Spiritual Jesus (霊的イエス)2015年08月18日 21時13分

 8月6日の広島の原爆の日に英語のウェブサイトの"Spiritual Jesus"(霊的イエス)
 http://www.spiritual-jesus.com/
を立ち上げました。
 英語でのページ作りが一段落したら日本語のページの作成も考えています。
 よろしくお願いします。

戦災の廃墟の前で憤り、涙を流したイエス2015年07月03日 11時11分

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『七十年目の試練』(3)
 戦争は軍事力によっては無くなりません。戦争を無くすには私たちが互いに愛し合えるようにならなければなりません。そのためには、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言ったイエスについての理解を深めることが、どうしても必要です。そしてイエスを深く知るためには、紀元30年頃のイエスの言動を記したマタイ・マルコ・ルカの福音書だけでなく、アブラハムが生まれる前(ヨハネ8:58)の初めからいる(ヨハネ1:1)イエスについて記されたヨハネの福音書を霊的なレベルで深く知ることが、やはりどうしても必要です。
 前回のノートでも短く触れましたが、ヨハネの福音書11章のイエスは戦災で廃墟と化したエルサレムの前で涙を流しています。ヨハネ11章で肉のイエスはラザロの墓の前にいますが、霊のイエスはバビロン捕囚から帰還した人々と共に廃墟のエルサレムの前におり、また再臨前の戦争の廃墟の前にいます。肉のイエスは紀元30年頃にいますが、霊のイエスは天地創造以前の初めから現代、そして未来の終末に至るまでのあらゆる時代にいます。
 上の「ヨハネの福音書の多重時間構造」の図に示すように、霊のイエスはヨハネ1~11章においては「旧約聖書の時代」と「福音書の時代」と「使徒の働きの時代」の三つの時間の重なりの中にいて御父と聖霊と共にいます。そして、この三つの時間はヨハネ12章で一つに合流し、13章以降で霊のイエスはヨハネの福音書の読者と共にいます。この福音書の読者は「愛弟子」としてイエスのすぐそばの特等席でイエスの話を聞き、十字架を霊的に目撃します。このイエスの愛弟子である読者にはもちろん現代の私たちも含まれており、さらに私たちがこれから伝える次世代の読者たちも含まれています。
 ヨハネ1~11章の三つの時間の重なりの例としては、例えばヨハネ4章で肉のイエスはサマリヤ地方にいますが、霊のイエスは旧約聖書のエリヤの時代の北王国におり、また同時に使徒の働き8章でピリポがサマリヤ人に伝道した時代のサマリヤにもいます。或いはヨハネ9章で肉のイエスは盲人の目を開けましたが、霊のイエスは旧約聖書のヨシヤ王の時代に律法の書が発見されて人々の目が開かれた現場にいます。また同時にダマスコ途上で目が見えなくなったパウロの目からウロコが落ちて目が見えるようになった現場にもいました。
 ヨハネ1~11章に肉のイエスと共に霊のイエスが「旧約の時代」と「使徒の時代」にも同時にいることは、たまたまそのように見えるのではありません。「旧約の時代」で言えば霊のイエスはヨハネ1章では創世記の時代におり、2章では出エジプト記の時代に、3章では出エジプト記~サムエル記の時代に、4章と6章では北王国の時代に、7章ではヒゼキヤ王の時代に、8章ではマナセ・アモン王の時代、9章ではヨシヤ王の時代に、10章では南王国が滅亡に向かった時代に、11章ではエルサレム再建の時代に霊のイエスがいるというように、時代順に説明付けすることができます。
 また「使徒の時代」で言えばヨハネ2章のカナの婚礼でガリラヤ人の弟子たちがイエスを信じたこと(ヨハネ2:11)はガリラヤ人への聖霊の注ぎ(使徒2:2)のことであり、またエルサレムの人々がイエスを信じたこと(ヨハネ2:23)はエルサレムにいたユダヤ人たちがバプテスマを受けたこと(使徒2:41)であって霊のイエスがその現場にいたことを示します。同様にヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエスを信じたこと(ヨハネ4:39)はサマリヤ人が聖霊を受けたこと(使徒8:17)であり、王室の役人と彼の家族がイエスを信じたこと(ヨハネ4:53)は異邦人のコルネリオと彼の親族たちに聖霊が下ったこと(使徒10:44)であって霊のイエスがその現場にいたことを示します。
 このように、ヨハネ1~11章で霊のイエスが時間を超越してあらゆる時代に存在することが霊的に見えるように読者がなるなら、その読者はヨハネ13章以降で「愛弟子」としてイエスのすぐそばの特等席で十字架を霊的に目撃し、その霊的な体験を次世代の「愛弟子」たちに継承して行くことになります。
 国際テロ組織が勢力を拡大して混迷の度を深めている世界、そして再び戦争ができる国になろうとしている日本の中にあって私たちが「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というイエスの教えを守ることができるよう、紀元30年頃の肉のイエスだけではなく、あらゆる時代にいる霊のイエスについての理解を私たちは深めていかなければならないと思います。そして戦災による廃墟の前で憤り、涙を流したイエスの思いを霊的に共有して、私たちもまたこの霊的な体験を次世代に継承して行きたいと思います。(続く)

