『七帝柔道記』2014年04月07日 11時27分


 5日発売のビッグコミックオリジナルで『七帝柔道記』というマンガの連載が始まりました。どうやら1986年以降の北大柔道部の実話のようです。
 私が所属していた剣道部の隣の部の話ですけど、当時の武道場の絵が多く使われています。
 オリジナルは『あぶさん』の連載が終わって少し寂しかったですが、楽しみな連載が始まりました。

カーリング2006年02月19日 13時31分

(C) 「シムソンズ」製作委員会
(C) 「シムソンズ」製作委員会

 この土日、自宅で仕事をしながら、ついついトリノ五輪のカーリング日本女子チームの試合に見入ってしまっている。カナダ戦、スウェーデン戦の両方とも生中継で全部(約3時間ずつ)見てしまった。今夜のイギリス戦も見なければ (^^;
 おかげでカーリングという競技の戦術の多彩さが少し分かるようになってきたが、月曜の朝が締め切りの仕事がはかどらなくて困った (TT)
 それにしても、強豪のカナダに勝った瞬間には私も興奮してしまった。世界チャンピオンだというスウェーデンをあと一歩のところまで追い詰めたのも、あっぱれだった。

 彼女たちの実話を基に作られたという映画『シムソンズ』が昨日、封切られたそうなので、早い機会に見に行きたい。

 日本女子の残り3試合の健闘に期待したいが、ともかくもカナダ戦、スウェーデン戦の大健闘を心から讃えたい。

☆声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。
 六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。
 (詩篇 第81編 2節)

新歓合宿の想い出2006年02月12日 01時17分

 昨夜また大学の剣道部の同期と会う機会があった。
その時、我々の部の新入生歓迎合宿(新歓合宿)の時の話で盛り上がり、この、ちょっと通常では考えられない目茶苦茶な合宿のことを久々で思い出した。
 新歓合宿の1日のスケジュールは、正確な時間は忘れたが、だいたい以下の通りだった。

6:00  起床
6:10~ 約1時間 ランニングと体操・トレーニング
9:30~ 約2時間 稽古(1年生はランニングと素振り・打ち込み)
14:00~ 約2時間 稽古(同上)
19:00~ 約1時間 素振り
20:00~ 約20分  ミーティング
22:00  消灯・就寝

 朝・午前・午後・晩と1日に4回もしっかりと稽古やトレーニングをする、極めて真面目な合宿だった。しかし、稽古はそれだけではなかった。それは合宿最初の晩、早くも開始された。
 午後10時、先輩の「明日は6時起床だから、早く寝ろ」ということで消灯になった。20分ぐらいして我々1年生が眠り始めた時、いきなり先輩から「起きろ、起きろ!」と言われてストームが始まった。ストームというのは、皆で肩を組んで円になり、足を上げながら

 札幌農学校は蝦夷が島、熊が棲む
 荒れ野に建てたる大校舎、コチャ
 エルムの木陰で真理説く
 コチャ、エー、コチャ、エー

 札幌農学校は蝦夷が島、手稲山
 夕焼け小焼けのするところ、コチャ
 牧草肩敷き詩集読む
 コチャ、エー、コチャ、エー

 札幌農学校は蝦夷が島、クラーク氏
 be ambitious boysと、コチャ
 学府の基を残し行く
 コチャ、エー、コチャ、エー

と、これを何回も何回も延々と繰り返し踊りながら歌うものだ。1年生にとっては何でこんなことをするのか、全く訳が分からなかった。これが終わると、「早く寝ろ」と言って先輩たちは去って行った。自分たちで起こしておきながら「早く寝ろ」もないものだが、とにかく皆ふたたび寝始めた。しかし、10分後ぐらいに、また「起きろ、起きろ」と3年生に起こされ、寮歌の指導が始まった。これは夜の12時近くまで続いた。これが、終わるとまた「早く寝ろ」と言って3年生は去って行った。やれやれ、これでやっと寝れると思ってウトウトしかけたところ、今度は2年生が我々1年生に「起きろ、起きろ」と起こしに来た。今度は一体何なんだと思っていたら、何と剣道部に代々伝わる伝統芸の指導をするというのだ。これが深夜の2時か3時頃まで続いた。3時に寝て、6時には起床してランニングだ。ランニングは近くの女子大の寮の周りをグルグル回りながら「起きろ、起きろ」の大合唱をした^^;
 昼は剣道の稽古、夜は寮歌と芸の稽古という過酷な合宿は約1週間続いた。
 若いとはいえ全く神仏を恐れぬ異様な合宿であった。なぜ剣道部にこのような伝統が生じたのかは謎だ。剣道に関しては極めて真面目に取り組み、しかし芸にも燃えていた奇妙なクラブであった。
 
