13.ナタナエルとトマス2011年01月07日 22時58分

『世界の中心で、お風呂に入る』(13)

13.ナタナエルとトマス(第四の入れ子・その2)
 第四の入れ子の中にはナタナエルとトマスのペアもあります。二人とも他の弟子の言うことを素直に信じずに、疑っていました。

「ナタナエルは言った。『ナザレから何の良いものが出るだろう。』ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』」(1:46)

 ナタナエルは、イエスがナザレの出身と聞き、そんな田舎町出身の者だったら大したことはないだろうと思いました。しかし、イエスの次の言葉により彼は自分が間違っていたことを知り、イエスの弟子になりました。

「イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(1:48)

 イエスが見たナタナエルは、過去のナタナエルでしょうか。いいえ、入れ子構造から考えるなら、イエスが見たのは未来のナタナエルでしょう。この第四の入れ子は「平安があなたがたにあるように。」とイエスが言った20章とペアになっています。そして、「いちじくの木の下」はⅠ列王4:25、ミカ4:4、ゼカリヤ3:10に見られるように平和な場所の象徴です。つまり、イエスは、救われて平和の中にいる未来のナタナエルを見たのです。このように、入れ子構造では過去と未来とがつながっています。

 20章のトマスも素直ではありませんでした。他の弟子たちが復活したイエスに会ったと話したことを信じず、

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(20:25)

と言いました。そんなトマスの前にイエスが現れたため、トマスは信じました。イエスは言いました。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(20:29)

 この「見ずに信じる者は幸いです」は極めて重要です。ヨハネの福音書には「来て、そして、見なさい」という表現が多く出て来ます。しかし、20:29では一転して「見ずに信じる者は幸いです」になります。イエスは間もなく天に上って目に見えない存在になってしまいます。それゆえ、「見ずに信じる」ことが必要になるのです。

 聖霊の時代になって以降、イエスを信じる者の中にはイエスが住んでいます。もちろん、現代においてもそうです。キリスト者は信仰が深まるにつれ、次第にイエスに似た者へと変えられて行きます。私たちはイエスご自身を見ることはできませんが、イエスに似たキリスト者を通してイエスの姿を見ることができます。