もうすぐ帰院2012年02月28日 19時34分

 次の日曜日の3月4日の礼拝で説教をしたら、5日にここを出て横浜の神学院に戻り、9日の卒業式と19~21日の教団の年会に出席します。
 横浜の神学院では、わずかな期間ですが、久々で寮生活に戻ります。寮にいた頃は、早く寮を出たくて仕方がありませんでしたが、今回はわずかな期間を寮で過ごせることを楽しみにしています。
 卒論も、多くの皆さんのお祈りに支えられて無事に書き終えることができ、昨日、神学院に郵送しました。タイトルは、

  キリスト教正典の原型「ヨハネの福音書」
― 父・御子・御霊が【創世記~黙示録】を一体にした書 ―

です。読みたい方がいらしたら、←左欄下方の「S.KOJIMAのメールアドレス」にあるアドレス宛に、件名に「卒論ファイル希望」と書いてメールを下されば、PDFファイルをお送りします。実名でメールを下されば感謝です。
 聖書の知識がほとんどない方には難しいと思いますが、聖書知識をある程度持っている方には、多くの方に読んでいただきたいと思っています。いずれはもっと目立つお知らせをしようと思いますが、とりあえずは、この程度の地味なお知らせにとどめて、少し様子を見ようと思います。
 よろしくお願いいたします。

卒論執筆中です2011年11月14日 20時44分

 ブログ更新の間隔が開き気味になってしまっていますが、卒論の執筆を本格的に始めたからです。説教原稿を作ったり、教会会計の事務作業をしたり、その他にもいろいろやることがあるので、卒論だけになかなか集中できませんが、何とか年内に第1稿を書き上げて先生に見てもらい、1月中に第2稿を書き上げ、2月に完成稿を出せれば良いなあ、と思っています。しかし、グズグズしていると、1月下旬に第1稿をやっとで書き上げ、第2稿が完成稿ということになってしまうかもしれません。

 9月と10月にタイトルと構成で悩みに悩みました。良いと思った構想も2,3日後にはつまらなく思えてやり直し、ということの繰り返しでした。しかし、半月ほど前にようやくタイトルと構成が固まり、本文の執筆もある程度進めることが出来たので、もう始めからやり直すことはしないつもりです。

   『ヨハネ3:16はなぜ3章にあるのか?』
―― ヨハネの福音書の奥義を読み解く ――

 これがタイトルとサブタイトルです。神学校の関係者だけでなく、お世話になった教会の方々にも読んでもらいたいと思うので、研究論文のスタイルではなく、もう少し読みやすい形にしています。それで、タイトルもこのようにしました。お気付きの方もあるかもしれませんが、このタイトルは山田真哉著『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』を参考にしました ^^;

 この卒論は当初は、聖書を読んだことがない人にも読んでもらえるものにしたいと思って、少し書いてみたりもしましたが、それはさすがに難しく、あまりに初心者向きにすると、「ヨハネの福音書の奥義」という焦点がボケてしまうと思ったので、今回は断念することにしました。ですから、聖書のことをある程度知っている人が対象です。

 しかし、聖書を「かなり」知っている人でなく、「ある程度」の人にも興味を持って読んでもらうには、大胆な構成が必要だと思い、今回、多くの人に愛されているヨハネ3章16節を入口と出口に持ってくることにしました。このことで、私自身のヨハネ3:16への理解もまた一段と深まりましたので、この構成にして良かったと思っています。

 いや~、ヨハネ3:16は、本当に深いですね。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

姫路に来ました2011年05月11日 08時36分

 8日の日曜日の朝に姫路に来ました。そのまま姫路教会に住み込み、たぶん来年の卒業式の頃まで、神学校のインターン実習生として、ここで過ごします。

 前回、『阪急電車』の日記を書いてから、まだ2週間しかたっていないのに、この映画を見たのがずっと昔のような気がします。

 この2週間の最初の1週間は京都で4月の教会の会計の締め(初めてなので大変でした)、新しく着任した牧師先生への諸事の引き継ぎ、引越し荷物の梱包・搬出をし、京都を離れた後の1週間は大阪・奈良・静岡・名古屋に行き、そして姫路に来ました。
 姫路に来てからも、引越し荷物の搬入・荷解き、必要な物品の購入やこちらでの祈祷会・礼拝説教の準備など、いろいろあって、本当に『阪急電車』を見たのが、遥か昔のような気がします。