☆「これは、知恵と訓戒とを学び、
 悟りのことばを理解するためであり、
 正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、
 わきまえのない者に分別を与え、
 若い者に知識と思慮を得させるためである。

 主を恐れることは知識の初めである。
 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
 (箴言 第1章2-4,7節)

北の春2006年01月28日 06時28分

(昨日からの続きです)
 東京では2月の前半、暖かい冬なら1月の後半には梅の花が咲き始める。気温はまだまだ低くても、ほころび始めた梅の花を見ると心が温まる。満開の梅にメジロがやって来て、花に嘴を入れて蜜を吸っている様子などを見るのは楽しいものだ。春が来たな~♪、とルンルン気分で次の桜の開花を待つ。
 北海道では、そうはいかない。友が去ってしまった寂しい4月、せめて梅の花でも咲いてくれれば、どんなに心が和むことだろうかと思う。しかし北海道では梅も桜も同時に開花するので、ホコリの舞う殺伐とした街で花の季節の到来をひたすら待ちわびる。
 そして5月。札幌では連休が明けた第2週、花が一気に咲き始める。
 それは爆発的な喜びに心が弾ける時だ。

北の友2006年01月27日 07時11分

 昨晩、北海道の大学の剣道部の同期4名と新橋で会った。
 大学時代の運動部の仲間のつながりが強いのは、年に何回も合宿や遠征をして寝食を共にする機会が多かったからだと思う。
 私は学生を10年やっていたので、剣道部の同期16名中、私が一番最後まで大学に残っていた。次々と卒業・修了して北海道を離れて行く仲間を見送るのは、本当に寂しかった。東京の大学なら、卒業生は卒業後も近くにいて、いつでもまた会える場合が少なくないだろう。しかし、北海道の場合は、今度いつ会えるのか分からない。だから卒業生が北海道を離れる時は、皆で駅や空港に見送りに行き、別れを惜しんだ。3月はそんな寂しい季節だった。
 4月、雪が消えても花はまだまだ咲かない。大量の粉塵やホコリが舞うだけだ。友が去って寂しい心にこれはこたえた。だから学生時代の後半、4月は1年のうちで一番きらいな月だった。
(つづく)

天に任せた出会い2006年01月19日 06時54分

(1982年6月の北大着任時の桐谷先生 先生の自作OHPより)

 1982年の4月、4年生になった私は「物理工学講座」という講座名の研究室に配属になった。この講座の教授は3月に定年退官になっており、4月の時点では教授がいなかった。研究室を選ぶ時、研究分野も大事だが、指導教官がどのような人物かということも極めて大事な要素だ。私の場合、やりたい分野の講座に教授がまだ着任していなかったので、どのような先生と出会うことになるかは、天に任せたというわけだ。
 4月、5月と教授不在でのんびりと動いていた研究室は、6月1日、大阪大学から来たエネルギーの塊のような先生を迎えて、急に目まぐるしく動き始めた。しかし嵐は1か月で去った。
 7月になると先生は、上の写真にある特注の真空容器に様々な材料(金、銀、銅、鉄、アルミニウム、ニッケル、シリコン、ゲルマニウム、金と銅の合金、…、等々)を入れて回転ターゲット中性子源による第一回の核融合中性子照射実験を行うために単身でアメリカの研究所に乗り込んで行った。日米科学協力による第一回の照射は7月に行われ、この照射中の間、先生は照射した試料を現地で電子顕微鏡観察するために目まぐるしく働いて、短期間で電子顕微鏡の設置や暗室の整備を行い、照射完了後の8月には自身で数多くの照射試料の観察を現地で行い、8月末に照射した試料と撮影した電子顕微鏡フィルムを携えて帰国した。フィルムには、これまでに観察されたことがない新しい発見が数多く捉えられており、大成功を収めた。その後、この日米共同プロジェクト研究は5年間に亘り続けられ、多数の日本人研究者がこの核融合中性子照射実験を行うために渡米したが、桐谷先生はその先陣役を任されていたのだ。
 わずか2か月のアメリカ出張の間に電子顕微鏡試料の核融合中性子照射という大掛かりな実験を立ち上げて軌道に乗せ、結果まで出すという画期的な成果を上げるなどということは、桐谷先生でなければできないことだったと学会の先生方の誰もが後日、語っていた。
 そんな、超エネルギッシュな先生に私は鍛えられることになったわけだ。
 上記の実験内容は後になって理解したことであり、当時の私はもちろんまだ何も分かっていなかった。
 1982年9月、嵐は再びやって来た。

