『容疑者Xの献身』2006年01月29日 01時27分

 春風さん(私の加羽沢美濃さんについての記事にコメントとトラックバックをして下さった方)のブログにこの本のことが書いてあったので私も読みたくなり、おととい近所の書店で購入して、きのう読んだ。
 予めお断りしておくと、私は作者の東野圭吾氏の作品を読んだのはこれが初めてで、氏の経歴についても本の後ろに書いてあること以外には知らない。直木賞を受賞したということで、この本の書評も多数出ていることと思うが、春風さんの記事とそれに対するK-SASABEさんのコメントしか読んでいない。したがって、以下は全くの個人的な感想だ。同じようなことを考える人がいるのかいないのか、今の時点では分からない。書き終わってアップロードしたら、他の書評などをインターネットで検索して読んでみたいと思う。

 読後は、終盤のあまりの展開に血圧が上昇してしまっていた(実際に測定して確認しました ^^;; )。主人公の石神についてあまり多く書くとネタバレになってしまうので、ここでは友人の物理学者・湯川と、本のタイトルにある「献身」について少し考えたことを書いてみたいと思う。この小説の中で湯川の果たす役割は極めて大きい。話は脱線するが、主人公の友人の物理学者の姓を湯川にするなんて、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士ほど優秀な物理学者であることを暗に言いたいのだろうか、などと考えたりした。そんなことを考え始めると、主人公の石神の姓も「石の神」ということで、何やら意味ありげに思えてきて、その昔、ユダヤ教徒がキリスト教徒を迫害した時の「石打ち」すらも暗示しているのかと、つい思ってしまう。たぶんそれは考え過ぎなのだろうが。
 さて湯川は、なぜ自分の推理を自分の胸にしまっておくことができなかったのだろうか? 推理小説としては、犯人のトリックさえ読者に伝われば、別に湯川が他人にそれを苦悶の末に言う場面を敢えて設定しなくても、十分に成立する筈だ。そうすることで、作者は読者に何かを伝えたかったのだろうか?はじめにも書いたように、私は作者の東野氏のことをほとんど知らないので以下は全くの個人的な思い入れによる推測だが、タイトルにある「献身」をキーワードに考えてみたい。
 gooのサイトにある国語辞典(三省堂「大辞林 第二版」)で「献身」を調べると、
 (1)自分の身をささげて尽くすこと。ある物事や人のために、自分を犠牲にして力を尽くすこと。
 (2)キリスト教で、聖職者となること。
と出てくる。
 この小説の石神の取った行動は、第一感では当然のごとく(1)にあてはまる。自らの手を汚した石神は、(2)には全くふさわしくない。しかし、いろいろ考えを巡らしているうちに、作者は湯川を通じて石神が(2)の世界に進むよう、背中を押したのではないか、という気がしてきた。(1)でいる間は、ある意味で自己満足の世界でしかない。苦しくても満足できる世界だ。しかし(2)の世界へ進むことは、自己満足だけでは済まされない、真に厳しく苦しい試練の場が待ち受けている。

 使徒パウロは非常に頭が良くてユダヤ教の教理に精通しており、若い頃は「石打ち」をもってキリスト教徒を迫害する側に率先して加わる者であった。どこか石神と通じるところがある。パウロはしかし回心してキリスト教の伝道に努めるようになったことから逆に迫害される身となり、苦難の道を進むことになったが、その経験を通して主の大いなる恵みを感じ、以下の有名な聖句を残したのである。

☆しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙II 第12章9,10節)