神の力2015年03月06日 05時30分


 佐々部清監督がfacebookで絶賛していた映画『さいはてにて〜やさしい香りと待ちながら〜』を柿田川のシネプラザサントムーンで観て来ました。
 信仰の話は一切出て来ないのに、極めて信仰的な映画だと思いました。ヒロインは海辺の珈琲店主・吉田岬役の永作博美さんと、珈琲店の向かいにある民宿に住む子連れのシングルマザー・山崎絵里子役の佐々木希さんです。この佐々木さんが演じる絵里子の目に映る視界の変化が印象的な、「海の力」を感じる映画だと思いました。そして帰宅してから、この映画について思いを巡らしていて、信仰の歩みとよく一致することに気付きました。
 シングルマザーの絵里子は海のすぐ近くに住んでいるのに、はじめのうち彼女の視界に海はほとんど入って来ません。しかし、珈琲店主の岬との交流が始まってから海に一歩近づき、海が目に入るようになり、次第に彼女の心を変えて行きます。「海の力」が彼女を変えて行きました。この「海の力」を信仰の世界では「神の力」と言います。
 教会の皆さんにもお勧めの映画だと思いました。そんなに長くは上映しないと思いますので、お早めにどうぞ。
http://www.saihatenite.com/

2月1日の祈り2015年02月01日 05時50分

 2月1日午前5時半、ニュースがあわただしく報じていた、アップロードされたばかりという動画を見た。
 主よ。邪悪な世を救い、平和をもたらしてください。
 平和の働きに私を用いて下さい。

2014クリスマス行事のご案内2014年12月11日 08時54分


12月14日(日)クリスマスの集い 午後1時半~
12月21日(日)クリスマス礼拝  午前10時半~
12月24日(水)キャンドル・サービス 午後7時~

場所:インマヌエル沼津教会
http://blog.goo.ne.jp/numazu-c

神様は見えない?2014年07月18日 10時37分


 ご存知の方も多いと思いますが、テレビやエアコンのリモコンの赤外線は私たちの目には見えませんが、デジカメや携帯電話のカメラで撮影するとリモコンが発光している様子を観察することができます。

 つまり人の目には見えない赤外線もカメラという機械の目には見えています。逆に嗅覚などは機械よりも人の鼻の方が感度が良いと言われています。においを発する物質が人の鼻には見えているのですね。

 さて神様も人の目には見えませんが、人の霊的な目には見えます。ただし霊的な目は人によって感度が違いますから、神様が見える人と見えない人とがいます。毎日を忙しく過ごしていると神様はなかなか見えて来ないかもしれません。

 できれば毎日、最低でも週に1回は忙しさから解放されて静まる時を持ち、霊性を研ぎ澄ますことで、神様がよく見えるようになりたいと思います。毎週日曜日、お近くのキリスト教会はそのような時と場所を与えてくれるでしょう。

近況(葬儀がありました)2014年05月03日 09時24分

 こちらの更新を全然していませんが、右→ にリンクしてある教会のブログでは毎週、礼拝メッセージと祈り会メッセージを更新していますから、お読みいただければ感謝です。

 今週は火曜日と水曜日に教会員の葬儀がありましたので、前夜式(通夜)と告別式のプログラムと説教もアップしました。
 
 キリスト教の葬儀は、毎日曜日の礼拝とほぼ同じ形式で行われます。私たちは神様中心の生活をしていますから、葬儀の中心もまた礼拝と同様に神様です。
 葬儀では礼拝と同様に神様を賛美し、祈り、聖書のみことばを読みます。そして説教では故人の信仰の歩みを紹介しつつ、ご遺族にも神様からの豊かな慰めと励ましがあることをお伝えし、祈ります。

