映画人九条の会2015年06月16日 19時53分

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映画人、映画愛好者の皆様へ
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『七十年目の試練』(1)2015年06月25日 11時04分

 戦後70年が経って戦争を直接経験した証人が減っており、それに反比例するかのように日本では戦争の危険性が増しています。平和を守るために私たちは証人による目撃証言をしっかりと継承して行かなければなりません。
 イエス・キリストの地上における宣教から70年近くが経った1世紀末のキリスト教会においても、イエスの証人がいなくなることは大きな問題であったことでしょう。教会がイエスに関する証言をどのように継承したのか、現代の私たちが学ぶべき点があるのではないでしょうか。
 1世紀の末頃に書かれたと考えられるヨハネの手紙第一とヨハネの福音書からは、記者がイエスの目撃証言の継承を強く意識していた様子が沸々と湧き立って来ています。ここでは、それらの箇所を引用しながら、私たちが戦争体験の証言を継承して行く上で学ぶべき点について考えてみたいと思います。
 まずヨハネの手紙第一の冒頭から引用します。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」(Ⅰヨハネ1:1)

 ここで記者のヨハネは、自分たちがイエスに直接会った証人であることを証ししています。
 そしてヨハネは手紙の読者を、自分たちの「交わり」に招いています。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:3)

 ヨハネの手紙第一が書かれたのが1世紀の末頃だとすれば、イエスが天に昇ってから70年近くが経っています。ヨハネが読者を地上での宣教を終えたイエスと天の御父との「交わり」に招いているということは、これは「霊的な交わり」、つまり「霊の領域での交流」であるということです。
 21世紀の今日、イエスの地上での宣教から二千年が経ちました。その遥か昔のイエスの教えが今日でも生き生きと伝えられているのは、霊の領域のことだからです。霊の領域のことは時間を超越します。ですから戦争体験を継承する私たちも、証言を霊の領域に落とし込んで感じ取ることが大切だと思います。
 これから、何回かにわたってヨハネの手紙第一とヨハネの福音書の霊の領域の事柄について書いて行きたいと思います。そしてできれば、その都度、戦争体験の継承の問題についても考えることができたらと思います。

『七十年目の試練』(2)2015年06月26日 11時09分

 前回のノートの終わりのほうで、戦争体験を継承する私たちは体験者の証言を霊の領域に落とし込んで感じ取ることが大切であることを書きました。これは「私自身の経験」に基づいて書いたことですので、わかりにくかったことと思います。今回はこのことについて説明します。
 「私自身の経験」とは、広島の原爆資料館を訪れた時に感じたことが教会に通う前と後とでは大きく違ったという経験と、ヨハネの福音書のイエスが霊的にはどこにいるのかが見えるようになったという経験です。これらの二つの経験は密接に関連しています。
 私は2001年に教会に通い始め、その年のクリスマスに洗礼を受けました。そして2005年の夏、私はクリスチャンになってから初めて広島の原爆資料館を訪れました。それまでにも私は2回、原爆資料館を訪れたことがありましたが、それはクリスチャンになる以前のことでした。2005年に原爆資料館を訪れた時、私は過去2回とは明らかに違うことを感じました。この時の私は、人類がこれほどまでに巨大な悪に手を染め得るのかと思い、呆然としました。人間が抱える罪の底知れぬ深さに私は打ちのめされました。
 クリスチャンになる前の私は専ら原爆という恐ろしい核兵器がもたらす悲惨な被害に目を向けていたと思います。しかし2005年の訪問時においては、私は「人間の罪」の方に心の目を向けていました。それは教会で聖書を学ぶようになって私が「人間の罪」に心の目が向くようになっていたからでしょう。人間の心の奥深くに巣くっている暗い部分が見えるか見えないかは霊的な領域の問題に属します。これは霊的な目覚めが無ければ、なかなか見えてこない領域です。
 さてヨハネの福音書の底流にも「人間の罪」の問題があります。旧約聖書はイスラエルの民の心がほとんどの時代において罪深い状態にあったことを記しています。そして新約聖書のヨハネの福音書のイエスは旧約の時代のイスラエルの民の罪がエルサレムの滅亡をもたらしたことに霊の憤りを感じ、廃墟と化したエルサレムの前で涙を流しています。ヨハネの福音書ではイエスは「肉的」には紀元30年頃にいますが、「霊的」には旧約の時代と使徒の時代にいます。ヨハネ11章35節でのイエスは「肉的」にはラザロの墓の前にいますが、「霊的」には廃墟となったエルサレムの前にいて涙を流しています(このことの説明は次回以降にします)。
 前回のノートで引用したヨハネの手紙第一の1章3節でヨハネは私たち読者を「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に招いています。この招きに応じて交わりの中に入るなら、イエスが人類の罪がもたらす悲惨な結果に憤り、そして涙を流している様子が霊的に見えて来ます。
 70年前の戦争の悲惨な体験を継承する場合も、私たちは体験者の証言を霊の領域で感じ取ることが大切だと思います。私たちの大半が平和を望んでいるのに平和が実現しないのは、人類が深い領域で罪の暗闇を抱え込んでいるからです。これは永遠の課題です。永遠の課題であるが故にイエスの教えが脈々と伝わって来たとも言えるのでしょう。
 戦争体験の証言の継承も、単に表層に見える悲惨さだけを伝えるのでなく、人間が奥深い領域に持つ罪の暗闇の部分にもしっかりと心の目を向けて、伝えて行きたいと思います。(続く)