クリスマス・キャロル@青葉台2010年12月04日 20時40分


 きょうの夕方、青葉台駅前の東急スクエアで、青葉台地区の教会の有志によるクリスマス・キャロルのコーラスがありました。

 昨年と一昨年は私もコーラス隊の一員として歌を歌いましたが、今年は練習の日程が合わなくて練習ができなかったので、観客の側に回りました。でも多分、来年の今頃は横浜から離れた教会で実習をしているでしょうから、こちらでの最後の年は観客として聴くことができて、良かったです。とても素晴らしいコーラスだったので、昨年と一昨年は私もこのコーラスに参加できていたことを、とてもうれしく思いました。

 さて、明日の日曜日の夕方は、船橋駅近くの繁華街でまた街頭説教をします。3回目の説教になりますが、クリスマスが近い時期ですから、クリスマスのメッセージをします。さきほど原稿がほぼ出来上がりました。あと少し手直しをして完成です。

 たぶん月曜日にメッセージの原稿をこちらにアップしますから、読んでいただけると感謝です。

すべては偶然か?(クリスマス・メッセージ)2010年12月06日 06時27分

 昨晩、今年3回目の街頭説教を船橋駅近くで行いました。
 クリスマスが近いので、クリスマスのメッセージにしました。

 「すべては偶然か?」

 こんばんは。もうすぐクリスマスですね。楽しみにしてらっしゃる方も多いことと思います。

 クリスマスは私たちの救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする日です。

 イエス・キリストが生まれた日、天使は次のように告げました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 救い主イエス・キリストは全人類の救い主ですから、私たち日本人の救い主でもあります。決して外国人だけのための救い主ではありません。

 イエス・キリストは日本生まれではないから日本人には関係ない、と思っている方も多いと思いますが、そうではありません。イエス・キリストは全人類の救い主です。

 では、どうしてイエス・キリストの誕生の地に、日本が選ばれなかったのでしょうか。それは多分、日本が海に囲まれているからだと思います。もしイエス・キリストが日本で生まれていたなら、四方を囲んだ海のため、キリストの教えが世界中に広まって行くことは難しかったでしょう。

 神様はキリストの教えを全世界に広めたいと考えていましたから、そのために最もふさわしい土地を選んだのです。

 イエス・キリストが生まれた中東のパレスチナ地方は、アジア・ヨーロッパ・アフリカの間にあって、これらの大陸へ行き来するのに非常に便利な所でした。そして、イエスが生まれた当時、この地域一帯はローマ帝国が支配していて平和が保たれており、交通網も非常に良く整備されていました。それゆえ、人々の往来も盛んで、短い間にイエス・キリストの教えがアジア・ヨーロッパ・アフリカの地中海沿岸の広い範囲に広がっていくことができたのです。そして、その後のゲルマン民族の大移動により、さらに広範囲に広がっていきました。神様の計画は本当にすごいなあ、と感嘆します。

 最初にお読みした、イエス・キリストの誕生を告げる天使の声は新約聖書のルカの福音書に書かれています。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 また、ヨハネの福音書は次のように書いています。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)

 これは不思議ですね。

 「すべてのものは、この方によって造られた」ということは、この宇宙も、地球も、私たち人間も、すべてイエス・キリストによって造られたということです。しかし、宇宙が造られたのは、イエス・キリストがこの世に生まれた2000年前よりも、もっとずっと前のことです。これは一体、どういうことでしょうか。

 それは、こういうことです。イエス・キリストは永遠の中を生きる神ですから、2000年前よりも、ずっと前から存在していたのです。天には父と呼ばれる神様がいて、イエス・キリストはその父なる神と一緒に宇宙が造られる前から存在していました。イエス・キリストは自分を、父の子である、と言っています。そして、「わたしと父とは一つです」とも言っています。つまり、宇宙は、父とイエス・キリストによって造られたのです。

 そんなことは信じない、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。この宇宙は偶然にビッグ・バンの引き金が引かれて、できたんだ。すべては偶然だ。
 生命が誕生したのも偶然だ。たまたまアミノ酸が合成され、アミノ酸からタンパク質ができ、そこから偶然に生命が誕生したのだ、と信じている方も多いことでしょう。

 でも果たしてそうでしょうか。そんな風に全てを偶然の為せる業と割り切ってしまって良いものでしょうか。この世を支配しているものは、偶然だけなのでしょうか。

 例えば、大切な人との出会いはどうでしょうか。それも偶然の結果なのでしょうか。また、私たちは、偶然に生まれた存在なのでしょうか。偶然に出会った両親から偶然に生まれただけの存在なのでしょうか。