信仰の「カーリングのたとえ」2013年12月25日 22時13分

 クリスマスの日の今日、教会の近くの海辺をジョギング中に、信仰をカーリングに例えるアイデアが与えられました。
 下記のような感じです。

 信仰はカーリングにたとえることができます。
 カーリングの重要なポイントとして、①石をカール(回転)させることと、②氷をブラシでスイープする(こする)こととがあります。この二つのポイントを、信仰における①神は【過去・現在・未来】が混然一体となった永遠の時間の中にいると考えることと、②その永遠の時間観の中で祈ること、の二つのことの必要性を説明するのに用いることができます。
 カーリングの石をカールさせないなら直進しかしません。カールしない石の前の氷をいくらスイープしても進路を変えることはできません。カールさせるからこそ、スイープによって石が曲がるタイミングを調整することで目標の地点に持って行くことができます。私たちが信仰生活において祈るのは、この目標地点に到達したいからです。そのためにカーリングの選手が氷を一生懸命にスイープするように、私たちも一生懸命に祈ります。
 しかし、もし私たちが祈る時に【過去→現在→未来】という直線的な一方通行の時間観しか持たないなら、それはカーリングの石をカールさせないのと同じで、過去に投げた石の方向にそのまま未来に向かって直線的に進むだけです。私たちが祈るのは、そのまま直進したのでは願っている地点に到達できないから進路が変わって欲しいと願って祈るのです。その進路を変えるために石をカールさせることに相当するのが、【過去・現在・未来】が混然一体の永遠の時間観を持つことです。祈り手は、過去と未来とが絡み合う現在の中で一生懸命に祈ります。祈りに力があるのは神が【過去・現在・未来】が混然一体の永遠の中にいるからです。神が永遠の中にいるからこそ、祈りによって状況が変わって行きます。私たちが永遠の中にいる神に心を寄せて過去と未来の絡み合いの中でタイミング良く祈る時、今は目標の地点に向かっていなくても、やがて進路が変わって目標に向かって進んで行くようになります。

『少年H』と神戸教会2013年07月17日 21時51分

 妹尾河童の自伝小説『少年H』で少年Hの家族が通っていた教会は、今のインマヌエル神戸教会の前身の教会なのだそうです。それで、8月10日公開予定の映画『少年H』(降旗康男監督)の礼拝の場面では、インマヌエル神戸教会も撮影に協力したそうです。当時の礼拝の様子などに関するアドバイス等の協力だと思いますが。

 この映画の公式サイトの予告編にも和室に正座して礼拝をしている場面が短く映りますが、そこには知った顔も映っています ^^

 降旗監督の映画ですから、神戸教会が関係していようがいまいが、どっちにしても観に行くのですが、姫路にいた時に何度もお邪魔して良く知っている教会が関係していたと知り、すごく楽しみになりました。

『少年H』公式サイト
 http://www.shonen-h.com/

インマヌエル神戸教会
 http://igm-kobe-church.jp/

『牧師夫人 新島八重』2013年02月05日 14時36分


 いろいろな人々の人生が絡まっている様子を、本人たちが書き残した文章から生の声を引用しながら生々しく綴る、とても面白く読めた本でした。新島八重と新島襄の二人の生涯だけでなく、兄・山本覚馬の京都の妻の娘・久栄に徳富蘆花が大失恋した顛末などが詳しく描かれていて興味深かったです ^^;

 さらにこの本には、大山捨松のことも、かなり詳しく描かれています。捨松は八重と同じ会津出身の女性で、津田梅子らと共に官費で10年間のアメリカ留学をした女子留学生の一人でした。帰国後、大山巌に見そめられて大山夫人となり、鹿鳴館の花として活躍しますが、夫の大山巌は薩摩の出身で、会津戦争の時には砲兵長として鶴ヶ城に砲弾を撃ち込んでいた張本人です。その時、八重だけでなく捨松も鶴ヶ城に籠城していたそうです。

 2011年の年末に観たNHKドラマの『坂の上の雲』の大山巌を思い出しながら、大山元帥にはそんな過去を持つ夫人がいたのかと思い、いろいろな人々の人生が絡み合っていることに、人の世の不思議さを感じました。

続・世界が一つになるために2013年01月24日 10時58分

 前回の記事について他所でコメントをいただきました。その返信に書いたことを、こちらにも転載します。


 「どうしても必要なお金(または物品)があり、それが与えられるよう祈ったら、24時間以内に届いた。その金品の送り主は、祈り手が祈った時刻よりも前に発送していた。」

 こういう実例がいくつもあることを私たちは聞いて知っていますね。これは祈りの世界では過去と現在と未来とが分離しているのではなく、絡み合っていることを示す好例だと思います。

 量子力学が支配するミクロの世界では、そもそも過去→現在→未来という時間の矢は存在しないようです。不確定性原理があるので、粒子の位置と速度とを同時に決定することができません。観測を行うと確定できますが、その確定した状態は最早ミクロの世界の現象ではなく、私たちが知っている日常の世界であるマクロの世界の出来事として確定されます。

 ミクロの粒子の状態は観測するまでは確定されません。観測されて確定した事は過去の出来事として変更することはできませんが、どうやら私たちの周囲は未だ観測していないもので溢れているようです。私たちが知っている物質は全体の5%しかないそうで、残りの95%は、未知の暗黒物質、暗黒エネルギーなのだそうです。

