11.先駆者と後継者2011年01月03日 06時41分

 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

 年末は帰省しており、新年は元旦礼拝と日曜礼拝が二日連続であって更新が滞りましたが、連載を続けます。なお、最近見た映画の『最後の忠臣蔵』と『ヤマト』の感想を、すぐ後に書きたく思っていますので、そちらもよろしくお願いします。

『世界の中心で、お風呂に入る』(11)

11.先駆者と後継者(第三の入れ子)
 第三の入れ子は【1:19~34】と【21:1~23】のペアで、それぞれ洗礼者ヨハネとペテロのことが主に書かれています。洗礼者ヨハネはイエスの公生涯の前に人々に洗礼を授け、ペテロはイエスの公生涯の後に人々に洗礼を授けました。二人ともイエスの公生涯中も人々に洗礼を授けましたが、彼らの活動の中心は先駆者ヨハネがイエスの前であり、後継者ペテロはイエスの後でした。

 このように「洗礼を授ける者」という観点から見ると、ペテロが21:7で上着をまとって湖に飛び込んだのも、洗礼を授ける者として服装を整える必要があったという意味にも取れるのではないでしょうか。裸では洗礼を「授ける者」ではなく、「受ける者」になってしまうからです。

 この第三の入れ子は、ヨハネの福音書がペテロを洗礼者ヨハネと同格の位置に置いている点で非常に重要ではないかと私は考えています。ルカの福音書によれば洗礼者ヨハネはザカリヤという祭司の息子ですから、洗礼という聖礼典を執行するにふさわしい家系の者であると言えるでしょう。一方、ペテロは元々は漁師であり、しかもイエスが逮捕された時には保身のためにイエスのことを3度も「そんな者は知らない」と言い、イエスを裏切りました。そんなペテロに対してイエスはこの21章で三度も「わたしの羊を飼いなさい」と言い、牧者として改めて任命しています(再召命)。イエスを裏切ったペテロは普通に考えれば牧者としては全くふさわしくありません。しかし、人間は全て罪人ですから、牧者としてふさわしい者など、もともと誰もいないのです。

 この第三の入れ子は、ペテロと洗礼者ヨハネを同格に置くことで、ペテロのような重大な罪を犯した者でもイエスは赦し、人々を救う牧者としての役割を与えていることを示しています。21章を単独で読むとイエスとペテロとの私的な関係のように見えますが、1章との入れ子のペアとして考えると、ペテロが祭司ザカリヤの息子である洗礼者ヨハネと同格に置かれていることは、公的な性格を帯びていると言えるのではないでしょうか。そして、それは現代に至るまでの多くのペテロの後継者についても言えることだと思います。

『最後の忠臣蔵』2011年01月03日 10時42分

 とても良い映画だと思いましたが、残念な映画でもありました。

 一番残念だったのは、人形浄瑠璃が話の展開に混乱を与えていたことです。大半の人にとっては混乱を与えるものでは無かったのかもしれませんが、少なくとも私にとっては混乱以外の何物でもなく、人形浄瑠璃は無いほうが良かったとさえ思います。映画館を出てもずっとモヤモヤしていたので、帰りに本屋に寄って原作の文庫本を買って読み^^; 、またYahooのユーザーレビューなどを読んでようやく人形浄瑠璃の位置付けが分かりました ^^

 ネタバレになってしまうので、これ以降のことは書かないほうが良いのかもしれませんが、この際ですから、私がどのように混乱したかを書き、なぜ私がそのように思ってしまったのかを考察してみたく思います。従って、以下はネタバレします。

 私がどう混乱したかと言うと、『曽根崎心中』という人形浄瑠璃の展開を当てはめるなら、この映画のヒロイン可音もまた自害してしまうのであろうという予測を持って映画の後半を見てしまったのです。こういう予断を持って見てしまったので、いったい可音はどうなったのか、映画が終わってからも気になって仕方がありませんでした。映画のラストシーンも私にとっては可音の自害を思わせるものだったからです。

 しかし、原作を読み、何人かのレビューを読み、可音は自害しなかったのだと知りました。可音が自害するなどという勘違いをして見た人など他には、いなかったみたいです ^^; でも私は可音がいつ自害するか、いつ自害するのか、と思いながらずっと見ていたので、結局、映画の最後の1/4ほどは、はぐらかされるばかりで感動を得そびれてしまいました。