 少し落ち着いたら、播州赤穂に行き、忠臣蔵ゆかりの地を歩き、今年の初めに『最後の忠臣蔵』がきっかけで考察を始めた、「主に仕える」という点における『武士道』とキリスト教の類似性について、さらに思いを巡らせたく思っています ^^

犬たちともお別れ2011年03月28日 11時31分


 地震の影響で、すぐに移動できなくなった先生が着任するまでの間の約1~2ヶ月、京都の教会で礼拝・祈祷会などの御用を務めることになりました。
 そのため、通常は4月の後半からであるインターン実習が早まりました。先ほど、引越し荷物を搬出しました。今夜は静岡に一泊し、明日の朝、京都に移動します。京都に行くように言われてからバタバタと過ごしたため、関東の皆さんにはきちんとした挨拶をせずに旅立ってしまいます。申し訳ありません。時期は未定ですが、5月の後半ぐらいからは姫路に行き、今年度いっぱいそこで過ごします。関西を通るとき、もしお時間があったら、声を掛けてください。
 きょうの午後、静岡に向かいます。神学院にいる3頭の犬たちともお別れです。

 昨日の高津教会での礼拝で、インターンシップ出発前のお証しをしたので、原稿を掲載します。

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 おはようございます。28日に神学院で荷物を搬出してから静岡に一泊し、いよいよ29日に最初のインターン実習の地である京都に向うことになりました。
最初にみことばをお読みします。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24、マルコ8:34)

 神学院での三年間、自分は果たして迫害に遭っても宣教を続けることができるだろうかと、よく考えました。殉教を厭わない覚悟はあるだろうかと自問自答しました。最初の頃は、このことを考えるだけで恐ろしくなりましたが、イエス・キリストとの関係が深まるにつれ、十字架を負う覚悟が次第に固まっていきました。とは言え、いざとなったらペテロのように逃げ出すかもしれないという思いはいつも頭の片隅にあり、ずる賢く逃げ道を用意していました。平和な日本にいると、自分の命を懸けて何かを行う覚悟を持つのは難しいのだと自分に言い訳をしていました。
 しかし、3月11日の大震災で状況は一変しました。数万人の死者・行方不明者があり、何十万人もの人々が苦しみと悲しみと不安の中に今なお置かれています。イエス・キリストはおっしゃいました。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5:4)。

 主イエスは慰め主です。主イエスはご自身が十字架で

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)

と叫ぶほどの苦しみと悲しみの中を通った方です。だからこそ人々を慰めることができます。しかしこのことを、十字架を負う覚悟ができていない者がいくら説いても、人々には届かないでしょう。人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために私は逃げ道への退路を完全に絶つ覚悟を持ってインターンシップの地に向かいます。

 私がこのような覚悟を決めたのは、3年前の出来事が、まさに3年後の今日のためだったのだと、強烈に感じているからです。3年前、傲慢の塊(かたまり)になっていた私はイエス・キリストによって粉々に粉砕され、大学で働き続ける道を閉ざされました。そうして粉々に粉砕された時、私の心の中にイエス・キリストのしもべとして働きたいという思いが芽生え始め、急速に大きくなっていきました。
 インターンシップを前にしたこの1週間、私は引越しのための荷造りをしていましたが、そうすると、3年前のことを思い出させるものが、いろいろと出てくるんですね。それらを見ているうちに、ついつい、恐いもの見たさで、3年前の今頃に私が職場の人たちに出した謝罪のメールを3年ぶりで開いて見てしまいました。そうしたら、本当に私はボロボロの状態で、自分のことながら、可哀想で胸が痛みました(笑)
 しかし、そうした中でイエス・キリストは私に牧師になる道を示してくださり、導いてくださいました。3年前の手帳によると、私は2008年の3月30日、教団の年会の最終日に青山学院で藤本先生に相談したいことがあると話し、翌日の3月31日の夜6:30に、そこの後ろの応接室で献身をしたいという話をしました。以来3年間、神様は私を聖宣神学院で育ててくれたわけですが、この3年間の歩みが、また大変に不思議です。私は2年生の後半からヨハネの福音書を個人的に学ぶよう導かれ、この書に魅了されてきました。そして、この学びの成果をまとめたレポートを今年の2月14日にメールで藤本先生に送りました。そのレポートのタイトルは、
 「黙示録の続編としてのヨハネ福音書の入れ子式シェルター」
です。このレポートの中で私は、ヨハネの福音書は「シェルター構造」をしていることを指摘しました。終末の主の再臨に備えてこの霊的なシェルターの中にとどまるなら、聖霊に満たされ続けることができますから、この中にいる人は滅ぼされることはありません。その霊的なシェルターがどこかと言うと、ヨハネ7章37~39節です。今年の元旦礼拝の時、私はやはり、この高津教会でお証しをしましたが、その時、ヨハネ7章38節にとどまるなら、聖霊に満たされ続けることができると言いました。その前後の37節と39節を含んだ箇所がシェルターです。お読みします。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:37~39)

