自己の開城2011年01月15日 06時30分

(クリックすると拡大表示されます)

 最近の日記で、『忠臣蔵』と『武士道』に関連して「自分を捨てる」という表現を何度か使いました。分かりにくい上に、「マインド・コントロール」という誤解を招く恐れもあるかもしれませんので、もう少し説明してみたく思います。

 「自分を捨てる」とは、「自己を明け渡す」ということですが、私はこれを『忠臣蔵』の赤穂城開城や『篤姫』の江戸城開城にちなんで、「自己の開城」とこれから呼んでみようと思います。そのほうが日本人の情緒に当てはまりやすい気がするからです ^^

 「自己の開城」とは、イエス・キリストの霊である聖霊に自己の支配権を委ねることです。イエス・キリストは全知全能の神ですから、絶対に誤った方向に導くことはありません。ただし、自我が残っていると誤った方向に進みます。人間は不完全ですから、開城したつもりでも時に自我が顔を出しますが、一番大切なことは、ともかくもイエス・キリストに対して白旗を揚げ、全面降伏して、開城する意志を示すことです。そうすればイエス・キリストによる心の支配が始まり、たまに自我が出て道を誤ったとしても、すぐに修正してくださいます。

 「自己の開城」は「マインド・コントロール」とは全く異なります。「マインド・コントロール」は教えられた範囲内のことしか考えられなくなるのだと思いますが、自己を明け渡すと、かえって自分らしくなります。その証拠に、自己を明け渡すことを「自己の開城」と呼ぶことにしたのは私の発想であり、今まで私は聞いたことがありません。また、このブログで連載中の『世界の中心で、お風呂に入る』も私の全くのオリジナルであり、ここで展開しているヨハネの福音書の入れ子構造の解釈は、私も随分たくさんの英語の注解書を買い漁りましたが、どこにも書いていない解釈です。

 自分を捨てて自己を明け渡すと、かえって自分らしくなれるとは完全にパラドックスの世界です。パラドックスでがあるゆえに理詰めでは決して分からず、体験してみなくては絶対に分からない世界です。キリスト教はこのようなパラドックスに満ちています。イエス・キリストの十字架自体がパラドックスだからです。神が死刑になって死んだ後に甦って人に新たな生命を与えるなど、理詰めでは考えられない話でしょう。

 上の写真はアメリカ人のD.A.シーモンズが書いた『子供服を着たクリスチャン』(河村従彦 訳)という信仰書の中で「自己の明け渡し」について書かれた箇所です。残念ですが、クリスチャンの国のアメリカでも「自己の開城」をしてイエス・キリストに支配権を委ねたクリスチャンは少数派であるため、このような本が書かれるのです。世界におけるクリスチャン人口は多いですから、もし全てのクリスチャンが「自己の開城」をしたなら、世界はもっともっと平和になるはずなのですが・・・

 しかし、この本にも書いてある通り、「自己の開城」をすることは自己の究極的な危機であるがゆえに、本当に難しいことです。私も神学校に入る前は、自分を開城するなど考えられないことでした。神学校1年生の時もそうでした。2年生になってもそうでした。しかし、神学校に入ってもなお自分を守り、城を開け渡さないとは何たる不信仰であるかと内なる声に責められ続け、打ちのめされ、泣く泣く白旗を揚げて開城しました。この開城した時の2年生の秋は本当に敗北感にまみれてみじめでした。けれども開城してまもなく、素晴らしい世界へと導かれたのでした。

 この本を訳した河村先生は、キリスト教のパラドックスについて私が知る限りでは一番深く理解している先生だと思います。先生によるキリスト教の教理の授業では、パラドックスであるがゆえに今まで私たちが気付かなかったことを、たくさん学ぶことができ、本当に勉強になりました。