 いったい何故わたしは可音が自害するはずだと思い込んでしまったのでしょうか。

 それは、まず役所広司さん扮する孫左衛門が必ず切腹するであろうという確信があったからだと思います。人によっては孫左衛門が切腹するとは思わずに見たことでしょう。或いはまた切腹を予想した人でも、もしかしたら切腹を回避するかもしれないという期待を持って見た人も多かったのではないでしょうか。そのような人たちにとっては孫左衛門が切腹するかしないかが最大の関心事であり、可音が自害するかどうかは関心外だったことでしょう。しかし、私にとっては孫左衛門が切腹することは100%確実だと思っていましたから、私の関心は人形浄瑠璃の『曽根崎心中』に導かれて可音の自害に向かっていたのだと思います。

 では私は何故、孫左衛門が必ず切腹するであろうと確信していたのでしょうか。

 主イエス・キリストのしもべとして仕えようと思う前の私だったら、主君への忠義のために切腹する武士のことなど、自分とは掛け離れた世界のことと考えていたはずです。しかし、今や私は主イエスのしもべとして迫害の中で死んでいったペテロやパウロ、そして多くの聖徒たちの気持ちが分かるようになりました。主のしもべとしての立場を貫くなら、主に従い続けるしかありません。その先に迫害による殉教があろうともです。もちろん、遠藤周作の『沈黙』の主人公のような道を選ぶこともあるでしょう。それはそれで、イエスに忠実な生き方なのだと思います。いずれにしても、ひとたびイエスとの個人的な関係が堅固に構築されたなら、イエスを離れることなど考えられないことです。

 『武士道』を書いた新渡戸稲造がキリスト教徒であったことからも分かるように、武士道とキリスト教は極めて近い関係にあるということを、この映画を見て改めて感じました。このことは、私にとっては大いなる希望となりました。この映画を見て本当に良かったと思います。そういう意味では、人形浄瑠璃で混乱させられたことも、このような考察のきっかけとなったのですから、良かったのかもしれません。

『SPACE BATTLESHIP ヤマト』2011年01月03日 11時43分

 テレビアニメの『宇宙戦艦ヤマト』に夢中になっていた私としては、実写版のこの『ヤマト』は評判が良かろうが悪かろうが必ず見なければならないと思っていました。

 見てガッカリすることも覚悟の上で見に行ったわけですが、思いのほか面白く、大満足でした。それで、シネコンのように客の入れ替えを厳密にチェックするような映画館ではなかったので、2回続けて見てしまいました ^^

 この映画は大スクリーンで見ればこその映画で、小さな画面で見たら面白さは半減どころか1/10ぐらいになってしまうだろうと思いました。ヤマトの映像は迫力があってワクワクしました。私は佐々部監督の『チルソクの夏』でも、一番好きなシーンと言えば、安クンが乗った大型フェリーが下関の埠頭を離岸していく場面です。この大型フェリーの場面の醍醐味は大きなスクリーンでなければ絶対に味わえません。同様に、『ヤマト』の迫力も映画館でなければ絶対に味わえないだろうと思いました。

 キムタク扮する古代進の最後の選択にも違和感はありませんでした。これは、前回の『最後の忠臣蔵』の感想にも書いたことですが、数年前までの私だったら、自分とは全く掛け離れた世界として違和感を感じていたかもしれません。しかし、いまやイエス・キリストのしもべとなった私には、古代進のような選択肢も当然あり得ると思えるようになっています。『ヤマト』の古代進と『忠臣蔵』の孫左衛門とでは状況が全然違うと思う人もいるかもしれませんが、私にとっては両者は同じです。

 そういう意味で、『最後の忠臣蔵』と『ヤマト』の2本は、自分の心境の変化を確認できた、貴重な映画だったと言えると思っています。

12.出会いと再会2011年01月04日 16時49分

『世界の中心で、お風呂に入る』(12)

12.出会いと再会(第四の入れ子)
 第四の入れ子は【1:35~49】と【20:19~31】のペアで、前者が「イエスと弟子たちとの出会い」、後者が「復活したイエスと弟子たちとの再会」の場面です。