大きなものに憧れる2006年01月15日 08時57分

 だいぶ前だったと思うが、「デッカイドウ、北海道」という広告があった。私の場合は特にそういう大きなものに引かれる傾向があるようだ。
 学生時代は『荘子』を愛読していた。特に「内篇」の冒頭部が大好きだった。
「北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大きさ、其の幾千里なるかを知らざるなり。化して鳥と為る。其の名を鵬と為す。鵬の背は、其の幾千里なるかを知らざるなり。怒りて飛ぶに、其の翼は垂天の雲のごとし。是の鳥や、海うごけば、則ち将に南冥にうつらんとす。南冥とは天池なり。」(中公文庫)
このスケールの大きな描写に、自らの野心を重ね合わせていた。書道が趣味の母にこの部分を書いてもらって掛軸にしてもらったこともある。
 今はキリスト教の信仰を持っている。4年半前の父の死がきっかけだった。このことについては、追々書いていきたい。
 聖書を読むようになっても、スケールの大きな描写に引かれるのは相変わらずだ。私の好きな聖句は、新約聖書にあるパウロの書簡の以下の部分だ。

「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ人への手紙 3章:17-18節)

 我々が知ることができるのはキリストの計り知れないほど大きな愛の氷山の一角でしかなく、私の場合はその一角のそのまたほんの一部しか、まだ知り得ていない。もっともっと知ることができるようになりたいと思っている。
 
 これから毎週日曜日には、朝起きてから礼拝に行くまでの、一週間のうちで一番心が静まっているこの時間を用いて、信仰について書くことにしたいと思います。

『駅 STATION』2006年01月12日 00時26分

 高倉健主演、チャン・イーモウ監督の日中合作映画『単騎、千里を走る。』(1月28日公開予定)の期待感が高まっている。テレビでの予告特集番組など見て、私も俄然楽しみになってきた。
 健さんの映画と言えば佐々部監督の『チルソクの夏』『カーテンコール』の劇中映画の『幸福の黄色いハンカチ』『網走番外地』や佐々部監督が助監督を務めた『鉄道員』『ホタル』などいろいろあるが、私にとっては『駅 STATION』だ。私が学部の学生時代に公開された映画で、大学の寮生がエキストラで多数出演したため、彼らは自分がどの場面で映っていたとか、自分は何回映ったとかと言って自慢していた。自殺したマラソンの円谷選手の遺書の朗読があったり、死刑になった後の根津甚八の遺書を健さんが読むシーンがあったり、寅さんの妹のさくらとは全然違う倍賞千恵子がいたり、大人の哀愁を存分に感じさせてくれたところが、未熟なくせに渋い大人を気取ってみたい年頃の私の心に響いたのだと思う。
 北海道は18歳から29歳の直前までと、20代のほとんどを過ごしたので、離れてからは北海道が恋しくて恋しくて、この『駅 STATION』のビデオを見ては涙を流し、休みになるとしょっちゅう遊びに行っていた。5月の花見を楽しむためだけに遊びに行ったこともあった。しかし、ここ何年かは韓国や下関に関心が移ってしまったので、北海道がすっかり遠くなってしまったのであります。

大雪に想う2006年01月11日 07時29分

 私が北海道の大学を受験した時、北海道は大雪だった。
受験日の2日前は猛吹雪で道内の空港は閉鎖、国鉄も運休していた。
この日に羽田から千歳に入ろうとしていた私は飛行機が欠航になっていたため、やむなく翌日の便を予約(これは空港まで一緒に来てくれた父がしてくれた)、一旦静岡に戻って翌日また羽田に向かった。当時(今もそうかもしれないが)の私はよっぽど頼りなく見えたのか、今度は兄が羽田まで一緒に来てくれた。
 その日も北海道の天候はまだ十分には回復しておらず、飛行機はともかくも離陸したが、着陸できずに引き返す可能性もあると機内のアナウンスは告げていた。機内には受験生も多く、無事着陸できた時には拍手が起こった。札幌市内のホテルには、いとこが来てくれていた。
 無事合格できて1年生のクラスの自己紹介の時(岩井俊二監督の『四月物語』みたいな感じ)、話題の多くは自分がいかに苦労して受験場にたどり着くことができたか、ということだった。道内の国鉄もストップしていたため、受験生同士のタクシーの相乗りで長距離移動した者も多くいた。受験開始ぎりぎりに到着することができた者もいた。道外からの受験生で飛行機から国鉄に切り替えて移動することにした者の中には、結局たどり着けなかった者もいたようだ。
 受験日の前日に北海道に降り立つまで、自分がどんな心境でいたのか、どうしても思い出せない。あまり心配した覚えがないのだ。たどり着けないはずがないという根拠の無い自信をもっていたのか、或いは受験できなければ東京の大学に行けばいいと思っていたのか。全く覚えていないのだが、何だか前者の、妙な確信を持っていたような気がしてならない。