『七十年目の試練』(2)2015年06月26日 11時09分

 前回のノートの終わりのほうで、戦争体験を継承する私たちは体験者の証言を霊の領域に落とし込んで感じ取ることが大切であることを書きました。これは「私自身の経験」に基づいて書いたことですので、わかりにくかったことと思います。今回はこのことについて説明します。
 「私自身の経験」とは、広島の原爆資料館を訪れた時に感じたことが教会に通う前と後とでは大きく違ったという経験と、ヨハネの福音書のイエスが霊的にはどこにいるのかが見えるようになったという経験です。これらの二つの経験は密接に関連しています。
 私は2001年に教会に通い始め、その年のクリスマスに洗礼を受けました。そして2005年の夏、私はクリスチャンになってから初めて広島の原爆資料館を訪れました。それまでにも私は2回、原爆資料館を訪れたことがありましたが、それはクリスチャンになる以前のことでした。2005年に原爆資料館を訪れた時、私は過去2回とは明らかに違うことを感じました。この時の私は、人類がこれほどまでに巨大な悪に手を染め得るのかと思い、呆然としました。人間が抱える罪の底知れぬ深さに私は打ちのめされました。
 クリスチャンになる前の私は専ら原爆という恐ろしい核兵器がもたらす悲惨な被害に目を向けていたと思います。しかし2005年の訪問時においては、私は「人間の罪」の方に心の目を向けていました。それは教会で聖書を学ぶようになって私が「人間の罪」に心の目が向くようになっていたからでしょう。人間の心の奥深くに巣くっている暗い部分が見えるか見えないかは霊的な領域の問題に属します。これは霊的な目覚めが無ければ、なかなか見えてこない領域です。
 さてヨハネの福音書の底流にも「人間の罪」の問題があります。旧約聖書はイスラエルの民の心がほとんどの時代において罪深い状態にあったことを記しています。そして新約聖書のヨハネの福音書のイエスは旧約の時代のイスラエルの民の罪がエルサレムの滅亡をもたらしたことに霊の憤りを感じ、廃墟と化したエルサレムの前で涙を流しています。ヨハネの福音書ではイエスは「肉的」には紀元30年頃にいますが、「霊的」には旧約の時代と使徒の時代にいます。ヨハネ11章35節でのイエスは「肉的」にはラザロの墓の前にいますが、「霊的」には廃墟となったエルサレムの前にいて涙を流しています(このことの説明は次回以降にします)。
 前回のノートで引用したヨハネの手紙第一の1章3節でヨハネは私たち読者を「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に招いています。この招きに応じて交わりの中に入るなら、イエスが人類の罪がもたらす悲惨な結果に憤り、そして涙を流している様子が霊的に見えて来ます。
 70年前の戦争の悲惨な体験を継承する場合も、私たちは体験者の証言を霊の領域で感じ取ることが大切だと思います。私たちの大半が平和を望んでいるのに平和が実現しないのは、人類が深い領域で罪の暗闇を抱え込んでいるからです。これは永遠の課題です。永遠の課題であるが故にイエスの教えが脈々と伝わって来たとも言えるのでしょう。
 戦争体験の証言の継承も、単に表層に見える悲惨さだけを伝えるのでなく、人間が奥深い領域に持つ罪の暗闇の部分にもしっかりと心の目を向けて、伝えて行きたいと思います。(続く)

『七十年目の試練』(1)2015年06月25日 11時04分

 戦後70年が経って戦争を直接経験した証人が減っており、それに反比例するかのように日本では戦争の危険性が増しています。平和を守るために私たちは証人による目撃証言をしっかりと継承して行かなければなりません。
 イエス・キリストの地上における宣教から70年近くが経った1世紀末のキリスト教会においても、イエスの証人がいなくなることは大きな問題であったことでしょう。教会がイエスに関する証言をどのように継承したのか、現代の私たちが学ぶべき点があるのではないでしょうか。
 1世紀の末頃に書かれたと考えられるヨハネの手紙第一とヨハネの福音書からは、記者がイエスの目撃証言の継承を強く意識していた様子が沸々と湧き立って来ています。ここでは、それらの箇所を引用しながら、私たちが戦争体験の証言を継承して行く上で学ぶべき点について考えてみたいと思います。
 まずヨハネの手紙第一の冒頭から引用します。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」(Ⅰヨハネ1:1)