 そんなことはない、大切な人との出会いは、見えない力によって引き寄せられた結果なのだ、と考える方も案外多いのではないでしょうか。運命の赤い糸を信じている方も多いのではないでしょうか。

 まさにその通りです。この世は偶然によって支配されているのではなく、人と人との出会い、特に大切な人との出会いは、見えない力によって引き寄せられた結果、起こることです。

 その見えない力を働かせている方こそ、神様です。
では、神様なら、どんな神様でも良いのでしょうか。そんなことはありませんね。人と人とを見えない力によって引き合わせることは、時間と空間を超越した神様でなければ、できないことです。

 このことは、はっきりと申し上げなければなりません。時間と空間を超越した神様でなければ、宇宙を造ることはできず、宇宙を造った神でなければ、人と人とを引き合わせることはできません。

 私は他の宗教の神や仏については詳しくありませんから、聖書のことだけ語りますが、聖書には、次のように書いてあります。

「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(ペテロの手紙第二3:8)

 神にとって一日は千年のようであり、千年は一日のようだと聖書は言っています。そのように時間を超越しているのは宇宙を創造した神だからこそのことです。時間と空間の外側にいるお方だからこそ、宇宙を創造することができたのです。

 神様は時間と空間を超えた場所にいて、人と人との間に見えない力を働かせてくださっています。私たちは、偶然に出会った両親から偶然に生まれた存在ではありません。私たち一人一人が生まれた背後には、時間と空間を超越した神様の見えない力が働いているのです。

 私たちの救い主イエス・キリストが2000年前に赤ちゃんになってこの世に来たことも、私たちと無関係な出来事ではなく、時間と空間を超ええて私たちに直接関係している出来事です。

 私たちは、神様というと何だか遠い存在に感じてしまうことがあるのではないでしょうか。そんな私たちにとって神が身近な存在になるように、イエス・キリストは神様であるにも関わらず赤ちゃんになって、この世に来てくださいました。それも、王様の家柄とかお金持ちの家ではなく、ナザレという田舎に住む、ヨセフという貧しい大工の息子として生まれました。母マリヤも特別な女性ではなく、普通の女性でした。もしイエスの両親のヨセフとマリヤが裕福であったなら、イエスが旅先の家畜小屋で生まれるなどということはなかったでしょう。しかし、家畜小屋で生まれたイエスだからこそ、弱い立場の人たちのことがよく分かるのです。このことは、私たちにとって本当に大きな恵みだと思います。
 イエス・キリストが生まれた日、天使はこのように告げました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 イエス・キリストは、いきなり大人のスーパーマンとして、この世に来たのではなく、無力な赤ん坊として、それも貧しい家の子どもとして家畜小屋で生まれ、弱い立場の人々の中で成長していったのです。
 これこそ、私たちの救い主と呼ぶにふさわしいお方ではないでしょうか。全知全能の神で、不可能なことなど一つもないお方なのに、イエス・キリストは弱い者として生まれ、育ち、最後も弱い者として十字架に掛かって死にました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 このように天使が告げて始まったイエス・キリストのこの世での生涯は十字架で終わりました。イエス・キリストを神の子として認めない人たち、すなわち神から離れていた人たちにより死刑にされたのです。こうして、イエス・キリストは人々の心が、神から離れている罪の状態にあることを私たちに教えてくださいました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 救い主イエス・キリストはご自分を犠牲にして、私たちの心が神から離れていることを教えてくださいました。宇宙を造り、私たちを造った神様から心が離れていることは恐ろしい罪です。その罪から私たちを救い出すために、イエス・キリストはこの世に人として来てくださいました。

 今年のクリスマス、是非このことを考えてみてください。

 私たちは偶然の中を生きているのではありません。私たちは偶然に出会った両親から偶然に生まれてきたのではありません。時間と空間を超越した神様が見えない力で私たちに働きかけてくださっています。

 そのようにして私たちは生まれて来たのです。しかし、神様から心が離れていると、そのことがなかなか分かりません。
 このように神から心が離れている罪から私たちを救い出すために、イエス・キリストはこの世に生まれてくださいました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 今年のクリスマス、今夜からでも、ぜひ教会にいらしてください。教会でイエス・キリストがどのようなお方か、思いを巡らしてみてください。教会でそのような時を持つことを、心からおすすめします。

 皆さんが、良いクリスマスの時を過ごすことができるよう、お祈りしています。

『世界の中心で、お風呂に入る』(1)2010年12月13日 22時03分

 下記のような文章を書き始めました。これは必ず書き上げるつもりでいます。このブログで全文公開するかどうかは、まだ決めていませんが、できるだけ公開していこうと、今の段階では思っています。また、タイトル(笑)は、もしかしたら変更する可能性もあります。