 このペアのつながりも極めて強固です。なぜなら、この福音書におけるイエスの第一声と第二声の

「あなたがたは何を求めているのですか?」(1:38)
「来なさい。そうすればわかります。」(1:39)

の答えが、20章の次の言葉だからです。

「平安(平和)(があなたがたにあるように。」(20:19,21,26)

 イエスの「あなたがたは何を求めているのですか?」という問い掛けは、私たち読者に対する問い掛けです。復活して今も生きておられるイエス・キリストは、私たちにこのように問い掛けているのです。このように、あたかもイエスが私たち自身に問い掛けているように感じさせてくれるのが、聖霊の働きです。

 連載第5回において聖霊を感じることの重要性について書きましたが、この場面でイエスが今も生きていると感じるなら聖霊を感じており、この場面のイエスが単に書物の中の人物であるとしか感じられないなら、聖霊を感じていないということになります。

 「あなたがたは何を求めているのですか?」(1:38)

という問い掛けは極めて深い問い掛けです。

 私たちは自分が心の奥底で本当は何を求めているのか、実は良く分かっていないのです。お金や名誉など、表面的に求めている事柄なら、すぐに答えることができるでしょう。しかし、イエスのこの問い掛けはそんな表面的なことを聞いているのではありません。即答できなかった弟子たちにイエスは言いました。

「来なさい。そうすればわかります。」(1:39)

 この招きに素直に従ってイエスのもとに行き、イエスにより真の心の平安(平和)が与えられた時、私たちが心の奥底で求めていたのは、真の平和だったのだ、ということが分かるのです。

新渡戸稲造『武士道』2011年01月05日 17時39分


 一昨日の1月3日に『最後の忠臣蔵』について書いた時、最後に

「『武士道』を書いた新渡戸稲造がキリスト教徒であったことからも分かるように、武士道とキリスト教は極めて近い関係にあるということを、この映画を見て改めて感じました。」

と書きました。実はこう書いた時は、直感的にそう思っただけで、だいぶ前に読んだ新渡戸稲造の『武士道』の内容はほとんど覚えていませんでした。というより、以前読んだ時は『武士道』は私には難しすぎて歯が立たなくて、途中で挫折していたというのが本当のところです。それで、「武士道とキリスト教は極めて近い関係にある」と書いてしまった後で、あれはもしかしたら書き過ぎではなかったかなと、ちょっと心配になりました。それで、書棚にあった岩波文庫の『武士道』(矢内原忠雄・訳)を久し振りで読み返してみました。

 感謝なことに、今回は以前に比べて遥かによく理解できました。以前は違いましたが、今は私もイエス・キリストという主君に仕える家臣だからです。

 そうして、武士道とキリスト教とが近い関係にあるという記述がある箇所を探してみると、ありました、ありました。少し書き出してみます。


「十七世紀の一名僧が諷して言える言に ―― 『平生何程口巧者(くちごうしゃ)に言うとも死にたることのなき侍は、まさかの時に逃げ隠れするものなり』と。また、『一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も為朝(ためとも)の矢も透(とお)らず。』
 これらの語が我が国民をして、『わがため己が生命を失う者はこれを救わん』と教えし大建築者〔キリスト〕の宮の門に接近せしめているではないか。これらは、キリスト教徒と異教徒の間の差異を能う限り大ならしめんと骨折る試みがあるにかかわらず、人類の道徳的一致を確認せしむる数多き例証中の、僅か二、三であるに過ぎない。」(十二章 p.106)

「奉仕の教義に関する限り ―― 自己の個性をさえ犠牲にして己よりも高き目的に仕えること、すなわちキリストの教えの中最大であり彼の使命の神聖なる基調をなしたる奉仕の教義 ―― これに関する限りにおいて、武士道は永遠の真理に基づいたのである。」(十四章 p.120)


 新渡戸稲造は、真の武士・真のキリスト教徒は両者共に、精神的・霊的に一度死を経験して自己が死に、主のために生きるという新たな生を与えられた者であることを言っています。