 ここで記者のヨハネは、自分たちがイエスに直接会った証人であることを証ししています。
 そしてヨハネは手紙の読者を、自分たちの「交わり」に招いています。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:3)

 ヨハネの手紙第一が書かれたのが1世紀の末頃だとすれば、イエスが天に昇ってから70年近くが経っています。ヨハネが読者を地上での宣教を終えたイエスと天の御父との「交わり」に招いているということは、これは「霊的な交わり」、つまり「霊の領域での交流」であるということです。
 21世紀の今日、イエスの地上での宣教から二千年が経ちました。その遥か昔のイエスの教えが今日でも生き生きと伝えられているのは、霊の領域のことだからです。霊の領域のことは時間を超越します。ですから戦争体験を継承する私たちも、証言を霊の領域に落とし込んで感じ取ることが大切だと思います。
 これから、何回かにわたってヨハネの手紙第一とヨハネの福音書の霊の領域の事柄について書いて行きたいと思います。そしてできれば、その都度、戦争体験の継承の問題についても考えることができたらと思います。

愛弟子を救出しよう2014年12月18日 07時54分

 いま私は駿河湾と富士山が良く見える見晴らしの良い海岸のすぐ近くに住んでいます。恥ずかしながら私はここへ来て初めて月の軌道が太陽の軌道とあまり変わらないことを知りました。太陽は季節変動はあるにしても、同じ時刻にはいつもだいたい同じ場所にあります。しかし月は毎日違う位置にあります。

 建物の隙間からしか月を見ていなかった時は、毎日違う月の位置をつなげて考えることができませんでしたから、月の軌道と太陽の軌道との関係に全く気付いていませんでした。しかしこちらでは視界をさえぎる建物がない場所で月を見ていますから、月の軌道をつなげて考えることができるようになりました。

 私たちは多くの場合、建物の隙間から月を見るようにしか、物事を見ていないのではないでしょうか。全体のつながりを考えることなしに隙間の月だけ見て、様々なことを論じていないでしょうか。聖書の読み方も同様です。聖書の各書・章節をバラバラにして読み、全体のつながりはあまり考えられません。

 聖書がバラバラに読まれているため、ヨハネの福音書のイエスが旧約聖書の時代、福音書の時代、使徒の働きの時代を自由に行き来していることに気付かれていません。イエスの愛弟子もまた細切れにされた時間の中で1世紀に閉じ込められています。私たちは、この愛弟子を現代に救出しなければなりません。

2014クリスマス行事のご案内2014年12月11日 08時54分


12月14日(日)クリスマスの集い 午後1時半~
12月21日(日)クリスマス礼拝  午前10時半~
12月24日(水)キャンドル・サービス 午後7時~

場所:インマヌエル沼津教会
http://blog.goo.ne.jp/numazu-c

聖書はなぜ平和の役に立っていないのか2014年10月16日 10時45分

 聖書が平和を説いているのに、なぜ世界は平和にならないのか。聖書はなぜ平和の役に立っていないのか。このテーマについて、ここ何か月か考えて来たが、当初は全く考えていなかった方向で考えがまとまりつつある。

 聖書が平和の役に立っていないのは、聖書を実生活の役に立たせようとする傾向が強すぎるからではないか。実生活の役とは、例えば日常生活の道徳の規範にすることだ。これは聖書の正しい用い方ではあるが、これが過ぎると聖書が描く壮大な世界に思いが行かなくなり、却って聖書の読者の視野を狭める。

 このように考えるようになったきっかけは、2014年10月8日付の朝日新聞デジタルで次のような記事を目にしたことだ。これは青色LEDの作製に成功した日本人研究者にノーベル物理学賞が授与されることになったことに対する、小柴昌俊氏(2002年ノーベル物理学賞受賞者)のコメントである。

「一番うらやましいのが実生活に役立つ発明で受賞されること。私は史上はじめて自然に発生したニュートリノの観測に成功したことで受賞しましたが、これと言って実生活にお役に立ったという実感がありません。自分の発明で人々が幸せになる。その功績でノーベル賞をいただく。このうえない喜びでしょうね。」

 この記事を読んだ時に私は、「小柴先生の研究は平和の役に立っているのに」と思った。小柴氏は宇宙の遥か彼方で起きた超新星爆発で発生したニュートリノを観測した。壮大な宇宙に思いを馳せている時、人は狭い地球上で戦争をすることなど考えないであろう。それゆえ小柴氏の研究は平和に貢献しているのだ。