     『世界の中心で、お風呂に入る』(1)
     ~ヨハネの福音書の恵みに浸る~
                                S.KOJIMA

1.はじめに
 世界の中心で、お風呂に入ったら気持ちが良いと思いませんか?
 でも世界の中心って、一体どこでしょうか?片山恭一氏のベストセラー小説『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)ではオーストラリアのエアーズロックが世界の中心でした。主人公の朔太郎は、飛行機に乗ってオーストラリアに行きました。
 私がこの小文でご紹介する「世界の中心」は、あなた自身です。ただし、「一人でいるあなた」ではなく、「神と共にいるあなた」です。一人でいるあなたが世界の中心であると思ったとしたら、それは単なる自己中心です。しかし、神が一緒にいるなら、あなたのいる場所が世界の中心になります。あなたがどこにいても、~日本でも韓国でもオーストラリアでも~、あなたがいる場所が「世界の中心」です。それは、本当に心地の良い世界で、まるでお風呂に入っているようです。
 これまで明らかになっていませんでしたが、新約聖書のヨハネの福音書は特別な構造を持っており、読者が神の豊かな恵みの注ぎを「世界の中心」で受けることができるようになっています。これから少しずつ、このヨハネの福音書の隠された構造を説き明かしていくことにします。そして、共にこの素晴らしい神の恵みに浸ることができるようになることを願っています。(つづく)

『世界の中心で、お風呂に入る』(2)2010年12月13日 22時58分

2.世界についての書
 「世界」はギリシャ語で「コスモス」と言います。ギリシャ語で書かれた新約聖書の4つの福音書の中に「コスモス」が何回使われているかを調べてみると、ヨハネの福音書は他の福音書に比べて「コスモス」を圧倒的に多く使っていることがわかります。
 マタイの福音書は9回、マルコの福音書とルカの福音書はわずか3回なのに対して、ヨハネの福音書では何と78回!も「コスモス」が使われています。つまり、ヨハネの福音書は世界について書かれた書なのです。
 また、イエスが十字架に付けられた時、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という罪状書きは、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあったとヨハネの福音書19章20節にあります。マタイ・マルコ・ルカにも罪状書きについての記述がありますが、複数の言語で書いてあったと記しているのはヨハネだけです。ヨハネの福音書が世界を強く意識していたことが、ここからも分かります。

『世界の中心で、お風呂に入る』(3)2010年12月14日 06時45分

3.世界の中心
 世界についての書であるヨハネの福音書の中心は、ズバリ、7章38節です。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(7:38)

 なぜ、この節がヨハネの福音書の中心と呼べるかについては、次回以降、早い段階で明らかにしていく予定です。
 神の愛は世界の外側から、この中心に向かって注がれています。私たちは、この世界の中心に立つことで、神の愛の注ぎを最大限に受け、神の愛に浸ることができます。ヨハネの福音書の構造はそのようになっています。

 この世界の中心で受ける神の愛の注ぎは圧倒的な量です。

 イエス・キリストがこの地上に来る約400年前、旧約聖書はマラキ書で閉じました。マラキ書1章2節には次のように記されています。

「『わたしはあなたがたを愛している』と
 主は仰せられる。
 あなたがたは言う。
  『どのように、あなたが私たちを
 愛されたのですか。』と。」 (旧約聖書・マラキ書1:2)

 イスラエルの民は神に向かって「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と聞くほどまでに、神の愛に対して鈍感になっていました。
 マラキ書以降、聖書は約400年間沈黙しますが、神はひとり子イエス・キリストを遣わし、この鈍感な民(私たち)に圧倒的な愛を注ぐことにしたのです。

『世界の中心で、お風呂に入る』(4)2010年12月14日 20時22分

4.心の奥底

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)

 このイエス・キリストのことばは、構造的にも内容的にもヨハネの福音書の中心メッセージです。構造的に中心であることについては後日また詳しく書くこととして、内容的にも中心であることの説明を今回と次回とでします。
 この7章38節にある「心の奥底」はギリシャ語では「コイリア(κοιλια」で、直訳は「腹」、「胎」です。つまり、体の中心部を指し示すことばであり、ここがヨハネの福音書の中心であることを示すために意図的に使われた可能性が高いのではないかと私は考えています。
 この「コイリア」はヨハネの福音書では7章38節の他に、あともう一箇所で使われています。3章4節です。イエスが「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言ったことに対して、ユダヤの指導者ニコデモはイエスに次のように聞き返しました。

「ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』」(ヨハネ3:4)

