大きなものに憧れる ― 2006年01月15日 08時57分
だいぶ前だったと思うが、「デッカイドウ、北海道」という広告があった。私の場合は特にそういう大きなものに引かれる傾向があるようだ。
学生時代は『荘子』を愛読していた。特に「内篇」の冒頭部が大好きだった。
「北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大きさ、其の幾千里なるかを知らざるなり。化して鳥と為る。其の名を鵬と為す。鵬の背は、其の幾千里なるかを知らざるなり。怒りて飛ぶに、其の翼は垂天の雲のごとし。是の鳥や、海うごけば、則ち将に南冥にうつらんとす。南冥とは天池なり。」(中公文庫)
このスケールの大きな描写に、自らの野心を重ね合わせていた。書道が趣味の母にこの部分を書いてもらって掛軸にしてもらったこともある。
今はキリスト教の信仰を持っている。4年半前の父の死がきっかけだった。このことについては、追々書いていきたい。
聖書を読むようになっても、スケールの大きな描写に引かれるのは相変わらずだ。私の好きな聖句は、新約聖書にあるパウロの書簡の以下の部分だ。
「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ人への手紙 3章:17-18節)
我々が知ることができるのはキリストの計り知れないほど大きな愛の氷山の一角でしかなく、私の場合はその一角のそのまたほんの一部しか、まだ知り得ていない。もっともっと知ることができるようになりたいと思っている。
これから毎週日曜日には、朝起きてから礼拝に行くまでの、一週間のうちで一番心が静まっているこの時間を用いて、信仰について書くことにしたいと思います。
学生時代は『荘子』を愛読していた。特に「内篇」の冒頭部が大好きだった。
「北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大きさ、其の幾千里なるかを知らざるなり。化して鳥と為る。其の名を鵬と為す。鵬の背は、其の幾千里なるかを知らざるなり。怒りて飛ぶに、其の翼は垂天の雲のごとし。是の鳥や、海うごけば、則ち将に南冥にうつらんとす。南冥とは天池なり。」(中公文庫)
このスケールの大きな描写に、自らの野心を重ね合わせていた。書道が趣味の母にこの部分を書いてもらって掛軸にしてもらったこともある。
今はキリスト教の信仰を持っている。4年半前の父の死がきっかけだった。このことについては、追々書いていきたい。
聖書を読むようになっても、スケールの大きな描写に引かれるのは相変わらずだ。私の好きな聖句は、新約聖書にあるパウロの書簡の以下の部分だ。
「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ人への手紙 3章:17-18節)
我々が知ることができるのはキリストの計り知れないほど大きな愛の氷山の一角でしかなく、私の場合はその一角のそのまたほんの一部しか、まだ知り得ていない。もっともっと知ることができるようになりたいと思っている。
これから毎週日曜日には、朝起きてから礼拝に行くまでの、一週間のうちで一番心が静まっているこの時間を用いて、信仰について書くことにしたいと思います。
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