 『最後の忠臣蔵』の武士・瀬尾孫左衛門は、主の大石内蔵助のために一度命を捨てた者であるが故に、可音を嫁がせるという使命を果たし終え、他に主のために働く事柄が無くなったなら、切腹するより他に選択肢はあり得なかったことになります。

13.ナタナエルとトマス2011年01月07日 22時58分

『世界の中心で、お風呂に入る』(13)

13.ナタナエルとトマス(第四の入れ子・その2)
 第四の入れ子の中にはナタナエルとトマスのペアもあります。二人とも他の弟子の言うことを素直に信じずに、疑っていました。

「ナタナエルは言った。『ナザレから何の良いものが出るだろう。』ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』」(1:46)

 ナタナエルは、イエスがナザレの出身と聞き、そんな田舎町出身の者だったら大したことはないだろうと思いました。しかし、イエスの次の言葉により彼は自分が間違っていたことを知り、イエスの弟子になりました。

「イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(1:48)

 イエスが見たナタナエルは、過去のナタナエルでしょうか。いいえ、入れ子構造から考えるなら、イエスが見たのは未来のナタナエルでしょう。この第四の入れ子は「平安があなたがたにあるように。」とイエスが言った20章とペアになっています。そして、「いちじくの木の下」はⅠ列王4:25、ミカ4:4、ゼカリヤ3:10に見られるように平和な場所の象徴です。つまり、イエスは、救われて平和の中にいる未来のナタナエルを見たのです。このように、入れ子構造では過去と未来とがつながっています。

 20章のトマスも素直ではありませんでした。他の弟子たちが復活したイエスに会ったと話したことを信じず、

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(20:25)

と言いました。そんなトマスの前にイエスが現れたため、トマスは信じました。イエスは言いました。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(20:29)

 この「見ずに信じる者は幸いです」は極めて重要です。ヨハネの福音書には「来て、そして、見なさい」という表現が多く出て来ます。しかし、20:29では一転して「見ずに信じる者は幸いです」になります。イエスは間もなく天に上って目に見えない存在になってしまいます。それゆえ、「見ずに信じる」ことが必要になるのです。

 聖霊の時代になって以降、イエスを信じる者の中にはイエスが住んでいます。もちろん、現代においてもそうです。キリスト者は信仰が深まるにつれ、次第にイエスに似た者へと変えられて行きます。私たちはイエスご自身を見ることはできませんが、イエスに似たキリスト者を通してイエスの姿を見ることができます。

14.御使いに関する予告と成就2011年01月08日 11時29分

『世界の中心で、お風呂に入る』(14)

14.御使いに関する予告と成就(第五の入れ子)
 第五の入れ子は【1:50~51】と【20:1~18】のペアです。入れ子の構造は、この箇所に関して驚くほど豊かな情報を提供してくれます。隠れて見えなかった部分が見えて来るのです。まず、
 
「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(1:51)

が何を表わすのか、注解者たちの間で定まった見解はありませんでしたが、「イエスの復活」のことであることが、入れ子構造から分かります。20:12に御使いが出てくるからです。

「すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。」(20:12)

 イエスの遺体が消えて空っぽになった墓に御使いがいたことはマタイ・マルコ・ルカの福音書にも書かれています。そして、興味深いことに、四つの福音書全てが、この御使いを目撃したのは弟子たちではなく、マグダラのマリヤなどの女性たちであったことを記しています。

 御使いを見たのは女たちであったことを1:51に戻してみると、何が見えてくるでしょうか。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(1:51)

とイエスが言った時、そこには弟子たちだけでなく、既に女たちがいたのだということが分かります。ナタナエルは21:2によればガリラヤのカナの人であり、マルコ15:41によればイエスがガリラヤにおられたとき、いつも女たちがつき従って仕えていたとありますから、イエスはガリラヤでナタナエルに会い、その時からイエスの周囲には女たちがいたことが分かります。

 入れ子構造が、これほどまでに豊かな情報を提供してくれることに、私は感動を覚えずにはいられません。

15.祝福とのろい2011年01月09日 21時20分

『世界の中心で、お風呂に入る』(15)

