すべては偶然か?(クリスマス・メッセージ)2010年12月06日 06時27分

 昨晩、今年3回目の街頭説教を船橋駅近くで行いました。
 クリスマスが近いので、クリスマスのメッセージにしました。

 「すべては偶然か?」

 こんばんは。もうすぐクリスマスですね。楽しみにしてらっしゃる方も多いことと思います。

 クリスマスは私たちの救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする日です。

 イエス・キリストが生まれた日、天使は次のように告げました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 救い主イエス・キリストは全人類の救い主ですから、私たち日本人の救い主でもあります。決して外国人だけのための救い主ではありません。

 イエス・キリストは日本生まれではないから日本人には関係ない、と思っている方も多いと思いますが、そうではありません。イエス・キリストは全人類の救い主です。

 では、どうしてイエス・キリストの誕生の地に、日本が選ばれなかったのでしょうか。それは多分、日本が海に囲まれているからだと思います。もしイエス・キリストが日本で生まれていたなら、四方を囲んだ海のため、キリストの教えが世界中に広まって行くことは難しかったでしょう。

 神様はキリストの教えを全世界に広めたいと考えていましたから、そのために最もふさわしい土地を選んだのです。

 イエス・キリストが生まれた中東のパレスチナ地方は、アジア・ヨーロッパ・アフリカの間にあって、これらの大陸へ行き来するのに非常に便利な所でした。そして、イエスが生まれた当時、この地域一帯はローマ帝国が支配していて平和が保たれており、交通網も非常に良く整備されていました。それゆえ、人々の往来も盛んで、短い間にイエス・キリストの教えがアジア・ヨーロッパ・アフリカの地中海沿岸の広い範囲に広がっていくことができたのです。そして、その後のゲルマン民族の大移動により、さらに広範囲に広がっていきました。神様の計画は本当にすごいなあ、と感嘆します。

 最初にお読みした、イエス・キリストの誕生を告げる天使の声は新約聖書のルカの福音書に書かれています。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 また、ヨハネの福音書は次のように書いています。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)

 これは不思議ですね。

 「すべてのものは、この方によって造られた」ということは、この宇宙も、地球も、私たち人間も、すべてイエス・キリストによって造られたということです。しかし、宇宙が造られたのは、イエス・キリストがこの世に生まれた2000年前よりも、もっとずっと前のことです。これは一体、どういうことでしょうか。

 それは、こういうことです。イエス・キリストは永遠の中を生きる神ですから、2000年前よりも、ずっと前から存在していたのです。天には父と呼ばれる神様がいて、イエス・キリストはその父なる神と一緒に宇宙が造られる前から存在していました。イエス・キリストは自分を、父の子である、と言っています。そして、「わたしと父とは一つです」とも言っています。つまり、宇宙は、父とイエス・キリストによって造られたのです。

 そんなことは信じない、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。この宇宙は偶然にビッグ・バンの引き金が引かれて、できたんだ。すべては偶然だ。
 生命が誕生したのも偶然だ。たまたまアミノ酸が合成され、アミノ酸からタンパク質ができ、そこから偶然に生命が誕生したのだ、と信じている方も多いことでしょう。

 でも果たしてそうでしょうか。そんな風に全てを偶然の為せる業と割り切ってしまって良いものでしょうか。この世を支配しているものは、偶然だけなのでしょうか。

 例えば、大切な人との出会いはどうでしょうか。それも偶然の結果なのでしょうか。また、私たちは、偶然に生まれた存在なのでしょうか。偶然に出会った両親から偶然に生まれただけの存在なのでしょうか。

 そんなことはない、大切な人との出会いは、見えない力によって引き寄せられた結果なのだ、と考える方も案外多いのではないでしょうか。運命の赤い糸を信じている方も多いのではないでしょうか。

 まさにその通りです。この世は偶然によって支配されているのではなく、人と人との出会い、特に大切な人との出会いは、見えない力によって引き寄せられた結果、起こることです。

