『冬の小鳥』の「3」2011年02月01日 20時40分

 映画『冬の小鳥』を、また観ました。
 前回気付かなかった、いくつかの新たな発見がありました。

(1) ヒロインの少女ジニが新たに生まれ変わったのは、教会で礼拝があった日曜日でした。教会が日曜日に礼拝を行うのは、イエス・キリストが十字架の死から復活したのが日曜日で、これを祝い讃えるためです。

(2) また、ジニが自分の墓で顔にかぶせた土を払いのけた時、天をじっと見ていました。この時、天にまします父なる神を信じようと思ったのでしょう。

(3) このジニが天をじっと見ていた直後にマリヤ像と小鳥の墓の十字架が映り、そして窓ガラスに水をかけて洗っているシーンになりました。窓がきれいに洗われたように、ジニの心もイエス・キリストの霊により、きよめられました。

 ところで、キリスト教では「3」という数字が重要視されます。例えば、イエス・キリストは、やがて自分が十字架に掛かって死ぬことを3回にわたって弟子たちに予告しました。

 『冬の小鳥』でも、3回繰り返された出来事があります。まず、ジニは3回、人に約束を破られました。父と看護婦と友人にです。また、孤児院の門の前で歌を歌って養子先に行く子を見送るシーンが3回ありました。どちらも重要なシーンです。

 もう一つ、3回繰り返されるべき、重要なシーンがあります。「一度死んで復活する」場面です。足の不自由なオンニ(お姉さん)と主人公ジニの2人がこれに当たります。でも、もう一人いるはずなんだけど…、誰だろう???… と悩みましたが…

 あっ、そうか!
 イエス・キリストご自身がその人でした ^^

わが魂よ2011年02月04日 10時59分

 レポート提出があったりして連載中の「世界の中心で・・・」が中断していますが、魂を整え直して、できるだけ早くに再開したく思います。それで、今朝は魂を整えることについて書きます。

 今朝の食卓で詩篇42篇が開かれました。1節、2節(後述)が大変に有名ですから、私はいつもこの冒頭の2ヵ節にばかりに目が行ってしまいがちですが、今朝は5節に目が留まりました。

 わがたましいよ。
 なぜ、おまえはうなだれているのか。
 (詩篇42:5)

 なんと、この詩篇の作者は、「自分の魂」と「自分」とを切り離して考えています。これはスゴイことだと思います。自分の中に霊的な部分があることを、しっかりと認識しています。

 私たちは、表面的には楽しく過ごしていても、どこか心が満たされないということがあります。そういう時は、この魂の部分が満たされていないのだと思います。しかし、普通はそのことになかなか気付かずに、他のことで気をまぎらそうとするので、魂の部分はいつまでたっても満たされません。

 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
 神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。
 (詩篇42:1,2)

 この詩篇の作者の魂に不足していたのは、神でした。旧約聖書のこの時代、人々はエルサレムの神殿に礼拝に行かなければ、魂が神の霊で潤されることはありませんでした。一方、イエス・キリストの十字架と復活以降、今の時代を生きる私たちはいつでも聖霊なる神の恵みを受けることができます。しかし、私たちはそれをどれくらい自覚しているでしょうか。自分が神の恵みの中にいるか、自問自答することが、どれくらいあるでしょうか。

 わが魂よ。
 おまえは神の恵みの中にいるか。

 私たちは、自分の魂の状態を絶えず自分でチェックできるものでありたいと思います。

黙示録の続編としてのヨハネ福音書2011年02月15日 15時48分

黙示録の続編としてのヨハネ福音書の入れ子式シェルター

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(ヨハネの黙示録21:6)

1.仮説
 ヨハネの福音書はヨハネの黙示録の読者、とりわけエペソの教会の信者・未信者に向けて書かれたものではないか。そのため、ヨハネの福音書が書かれた第一の目的はイエスの生涯を描くことではなく、読者が「初めの愛」を思い出し(または学び)、そこから離れずに留まり、この書を終末の主の再臨の日までのシェルターとして用いるためではないか・・・