 この「母の胎」が「コイリア」です。母の胎は生まれる前の赤ちゃんにとってはお風呂のように心地良い場所ではないでしょうか。ヨハネの福音書の中心である7章38節の「コイリア」もそのような場所です。この小文のタイトルを『世界の中心で、お風呂に入る』と私がした理由の一つはそれです。
 このニコデモの言葉は、新しく生まれ変わるとはどういうことかを彼が全く理解していないためにトンチンカンなことを言ったと一般には解釈されていますが、私は、彼は霊的に正しいことを言ったのだと解釈したく思っています。神に自分の心をゆだねるということは、全く無力な赤ん坊になるのと霊的には同じであろうと思うからです。
 そのように余計な力を抜き、自分を無力なものとして神に心をゆだねると、温かいお風呂に入っているような素晴らしい気分が味わえるのです。(つづく)

『世界の中心で、お風呂に入る』(5)2010年12月16日 13時24分

5.聖霊の注ぎ
 前回のヨハネ7章38節に続く39節には次のように書かれています。

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:39)

 御霊(みたま)とは聖霊のことです。つまり38節にある、イエスを信じる者の心の奥底から流れ出す生ける水の川とは、聖霊のことだということです。父・御子イエス・聖霊の三位一体の神の聖霊です。
 
 聖霊とは何者でしょうか。

 聖霊の恵みを感じるかどうかはキリスト教を理解する上で最大のポイントです。イエス・キリストについての知識を学んでも聖霊を感じないならキリスト教を信じることができないのは当たり前ですし、キリスト教を信じていても聖霊を感じていないなら、それは頭で信じているだけで、本当に信じていることにはなりません。
 これがキリスト教の難しさでもあり、また魅力でもあります。キリスト教の教えは人間の頭が考え出したものではなく、神から啓示されたもの、つまり神から与えられたものです。神から何かが与えられるということを、聖霊を感じる人なら、すんなりと納得できると思いますが、聖霊を感じない人には納得しがたいことだろうと思います。
 日本人には聖霊のことはほとんど知られていないと思いますが、キリスト教を理解する上で聖霊はこれほどまでに重要です。それゆえ聖霊について書かれた7章38節は内容的に中心メッセージと言えるのです。
 そしてヨハネの福音書は、この聖霊が感じやすくなるような構造になっています。それが、7章38節が構造的にも中心だという意味です。この構造については次回に書きます。

焼き芋2010年12月16日 14時18分



 ちょっと、ひと息。

 きょうは神学院の駐車場で落ち葉を焼きながら焼き芋をしています ^^

 今年の関東産のさつま芋は、猛暑の影響か、長細いのが多いんだそうですね。

 焼きたての芋↓ はホクホクしてて、ホントにおいしかったです!

『世界の中心で、お風呂に入る』(6)2010年12月16日 15時30分


6.入れ子構造
 ヨハネの福音書20章31節に、この書が書かれた目的が書いてあります。

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

 最大の目的は罪に死んでいる読者がいのちを得ることであり、そのためにはイエスを信じる必要があり、イエスを信じることは聖霊を感じなければできないことです。
 その聖霊を感じやすくするためにヨハネの福音書は入れ子構造になっています。一番外側がプロローグとエピローグのペアで、中心が何度も引用している7章38節です。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)

 ヨハネの福音書のプロローグとエピローグが最外殻のペアとなり、内容的に同じ箇所でペアを作りながら順次内側に向かって行くと、一番内側が7章37~39節になるのです。37~39節の真ん中の38節は中心の中の中心です。

『世界の中心で、お風呂に入る』(7)2010年12月17日 10時52分


7.神学的に整理すると
 入れ子構造の外側から内側の中心に向かって行く時、神と人とが同じ歩調で共に歩んで行くのだということに気付きます。ヨハネの福音書の構造を神学的に整理すると、下記のようになります。ここで「受肉」とは、神が人となってこの地上に生まれたことを言います。

●神の歩み(神の行為・発する恵み)
 創造(一般啓示)→受肉(特殊啓示、以降も)→復活→受難→聖霊の派遣

●人の歩み(人間の経験・受ける恵み)
 誕生→罪の中の生活→イエスとの出会い→悔い改め→初時的聖化→新生→聖化

 ここで面白いのは、神の歩みでは「復活→受難」と、イエスの受難・復活に関して人が目撃したことと逆の順番になっていることです。神様は時間を超越した方なので、時の流れに逆行しても、全く差し支えなく、人の歩みに合わせてくださっています。

 人の歩みのゴールは聖化です。このゴールが『世界の中心で、お風呂に入る』ということです。