 飛行機のことを考えてみよう。もし飛行機が空中散歩を楽しむだけの乗り物であったなら、戦争には使われなかっただろう。熱気球やパラグライダーは現代の戦争には使われない。飛行機は道路が無い場所を高速で移動できるという実生活の役に立つ乗り物になったために、戦争に使われるようになってしまった。

 科学者は科学の大空の空中散歩を楽しんでいる時が、一番平和な時であろう。核分裂の発見も、既知の学説では説明できない未知の現象であった間は、科学者は真理の探究を楽しむ平和があった。しかし原子核が分裂して質量欠損が生じていると分かった時、核兵器開発への道が開けて平和ではなくなった。

 『荘子』は九万里の上空を飛翔する雄大な大鵬の話で始まるが、恵子は荘子の話は大きいだけで何の役にも立たないと批判した。それに対して荘子は、こぶだらけで曲がりくねった大木は木材として役に立たないので切り倒される心配もない、君もその木陰でゆうゆうと昼寝でもしたら良い、と諭した。

 聖書の読者の多くは、聖書の大空の空中散歩や、聖書の大木の陰でゆうゆうと昼寝をする楽しみ方を知らないのではないか。聖書の言葉を実生活に役立てることを優先して、役に立たない大きなことにゆったりと思いを巡らすゆとりが無いのではないか。聖書が平和の役に立っていないのはそのためではないか。

 実生活の「過去→現在→未来」という時間の流れを離れて聖書を読むなら、過去・現在・未来が一体になった永遠の中を生きるイエス・キリストの姿が見えるようになる。実生活とは違う永遠の中にいる御父と御子と交わる喜びを味わえるようになって初めて、聖書の読者は平和を作る幸いな者になれるのであろう。

光の三原色と三位一体の神論2014年10月08日 06時47分

 便乗とは軽薄だが、この際、青色LEDに便乗して、以前から温めていた三位一体の神を光の三原色に例える試みを、推進させてみようと思う。青・緑・赤の光から白色の光を作り出せることをマスコミが説明してくれているので、今ならわかってもらいやすいのではないかと思う。なお、以下の例えはヨハネの福音書の理解から得られることである。

 父・御子・聖霊の三位一体の神を青・緑・赤からなる白色光に例えてみたい。ふだん我々が感じている神は白色光である。この白色光を分光すると父・御子・聖霊の性質に分かれて見えるのである。ただし、ここまでの例えなら、私だけでなく多くの人が考えることであろう。面白いのはここからだ。

 預言者・イエス・使徒にはフィルターのような働きがあって、白色光の三位一体の神は預言者を通ると父だけが見えるようになる。同様にイエスというフィルターを通ると御子が見え、使徒のフィルターを通ると聖霊が見える(この場合の「見える」とは霊的に見えるという意味である)。

 ヨハネの福音書がわかりづらいのは、イエスが地上生涯のイエスだけでなく、預言者としても、復活後のイエスとしても、或いはまた御使いとしても登場している点にある(御使いというフィルターは預言者のフィルターともまた異なるのでなかなか興味深いが、ここでは深くは追究しない)。

 以上は単なる例え話であるので青・緑・赤の光が父・御子・聖霊のどれに対応するかまで考える必要は無いと思うが、あえて対応させるとすれば、エネルギーが一番高い青色の光が第一の位格の父、次にエネルギーが高い緑色の光が第二の位格の御子、三番目の赤色が第三の位格の聖霊ということになるであろうか。

『平和と聖書』2014年09月11日 06時47分

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日時:9月15日(月・祝)午後2時~
場所:沼津・千本プラザ
メッセージ:『平和と聖書』

お近くの方は、是非いらして下さい。

時間の荒野を放浪する私たち2014年09月06日 04時27分

 時間は人間の脳の中で組み立てられますから、時間が無いエデンの園にいたアダムが「善悪の知識の木」の実を食べたことで時間が有る世界に追放されたことは、人間がなぜ「流れる時間」の中で苦しんでいるのかを見事に描写していると思います。
 イエスを信じて永遠の命を与えられた者は、この「流れる時間」の苦悩からは既に解放されている筈なのですが、クリスチャンでさえ未だに苦しんでいます。これはモーセに率いられてエジプトから救い出されたイスラエルの民が、カナンに定住するまでの40年間を荒野の放浪で苦しんだ状況と似ているように見えます。十字架から二千年経った今、そろそろ「降り積もる時間」の中で安住すべき時が来ているのだと感じています。