 このように考えると、ヨハネの福音書は格段に理解しやすいものになる。本稿は、この仮説を基に、ヨハネの福音書が書かれた背景を探るとともに、この福音書が持つ特異な入れ子式のシェルター構造について論考する。 注解書(本稿末尾の参考文献欄に挙げた)によれば、この福音書と黙示録の著者と執筆年代について定まった説は無いが、本稿では福音派の伝統的な立場に立ち、著者は両書ともパトモス島への流刑の後に釈放されてエペソの地に住んだと伝えられるゼベダイの息子の使徒ヨハネであると考える。使徒ヨハネがパトモス島またはエペソで先ず黙示録を書き、次いでエペソで福音書を書いたとして考察を進めていくこととする。 なお黙示録のギリシャ語は文法的な誤りが多いため、ヨハネの福音書と同じ著者が書いたとは考えない研究者が多いが、口述筆記者や執筆目的の違い、旧約ヘブル語の訳し方等で説明が可能とする注解も複数存在するので、同じ著者と考えても差し支えないであろう。

2.迫る再臨の時
「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すために、神がキリストにお与えになったものである。・・・。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」(黙示録1:1,3)

 ヨハネの黙示録はこのように書き始められ、次いで2章においてエペソの教会に次のように勧告している。

「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」(黙示録2:4,5)  

 つまり、エペソの人々が悔い改めずにいるなら、彼らは最後の審判で「いのちの書に名のしるされていない者」(黙示録20:15)として、さばかれてしまう恐れがあるのだ。いのちの書の中身は神のみが知るゆえ、自分の名がある保証はない。しかし、初めの愛から大きく離れてしまった者にとっては、それがどのようなものであったか思い出すのは容易ではあるまい。まして未信者には経験が無いので思い出すのは不可能だ。黙示録に記されている勧告を読んで、エペソの教会の人々は困惑したに違いない。このような人々の困惑に接し、ヨハネは新たな書を記して人々を救いへと導く必要性を感じたのではないだろうか。

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

 福音書の執筆目的を著者のヨハネ自身がこのように記しているゆえ、イエスの生涯を描くことがこの書の主要な目的ではないのだ。イエスの生涯の記述を利用して読者がイエスを信じていのちを得ることが主要な目的なのである。従ってヨハネの福音書は、人々がイエスを信じたいくつもの記事を通じて、読者に対しても信じることを迫る。このような信じる/信じないの二者択一的な迫り方は乱暴にも見える。しかし、イエスの再臨を目前に控えていると考えるなら、悠長なことは言っていられない。黙示録の切迫感を持ってヨハネの福音書を読む時、この霊的な書はさらに生き生きとしたものに感じられるようになる。

3.黙示録の続編として福音書を読む
 ヨハネの福音書を、黙示録の続編として読むと、今まで気付かなかったことが、いろいろと見えてくる。そのような福音書中の重要な語句の例を、次にいくつか示してみよう。

・【小羊】
 イザヤ53章で預言されたように、イエスは小羊としてほふり場に引かれて行った。黙示録ではこのイエスを示す「小羊」が全部で40回も使われている。ヨハネの福音書ではイエスが登場する最初の場面で、バプテスマのヨハネがイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と言った。黙示録の読者にとって、このヨハネ福音書中の「小羊」はイエスを身近に感じさせるのに絶大な効果があったのではないだろうか。

・【御使いたちの上り下り・いちじくの木の下】
「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」(ヨハネ1:51)。注解書の多くは、このイエスの言葉を創世記28:12のヤコブの夢の場面との関連を述べている。しかし、この福音書が黙示録の続編であるとするならば、これが主の再臨の場面であることは明白であろう。また、イエスがこの直前にナタナエルが「いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ1:48)とはミカ4:4で預言されている「終わりの日」の出来事であり、イエスは未来のナタナエルを見通していたのであろうと解釈できる。