 今回のような大災害があればクリスチャンでもノン・クリスチャンでも同じように災害に巻き込まれ、悪くすれば死にも至ります。しかし、ヨハネ7章37~39節の霊的なシェルターにとどまるなら、たとえ肉体は滅んだとしても、魂は救われます。
 3年前、私は霊的な大地震に遭い、粉々に粉砕され、伝道者になるよう召されました。それはまさに3年後の今日(こんにち)、大災害に遭った日本の人々に向って、霊的なシェルターに避難することを勧めるためであったのだと、いま私は感じています。
 人々に霊的なシェルターへの避難を呼び掛けること、このこともまた、私が十字架を負う覚悟を持っていなければ、伝わらないでしょう。逃げ道への退路を完全に絶つ覚悟を持って、これから私はインターンシップの地に向かいます。
 高津教会の皆様方には、この3年間、お祈りとサポートを本当にどうもありがとうございました。これからも、お祈りをもって私を支えてくださいますよう、どうかよろしくお願いいたします。

兄弟愛を感じる教会奉仕2011年01月27日 09時14分

 神学院の木曜朝の食卓でのショート・ディボーション(5分間)の順番がまた回ってきました。3年生としては、これが最後であり、4年生になったら神学院を離れてインターン実習の地に向かうことと思いますので、これが最後になる可能性が大きいと思っています。神学院での3年間の学びの締めくくりとして、ふさわしいものにしたいと思って原稿を作りました。読んでみていただければ感謝です。よろしくお願いいたします。

「兄弟愛を感じる教会奉仕」

聖書箇所:ローマ人への手紙12章10,11節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」

 皆さんは、俵万智の『サラダ記念日』という歌集をご存知でしょうか。1987年に発行され、短歌の本としては空前の280万部の大ベストセラーを記録した歌集です。その『サラダ記念日』の中に次のような短歌があります。

 「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人のいる あたたかさ

 作者はもしかしたらこの歌を恋愛の歌として詠んだかもしれません。しかし、この歌を味わう私たちは必ずしも恋愛の歌としてとらえる必要はないと思います。

 「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人のいる あたたかさ

 私は最近、船橋教会の夜の路傍伝道で、この短歌と同じような体験をしています。寒い中で伝道する私たちは、傍から見ると、もしかしたら、寒中水泳や武道の寒稽古などのような苦行を行っているようにも見えるかもしれません。しかし、路傍伝道を行っている私たちは不思議な連帯感でつながっており、そこに暖かいものを感じています。路傍伝道が終わって教会に戻り、暖かい飲み物を飲みながら、「きょうは寒かったですね~」などと語り合う時、とても暖かい気持ちになります。そこにイエス・キリストがいらっしゃり、私たちをねぎらってくださっていることを感じます。

 このことから私は次のことを考えました。

 奉仕が信仰的なものであるか、苦行的なものであるかの差は紙一重である。その紙一重の差は、奉仕しているお互いの中に兄弟愛があるかないかで決まるのではないか、ということです。きょうの聖書箇所で言えば、兄弟愛がなければ、勤勉な奉仕をしても、律法主義的な苦行になってしまう、ということです。そこに愛があり、イエス・キリストの臨在を感ずればこそ、霊に燃やされて、主に仕えることができるのではないでしょうか。信仰と苦行の分岐点における差は紙一重であっても、その先は大きく異なってきます。

 このように、教会における奉仕では、そこにイエス・キリストを感じるかどうかは、決定的に重要なことです。

 ここで、ちょっと視点を変えて、冬のバードウォッチングの会のことを考えてみます。私は教会に通うようになる前、日曜日はよくこのバードウォッチングの会に参加していました。この会の第一の目的は鳥を見ることです。いくら参加者同士の交流ができても、もし鳥をぜんぜん見ることができなかったなら、いくら「寒いですね」とお互いに言い合っても、それはただの苦行です。そこにイエス・キリストがいないからです。

