルでしょうか。いいえ、入れ子構造から考えるなら、イエスが見たのは未来のナタナエルでしょう。この第四の入れ子は「平安があなたがたにあるように。」とイエスが言った20章とペアになっています。そして、「いちじくの木の下」はⅠ列王4:25、ミカ4:4、ゼカリヤ3:10に見られるように平和な場所の象徴です。つまり、イエスは、救われて平和の中にいる未来のナタナエルを見たのです。このように、入れ子構造では過去と未来とがつながっています。

 20章のトマスも素直ではありませんでした。他の弟子たちが復活したイエスに会ったと話したことを信じず、

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(20:25)

と言いました。そんなトマスの前にイエスが現れたため、トマスは信じました。イエスは言いました。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(20:29)

 この「見ずに信じる者は幸いです」は極めて重要です。ヨハネの福音書には「来て、そして、見なさい」という表現が多く出て来ます。しかし、20:29では一転して「見ずに信じる者は幸いです」になります。イエスは間もなく天に上って目に見えない存在になってしまいます。それゆえ、「見ずに信じる」ことが必要になるのです。

 聖霊の時代になって以降、イエスを信じる者の中にはイエスが住んでいます。もちろん、現代においてもそうです。キリスト者は信仰が深まるにつれ、次第にイエスに似た者へと変えられて行きます。私たちはイエスご自身を見ることはできませんが、イエスに似たキリスト者を通してイエスの姿を見ることができます。

12.出会いと再会2011年01月04日 16時49分

『世界の中心で、お風呂に入る』(12)

12.出会いと再会(第四の入れ子)
 第四の入れ子は【1:35~49】と【20:19~31】のペアで、前者が「イエスと弟子たちとの出会い」、後者が「復活したイエスと弟子たちとの再会」の場面です。

 このペアのつながりも極めて強固です。なぜなら、この福音書におけるイエスの第一声と第二声の

「あなたがたは何を求めているのですか?」(1:38)
「来なさい。そうすればわかります。」(1:39)

の答えが、20章の次の言葉だからです。

「平安(平和)(があなたがたにあるように。」(20:19,21,26)

 イエスの「あなたがたは何を求めているのですか?」という問い掛けは、私たち読者に対する問い掛けです。復活して今も生きておられるイエス・キリストは、私たちにこのように問い掛けているのです。このように、あたかもイエスが私たち自身に問い掛けているように感じさせてくれるのが、聖霊の働きです。

 連載第5回において聖霊を感じることの重要性について書きましたが、この場面でイエスが今も生きていると感じるなら聖霊を感じており、この場面のイエスが単に書物の中の人物であるとしか感じられないなら、聖霊を感じていないということになります。

 「あなたがたは何を求めているのですか?」(1:38)

という問い掛けは極めて深い問い掛けです。

 私たちは自分が心の奥底で本当は何を求めているのか、実は良く分かっていないのです。お金や名誉など、表面的に求めている事柄なら、すぐに答えることができるでしょう。しかし、イエスのこの問い掛けはそんな表面的なことを聞いているのではありません。即答できなかった弟子たちにイエスは言いました。

「来なさい。そうすればわかります。」(1:39)

 この招きに素直に従ってイエスのもとに行き、イエスにより真の心の平安(平和)が与えられた時、私たちが心の奥底で求めていたのは、真の平和だったのだ、ということが分かるのです。

11.先駆者と後継者2011年01月03日 06時41分

 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

 年末は帰省しており、新年は元旦礼拝と日曜礼拝が二日連続であって更新が滞りましたが、連載を続けます。なお、最近見た映画の『最後の忠臣蔵』と『ヤマト』の感想を、すぐ後に書きたく思っていますので、そちらもよろしくお願いします。

『世界の中心で、お風呂に入る』(11)

11.先駆者と後継者(第三の入れ子)
 第三の入れ子は【1:19~34】と【21:1~23】のペアで、それぞれ洗礼者ヨハネとペテロのことが主に書かれています。洗礼者ヨハネはイエスの公生涯の前に人々に洗礼を授け、ペテロはイエスの公生涯の後に人々に洗礼を授けました。二人ともイエスの公生涯中も人々に洗礼を授けましたが、彼らの活動の中心は先駆者ヨハネがイエスの前であり、後継者ペテロはイエスの後でした。

 このように「洗礼を授ける者」という観点から見ると、ペテロが21:7で上着をまとって湖に飛び込んだのも、洗礼を授ける者として服装を整える必要があったという意味にも取れるのではないでしょうか。裸では洗礼を「授ける者」ではなく、「受ける者」になってしまうからです。

 この第三の入れ子は、ヨハネの福音書がペテロを洗礼者ヨハネと同格の位置に置いている点で非常に重要ではないかと私は考えています。ルカの福音書によれば洗礼者ヨハネはザカリヤという祭司の息子ですから、洗礼という聖礼典を執行するにふさわしい家系の者であると言えるでしょう。一方、ペテロは元々は漁師であり、しかもイエスが逮捕された時には保身のためにイエスのことを3度も「そんな者は知らない」と言い、イエスを裏切りました。そんなペテロに対してイエスはこの21章で三度も「わたしの羊を飼いなさい」と言い、牧者として改めて任命しています(再召命)。イエスを裏切ったペテロは普通に考えれば牧者としては全くふさわしくありません。しかし、人間は全て罪人ですから、牧者としてふさわしい者など、もともと誰もいないのです。

 この第三の入れ子は、ペテロと洗礼者ヨハネを同格に置くことで、ペテロのような重大な罪を犯した者でもイエスは赦し、人々を救う牧者としての役割を与えていることを示しています。21章を単独で読むとイエスとペテロとの私的な関係のように見えますが、1章との入れ子のペアとして考えると、ペテロが祭司ザカリヤの息子である洗礼者ヨハネと同格に置かれていることは、公的な性格を帯びていると言えるのではないでしょうか。そして、それは現代に至るまでの多くのペテロの後継者についても言えることだと思います。