・【ひとりとして滅びることなく】
 私は以前からヨハネ3:16の「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」という表現を、何となく引っ掛かりを感じるスッキリしない表現だと感じていた。何故わざわざ「ひとりとして」を挿入するのか。これを省いて「御子を信じる者が滅びることなく」でも十分に意味が通じるではないかと。しかし、この聖句が黙示録2:4の「初めの愛から離れた者」を念頭に置いて書かれたものであるとするなら、スッキリする。つまり仮にイエスを信じていても、愛の理解が中途半端であったなら、即ち、神の愛と十字架との関係をしっかりと理解していないのなら、初めの愛から離れてしまって「いのちの書」から名が漏れて滅びることもあり得るということであろう。ヨハネの福音書は、この神の愛を正しく伝えるために書かれたものであると解釈できる。神の愛がしっかりと伝わっていればこそ、「いのちの書」にしっかりと名が刻まれ、ひとりとして滅びることがないのだ。

・【わたしは門です】
 「見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた」(黙示録3:8)。主はフィラデルフィヤの教会に対してこのように言ったが、ヨハネの福音書では全ての人に向けて「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます」(ヨハネ10:9)とイエスが言ったことに人々は励まされたのではないだろうか。
 この「わたしは門です」を含めてヨハネ福音書の「わたしは・・・です」はどれも、切迫感を持って聞くのとそうでないのとでは、受け留め方に雲泥の差が生じるだろう。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)についても同様である。主の再臨が間近であると信じている読者にとっては、極めて大きな慰めとなったであろう。

・【洗足・互いに愛しなさい】
 「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残ることなく示された」(ヨハネ13:1)。ヨハネ13章でイエスは弟子たちの足を洗い、そして34節で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と弟子たちに教えた。ヨハネの福音書、そしてヨハネの手紙第一でヨハネが愛について滔々と書き連ねる背景に黙示録のエペソの教会への勧告、「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」(黙示録2:4,5)があると考えるのは、理に適っていると言えるのではないか。このことは、次に述べる黙示録と福音書の間の驚くべき強固な関係によっても裏付けられるのである。

4.黙示録と福音書の驚くべき関係
 本稿の冒頭で黙示録21:6を引用したのは、この聖句が黙示録と福音書の関係が驚くほど密接で強固であることを示しているからである。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(黙示録21:6)

 何が驚くべきことであるのか ―― それは、この短い一文がヨハネの福音書全体の構造を言い表しており、この構造がシェルターの機能を持っている、ということである。

 黙示録は、近い将来に起こることに備えてアジヤの教会の人々に悔い改めを勧告している。悔い改めて、神の愛の恵みの中に入り、その中に留まることを勧告している。そしてヨハネの福音書には、そのための具体的な道筋が示されているのである。来たるべき「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日」(マルコ13:19)であるとイエスは言った。ヨハネの福音書は、どのような苦難の中にあっても神の愛から離れずに、信仰を保ち続けるためのシェルターの役割を担っているのである。

5.シェルターに必要な機能
 信仰を揺るがす苦難の中でも護ってくれるシェルターには次の二つの機能が必要である。
 ①神が堅固な屋根と壁になって様々な悪魔の攻撃から人を護ってくれる
 ②人がその神の庇護の下から離れないように留まっていられる居心地の良さ

この①と②を黙示録21:6に当てはめてみよう。すると、次のようになる。
 ①「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」
 ②「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」

そしてヨハネの福音書は、この二つの必要な機能を、次の形で満たしている
 ①アルファであるプロローグで神がこの世界を創造したことを、オメガであるエピローグで神が造ったこの世界は入れ物であることを示し、この福音書全体が入れ子構造になっていることを明らかにしている
 ②入れ子構造の中心をヨハネ7:37~39として、そこに聖霊の恵みが注がれている

 入れ子の中心のヨハネ7:37~39には次のように記されている
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」