 しかし、冬の路傍伝道では、説教に誰一人立ち止まってくれなくても、チラシをほとんど受け取ってもらえなかったとしても、「寒いですね」と言い合うと、心と体が暖まります。そこに兄弟愛があり、イエス・キリストがいらっしゃるからです。

 私たちは何年生であっても、やがてこの神学院を卒業し、教会でイエス・キリストを宣べ伝える働きにつきます。その時、私たちは、聖書の中のイエス・キリストだけではなく、今も生きておられ、私たちと共にいてくださるイエス・キリストの臨在をしっかりと伝えていかなければなりません。いまだイエス・キリストの恵みを知らない方々に、イエス・キリストの臨在を伝えるのは本当に難しいことだと思います。しかし、きょうご紹介した短歌、

 「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人のいる あたたかさ

が、とても重要なヒントになると思います。教会の中に存在する兄弟愛がイエス・キリストの臨在に気付かせてくれるのです。

 私たちはこれから牧会するに当たって、教会の中に兄弟愛がどれくらいあるだろうかということに、絶えず気を配っていく必要があると思います。

 初めて教会に来て、イエス・キリストの恵みをまだ知らない方でも、不思議なあたたかさを感じ、すぐまた来たくなる教会、そうして、あまり時をおかずにイエス・キリストの臨在に気付くことができる、そんな教会を聖霊に教えを請いながら目指していけたら、と思います。

自己の開城2011年01月15日 06時30分

(クリックすると拡大表示されます)

 最近の日記で、『忠臣蔵』と『武士道』に関連して「自分を捨てる」という表現を何度か使いました。分かりにくい上に、「マインド・コントロール」という誤解を招く恐れもあるかもしれませんので、もう少し説明してみたく思います。

 「自分を捨てる」とは、「自己を明け渡す」ということですが、私はこれを『忠臣蔵』の赤穂城開城や『篤姫』の江戸城開城にちなんで、「自己の開城」とこれから呼んでみようと思います。そのほうが日本人の情緒に当てはまりやすい気がするからです ^^

 「自己の開城」とは、イエス・キリストの霊である聖霊に自己の支配権を委ねることです。イエス・キリストは全知全能の神ですから、絶対に誤った方向に導くことはありません。ただし、自我が残っていると誤った方向に進みます。人間は不完全ですから、開城したつもりでも時に自我が顔を出しますが、一番大切なことは、ともかくもイエス・キリストに対して白旗を揚げ、全面降伏して、開城する意志を示すことです。そうすればイエス・キリストによる心の支配が始まり、たまに自我が出て道を誤ったとしても、すぐに修正してくださいます。

 「自己の開城」は「マインド・コントロール」とは全く異なります。「マインド・コントロール」は教えられた範囲内のことしか考えられなくなるのだと思いますが、自己を明け渡すと、かえって自分らしくなります。その証拠に、自己を明け渡すことを「自己の開城」と呼ぶことにしたのは私の発想であり、今まで私は聞いたことがありません。また、このブログで連載中の『世界の中心で、お風呂に入る』も私の全くのオリジナルであり、ここで展開しているヨハネの福音書の入れ子構造の解釈は、私も随分たくさんの英語の注解書を買い漁りましたが、どこにも書いていない解釈です。

 自分を捨てて自己を明け渡すと、かえって自分らしくなれるとは完全にパラドックスの世界です。パラドックスでがあるゆえに理詰めでは決して分からず、体験してみなくては絶対に分からない世界です。キリスト教はこのようなパラドックスに満ちています。イエス・キリストの十字架自体がパラドックスだからです。神が死刑になって死んだ後に甦って人に新たな生命を与えるなど、理詰めでは考えられない話でしょう。

 上の写真はアメリカ人のD.A.シーモンズが書いた『子供服を着たクリスチャン』(河村従彦 訳)という信仰書の中で「自己の明け渡し」について書かれた箇所です。残念ですが、クリスチャンの国のアメリカでも「自己の開城」をしてイエス・キリストに支配権を委ねたクリスチャンは少数派であるため、このような本が書かれるのです。世界におけるクリスチャン人口は多いですから、もし全てのクリスチャンが「自己の開城」をしたなら、世界はもっともっと平和になるはずなのですが・・・

 しかし、この本にも書いてある通り、「自己の開城」をすることは自己の究極的な危機であるがゆえに、本当に難しいことです。私も神学校に入る前は、自分を開城するなど考えられないことでした。神学校1年生の時もそうでした。2年生になってもそうでした。しかし、神学校に入ってもなお自分を守り、城を開け渡さないとは何たる不信仰であるかと内なる声に責められ続け、打ちのめされ、泣く泣く白旗を揚げて開城しました。この開城した時の2年生の秋は本当に敗北感にまみれてみじめでした。けれども開城してまもなく、素晴らしい世界へと導かれたのでした。