 ここから先は私の考えが混じりますが、私たちが知っている5%の物質の中でさえ、状態が観測できて確定しているものは、まだまだ一部ではないかと思います。そして残り95%は、全く確定していません。確定していない状態の物質には過去も未来もないでしょう。祈りが過去に届くように見えるのは、その未確定の部分が利用されているのではないか、と私は考えています。過去の歴史は確定していますが、それは目に見える部分だけであって、観測されていない部分では、今も絡み合っているということが言えるのではないかと思います。

 私たちが聖書を読んでイエスの時代の2千年前や、もっと以前のアブラハムやモーセの時代をそんなに昔のことと感じないのは、いまだ確定されていない状態の物質を神が支配しており、その神を通して聖書の時代と現代の私たちとが絡み合っているからではないか、神が今も生きておられるとは、そういうことではないかと思います。

 以上のことは、「そういう考え方もあるだろうね」の一言で片付けられてしまうようなことと思われるかもしれませんが、そうではありません。ヨハネの福音書が時間の絡み合いを示しています。ヨハネの福音書は旧約の時代、イエスの時代、使徒の時代、記者ヨハネの執筆時代、そして読者の時代が絡み合った構造になっています。このヨハネの福音書の構造が現代に至るまで気付かれなかったのは何故か、これまで私はずっと悩ましく考え続けて来ましたが、ようやく結論が出つつあります。それは、量子力学の実験技術や宇宙の観測技術が発達した現代を待たなければ、ヨハネが預言した時間の絡み合いについて正しく理解されないからではないか、いま私はそのように考え始めています。

(参考図書:D.アーリー『最も祝福された21人の祈り』、橋本淳一郎『時間はどこで生まれるのか』、B.グリーン『宇宙を織りなすもの・上』、村山斉『宇宙は本当にひとつなのか』)

世界が一つになるために2013年01月22日 11時35分


 アルジェリアの事件では犯人側だけではなく人質側でも多くの方々が死亡したことが明らかになって来ました。

 いま世界は平和からどんどん遠ざかり、混乱の方向へと向かっているようです。そして主要な原因の一つに宗教間の対立があることは残念でなりません。今のままではこの対立を無くすことは極めて難しいでしょう。しかし、私は大きな希望を持っています。その希望の拠り所は、私たちの大半が理性においては誤った時間観を持っている可能性が高いということです。時間とはどのようなものかについて全人類が考え直す機会を持つなら、少なくとも今よりは平和な世界が実現できるであろうという希望を私は持っています。誤った時間観のもとで宗教を理解するなら、その宗教に対する理解も間違っている可能性が高いのです。キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も仏教徒も、ほとんどの者が誤った時間観を持っており、従って自分の宗教をあまり正しく理解できていないのではないかと思います。

 長い時間、静かな環境に身を置いて神仏に祈る時、或いは瞑想する時、私たちは時間を忘れます。しかし、祈り・瞑想を終えて日常に戻って行く時、時間に縛られた生活を再開します。何時何分までに何々をしなければならない、そういう忙しい生活に戻ります。祈り、瞑想している時の時間と忙しく働いている時の時間と、どちらの時間が本来の時間に近いでしょうか。それは祈り・瞑想している時でしょう(ルカ10:38~42)。それなのに、私たちが宗教について理屈をこねる時は祈り・瞑想から離れている時です。すると誤った時間観の中で宗教について考察することになります。ここに間違いが生じる原因があるように思います。私たちが祈り・瞑想する時、私たちはどのような時間の中にいるのか、まずはこの点を明らかにして行くことが、少しでも宗教間の対立を無くしていく道筋ではないだろうかと私は考えます。

 アインシュタインの相対性理論と量子力学は、19世紀までの時間・空間観を修正する必要があることを示しました。しかし、私たちの日常生活における時間・空間観は相変わらず19世紀までのままであると言えるでしょう。相対性理論と量子力学が示す時間と空間はどのようなものかを知るのに、上の写真で示したブライアン・グリーン著『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』・上巻はとても役に立つと思います。そして祈り・瞑想している時の時間がどのようなものかを考察する上で良いヒントを与えてくれるだろうと思います。

 19世紀までの時間・空間観を否定した上で、それぞれが信じる宗教の正典に書かれている内容について思いを巡らすなら、きっと大きな成果が得られるであろうと思います。私はキリスト教を信じていますから、聖書を19世紀までの時間・空間観を排して読むようにして、既に大いに恵まれています。今までの私の説明の仕方が下手であったために、周囲の人々に十分に理解していただくには至っていませんが、これからも粘り強く、このことを続けて行こうと思います。そして、そのことにより世界が一つになる方向に向かって行って欲しいと願っています。