 その見えない力を働かせている方こそ、神様です。
では、神様なら、どんな神様でも良いのでしょうか。そんなことはありませんね。人と人とを見えない力によって引き合わせることは、時間と空間を超越した神様でなければ、できないことです。

 このことは、はっきりと申し上げなければなりません。時間と空間を超越した神様でなければ、宇宙を造ることはできず、宇宙を造った神でなければ、人と人とを引き合わせることはできません。

 私は他の宗教の神や仏については詳しくありませんから、聖書のことだけ語りますが、聖書には、次のように書いてあります。

「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(ペテロの手紙第二3:8)

 神にとって一日は千年のようであり、千年は一日のようだと聖書は言っています。そのように時間を超越しているのは宇宙を創造した神だからこそのことです。時間と空間の外側にいるお方だからこそ、宇宙を創造することができたのです。

 神様は時間と空間を超えた場所にいて、人と人との間に見えない力を働かせてくださっています。私たちは、偶然に出会った両親から偶然に生まれた存在ではありません。私たち一人一人が生まれた背後には、時間と空間を超越した神様の見えない力が働いているのです。

 私たちの救い主イエス・キリストが2000年前に赤ちゃんになってこの世に来たことも、私たちと無関係な出来事ではなく、時間と空間を超ええて私たちに直接関係している出来事です。

 私たちは、神様というと何だか遠い存在に感じてしまうことがあるのではないでしょうか。そんな私たちにとって神が身近な存在になるように、イエス・キリストは神様であるにも関わらず赤ちゃんになって、この世に来てくださいました。それも、王様の家柄とかお金持ちの家ではなく、ナザレという田舎に住む、ヨセフという貧しい大工の息子として生まれました。母マリヤも特別な女性ではなく、普通の女性でした。もしイエスの両親のヨセフとマリヤが裕福であったなら、イエスが旅先の家畜小屋で生まれるなどということはなかったでしょう。しかし、家畜小屋で生まれたイエスだからこそ、弱い立場の人たちのことがよく分かるのです。このことは、私たちにとって本当に大きな恵みだと思います。
 イエス・キリストが生まれた日、天使はこのように告げました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 イエス・キリストは、いきなり大人のスーパーマンとして、この世に来たのではなく、無力な赤ん坊として、それも貧しい家の子どもとして家畜小屋で生まれ、弱い立場の人々の中で成長していったのです。
 これこそ、私たちの救い主と呼ぶにふさわしいお方ではないでしょうか。全知全能の神で、不可能なことなど一つもないお方なのに、イエス・キリストは弱い者として生まれ、育ち、最後も弱い者として十字架に掛かって死にました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 このように天使が告げて始まったイエス・キリストのこの世での生涯は十字架で終わりました。イエス・キリストを神の子として認めない人たち、すなわち神から離れていた人たちにより死刑にされたのです。こうして、イエス・キリストは人々の心が、神から離れている罪の状態にあることを私たちに教えてくださいました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 救い主イエス・キリストはご自分を犠牲にして、私たちの心が神から離れていることを教えてくださいました。宇宙を造り、私たちを造った神様から心が離れていることは恐ろしい罪です。その罪から私たちを救い出すために、イエス・キリストはこの世に人として来てくださいました。

 今年のクリスマス、是非このことを考えてみてください。

 私たちは偶然の中を生きているのではありません。私たちは偶然に出会った両親から偶然に生まれてきたのではありません。時間と空間を超越した神様が見えない力で私たちに働きかけてくださっています。

 そのようにして私たちは生まれて来たのです。しかし、神様から心が離れていると、そのことがなかなか分かりません。
 このように神から心が離れている罪から私たちを救い出すために、イエス・キリストはこの世に生まれてくださいました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

 今年のクリスマス、今夜からでも、ぜひ教会にいらしてください。教会でイエス・キリストがどのようなお方か、思いを巡らしてみてください。教会でそのような時を持つことを、心からおすすめします。

 皆さんが、良いクリスマスの時を過ごすことができるよう、お祈りしています。