『七十年目の試練』(2)2015年06月26日 11時09分

 前回のノートの終わりのほうで、戦争体験を継承する私たちは体験者の証言を霊の領域に落とし込んで感じ取ることが大切であることを書きました。これは「私自身の経験」に基づいて書いたことですので、わかりにくかったことと思います。今回はこのことについて説明します。
 「私自身の経験」とは、広島の原爆資料館を訪れた時に感じたことが教会に通う前と後とでは大きく違ったという経験と、ヨハネの福音書のイエスが霊的にはどこにいるのかが見えるようになったという経験です。これらの二つの経験は密接に関連しています。
 私は2001年に教会に通い始め、その年のクリスマスに洗礼を受けました。そして2005年の夏、私はクリスチャンになってから初めて広島の原爆資料館を訪れました。それまでにも私は2回、原爆資料館を訪れたことがありましたが、それはクリスチャンになる以前のことでした。2005年に原爆資料館を訪れた時、私は過去2回とは明らかに違うことを感じました。この時の私は、人類がこれほどまでに巨大な悪に手を染め得るのかと思い、呆然としました。人間が抱える罪の底知れぬ深さに私は打ちのめされました。
 クリスチャンになる前の私は専ら原爆という恐ろしい核兵器がもたらす悲惨な被害に目を向けていたと思います。しかし2005年の訪問時においては、私は「人間の罪」の方に心の目を向けていました。それは教会で聖書を学ぶようになって私が「人間の罪」に心の目が向くようになっていたからでしょう。人間の心の奥深くに巣くっている暗い部分が見えるか見えないかは霊的な領域の問題に属します。これは霊的な目覚めが無ければ、なかなか見えてこない領域です。
 さてヨハネの福音書の底流にも「人間の罪」の問題があります。旧約聖書はイスラエルの民の心がほとんどの時代において罪深い状態にあったことを記しています。そして新約聖書のヨハネの福音書のイエスは旧約の時代のイスラエルの民の罪がエルサレムの滅亡をもたらしたことに霊の憤りを感じ、廃墟と化したエルサレムの前で涙を流しています。ヨハネの福音書ではイエスは「肉的」には紀元30年頃にいますが、「霊的」には旧約の時代と使徒の時代にいます。ヨハネ11章35節でのイエスは「肉的」にはラザロの墓の前にいますが、「霊的」には廃墟となったエルサレムの前にいて涙を流しています(このことの説明は次回以降にします)。
 前回のノートで引用したヨハネの手紙第一の1章3節でヨハネは私たち読者を「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に招いています。この招きに応じて交わりの中に入るなら、イエスが人類の罪がもたらす悲惨な結果に憤り、そして涙を流している様子が霊的に見えて来ます。
 70年前の戦争の悲惨な体験を継承する場合も、私たちは体験者の証言を霊の領域で感じ取ることが大切だと思います。私たちの大半が平和を望んでいるのに平和が実現しないのは、人類が深い領域で罪の暗闇を抱え込んでいるからです。これは永遠の課題です。永遠の課題であるが故にイエスの教えが脈々と伝わって来たとも言えるのでしょう。
 戦争体験の証言の継承も、単に表層に見える悲惨さだけを伝えるのでなく、人間が奥深い領域に持つ罪の暗闇の部分にもしっかりと心の目を向けて、伝えて行きたいと思います。(続く)

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