15.祝福とのろい(第六の入れ子・その1)
 第六の入れ子は【2:1~12】と【19:1~42】のペアです。私はこの第六の入れ子が、世界の中心の【7:37~39】以外では最も重要であると考えますので、何回かに分けて、じっくり説明したく思います。なぜ重要かと言うと、キリスト教の核心である「十字架」について書かれた19章が含まれるからです。

 このペアは「カナの婚礼」と「十字架」のペアです。婚礼の「祝福」と十字架という死刑の「のろい」のペアです。十字架がのろいであるということについて、パウロは「ガラテヤ人への手紙」の中で旧約聖書の申命記21:23を引用して次のように書いています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

 キリスト教のシンボルは、ユダヤ人にとってはのろいのシンボルなのです。このように死刑になったのろわれた者を救い主として神と崇めるキリスト者を、人々は愚か者であるとあざけりました。しかし、パウロはコリント人への手紙第一で次のように書きました。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(第一コリント1:18)

 キリスト教は逆説の宗教です。十字架は究極の逆説です。イエスを信じない人々にとっては愚かに見える十字架が、実は人々を救うのです。イエスの時代に先立つこと約700年前、預言者イザヤは未来を見通して次のように預言しました。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

 この逆説を、第六の入れ子は「祝福とのろい」のペアによりワンセットで示しているのです!このようなヨハネの福音書の入れ子構造の仕掛けは、本当に凄いなあと思います。

16.良いぶどう酒と酸いぶどう酒2011年01月10日 09時43分

『世界の中心で、お風呂に入る』(16)

16.良いぶどう酒と酸いぶどう酒(第六の入れ子・その2)
 ぶどう酒が登場するのは2章と19章だけです。母マリヤが登場するのも2章と19章だけです。それゆえ、この二つの章が強い関係にあることは明らかです。

 ぶどう酒はイエスの血を表わします。マタイの福音書にはイエスが最後の晩餐でぶどう酒の入った杯を取り、次のように言ったことが記されています。

「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)

 神に反逆するという私たちの罪をイエス・キリストは全て背負って十字架に掛かり、血が流され、そのイエス・キリストの血ゆえに私たちは罪が赦されました。それゆえ、イエス・キリストを信じる者は誰でも神の子とされ、永遠のいのちを持つことができるのです。

 良いぶどう酒は、私たちに新しい命を与えてくれる、生命力にあふれたイエスの血です。一方、酸いぶどう酒とは発酵が進み過ぎて死ぬ寸前のぶどう酒ですから、滅ぼされるべき罪の象徴と考えても良いのではないでしょうか。

 イエス・キリストの血は私たちの罪を滅ぼし、新しい命を与えてくださいました。この、二つのぶどう酒による生と死の鮮やかなコントラストを描く2章と19章の両方に母マリヤもまた登場するのは、生命と母とは強い関係にあることから、決して偶然ではないであろうと私は考えます。

17.十字架による救いの祝宴2011年01月12日 21時36分

『世界の中心で、お風呂に入る』(17)

17.十字架による救いの祝宴(第六の入れ子・その3)
 2章のカナの婚礼には弟子たちも招かれていました。弟子たちは1章でイエスの招きに応じてイエスに付き従いました。イエスは神の子ですから、それまで神の方を向いていなかった弟子たちが神の方を向き、付き従うようになったのです。
 ルカの福音書15章の有名な「放蕩息子の帰郷」では、父(神)のもとを遠く離れて放蕩していた息子が、悔い改めて父の方を向き、父のもとへと帰っていきました。父はそんな息子を大喜びで出迎え、祝宴を開きました。

 カナの婚礼も同様です。天は弟子たちが神の方へと向きを変えたことを喜び、盛大な祝宴を開きました。その祝宴がカナの婚礼です。天の神様は私たちが神から離れていたことの非を認めて神の方を向くだけで、それまで神から離れていた罪を無かったことにしてくださるのです。無罪としてくださるだけでなく大喜びで祝宴を開いてくださるのです。それは、イエス・キリストが十字架に掛かって私たちの罪を全て背負ってくださったが故のことです。

 第六の入れ子は神の救いの御業を、十字架と祝宴というセットで見事に描いています。ヨハネの福音書の入れ子構造には実に巧妙にメッセージが組み込まれており、その構造の巧みさには本当に感嘆します。