 この本を訳した河村先生は、キリスト教のパラドックスについて私が知る限りでは一番深く理解している先生だと思います。先生によるキリスト教の教理の授業では、パラドックスであるがゆえに今まで私たちが気付かなかったことを、たくさん学ぶことができ、本当に勉強になりました。

焼き芋2010年12月16日 14時18分



 ちょっと、ひと息。

 きょうは神学院の駐車場で落ち葉を焼きながら焼き芋をしています ^^

 今年の関東産のさつま芋は、猛暑の影響か、長細いのが多いんだそうですね。

 焼きたての芋↓ はホクホクしてて、ホントにおいしかったです!

セミ22010年10月16日 13時10分

 神学院の林では、きょうもセミが鳴いています ^^

 いつまで鳴くか注目(注耳?)していたく思います。

 でも、明日からの日曜、月曜、火曜の日中は神学院にいないから、今日のセミが今年の聞き納めかな~、と思っています。

ヨハネ神学攻略の鍵の節2010年10月12日 23時15分

 「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(ヨハネの福音書12:31)

 昨夜以来、このヨハネ12章31節について思い巡らしています。

 新約聖書のヨハネの福音書の神学を理解する上で、この節は非常に重要な鍵を握っていることに気付きました。

 ポイントは、「この世を支配する者」をどう理解するかです。

 注解書のこの節の説明を見ると、どの注解書にも「この世を支配する者」とは「サタン(悪魔)」のことだと書いてあります。

 確かにそうなのでしょう。でも、それでは「悪」の全てを含むことになりますから、このヨハネの福音書の神学が拡散してボンヤリしたものになってしまいます。ヨハネの福音書の解釈が多様に広がり過ぎているのは、そのせいではないかということに気付きました。

 記者ヨハネは、単純に「この世を支配する者」=「悪魔」とはせず、もっと絞り込んでいるのではないか、というのが今の私の考えです。何に絞り込まれているかと言うと、そのヒントは「追い出す」という同じ動詞が使われている2章15節にあります。

「(イエスは)羊も牛もみな、宮から追い出し、・・・」(ヨハネ2:15)

 つまり「神殿至上主義者」です。神殿至上主義という悪は悪魔が与えているわけですから、突き詰めれば悪魔と同じことですが、「この世を支配する者」を「神殿至上主義者」と考えれば、ヨハネの神学が格段にシャープに浮き上がって来ます。

 神殿の中心は聖所であり至聖所ですから、つまり「ヨハネの神学とは聖(ホーリネス)の神学」であると焦点が極めてシャープになります。

 焦点がシャープになる事例の最たるものとして、11章のラザロの復活が挙げられます。この11章は本当に様々な解釈が可能で、ヨハネの福音書を分かりにくいものにしていると思いますが、「聖(ホーリネス)」に焦点を合わせると、次のような解釈になります。

 イエスが生き返らせたラザロは死後4日もたっており、マルタがイエスに

「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(ヨハネ11:39)

と言ったほどでした。旧約聖書によれば、死体は汚れたものですから、まして臭くなった死体など汚れたものの中でも最悪のものと言ってよいでしょう。その最悪に汚れたものでさえ、イエスは生き返らせることで、きよめる力を持っているのだ、という解釈が成り立ちます。
  それはつまり、人をきよめることができるのは、神殿に捧げる動物のいけにえではなくイエス・キリストである、という強烈なメッセージを、ラザロの復活は放っているのだということです。

 いかがでしょうか。
 ヨハネの神学を聖(ホーリネス)で整理する作業を始めてみようかと、いま思い始めています。

 ヨハネの学びが、ますます楽しくなってきました ^^

セミ2010年10月12日 13時53分

 きょうも神学院の林でセミ(アブラゼミ)が鳴きました。

 週末の雨でセミも終わりかなと思っていましたが、今週に入って、また鳴き始めました。

 昨年も10月の第一週は鳴いていましたが、さすがに10日過ぎには鳴かなくなっていたと思います。

 私としては、このまま毎日セミが鳴き続けてくれ、冬が来ずにそのまま春になって欲しいです。

 以前は冬は冬で、それなりの楽しみがあったので、冬も特に嫌いではありませんでしたが、今はそれができないので、冬は嫌いです ^^;