 祭りの「終わりの大いなる日」とは、終末の「終わりの日」を意識していないだろうか。また、「心の奥底」は原語のギリシャ語では「コイリア」であり、これは「腹」や「胎」を意味する語である。この「コイリア」はヨハネの福音書ではもう1箇所、ニコデモが「もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか」(ヨハネ3:4)とイエスに聞く場面で使われている。「母の胎」ほど、シェルターのイメージにピッタリの言葉が他にあるだろうか。しかも、そこには神の御霊がたっぷりと注がれ、流れ出している場所である。  ヨハネの福音書の読者は、一度最初(アルファ)から最後(オメガ)まで読んでその構造を頭に入れたなら、今度はアルファとオメガの両サイドから中心に向かってこの福音書の内容を思い描き、中心の7:37~39に到達したなら、そこに留まって聖霊に満たされ続ければよいのである。そこは神の恵みにあふれたシェルターであり、ここに留まり続ける限り、いかなる災いが降りかかろうとも、神が護ってくださるのである。図1に「入れ子式シェルター」の基本構造を示す。


図1 ヨハネの福音書の「入れ子式シェルター」の基本構造

6.救いの過程を示す入れ子構造
 このヨハネの福音書のシェルターを形づくる入れ子構造は、実に緻密に出来ている。この構造の詳細な説明には多くのページが必要であるため、それは卒業論文に譲ることとし、本稿においては下記に表を載せるにとどめる。  ここで重要なことは、最外殻から中心に至る歩みは、神による救いの過程を示しているということである。

 創造(誕生)→復活したイエスとの出会い→悔い改め(イエスの方を向く)→祝福の宴→イエスの血による心の宮きよめ→新生→教会につながる→聖霊の満たし(シェルター)

 人はこのような過程を経て救われ、シェルターの中に入ることができるのである。
 この過程においては、裏側のオメガの側がイエスの受難(逮捕・十字架)と復活とを通じて、表側をしっかりと支えていることが、次の表1から分かる。

表1 ヨハネの福音書における入れ子の精密構造

7.おわりに
 聖霊が注がれる前の旧約の時代の民は、神の臨在を感じることが難しかったので、心が神から離れてしまうのは、ある意味仕方のないことであったとも言えよう。しかし、聖霊の恵みを授かっている新約の時代においても、神の恵みの中に留まることは何と難しく、離れることは何と簡単なことであろうか。自分自身の献身前の経験を思い起こしても、仕事や用事などで2週続けて礼拝を欠席した時に、3週目は特に用事が無かったのに休んでしまったことがあった。結局その時は1ヶ月以上教会に行かなかったのではないかと思う。
 晩年の使徒ヨハネもアジヤの教会の人々の信仰を見て、危機感を感じ、そして、悩んだのではないだろうか。いったいどうしたら、人々が神の愛の中に留まり続けることができるだろうか、と。人々もまたヨハネに、どうしたら神の愛に留まれるか聞いたであろう。

「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』(黙示録1:8)

 こうしてヨハネは、アルファであり、オメガである神の中心に人が留まることができる福音書を書くというアイデアが霊感により与えられたのではないだろうか。そしてやがて、 黙示録21:6を基本構造とし、その中にイエスの生涯を描いていくという構想が与えられたのだ、と私は思う。

参考文献(Directed Study中に本稿に関係した事柄で学びやヒントを得た文献)
 ヨハネの福音書の解釈で本稿のようなアプローチをした書は調べた範囲では無かったと確認したことを示すため、敢えて手元にある関連書籍のほとんどをリストアップした。
●論文
・宮崎誉「ヨハネ福音書の第一過越物語(2-4章)の集中構造的解釈」福音主義神学41,2010.
●書籍(新しい順)
・J.R.Michaels, "The Gospel of John" (NICNT), Eerdmans, 2010.
・岩上敬人『パウロの生涯と聖化の神学』日本聖化協力会出版委員会,2010.
・J.N.オズワルト『「聖き」を生きる人々』日本聖化協力会出版委員会,2009.
・小林稔『ヨハネ福音書のイエス』岩波書店,2008.
・山下正雄「ヨハネの福音書」『新実用聖書注解』いのちのことば社,2008.
・鈴木英昭「ヨハネの黙示録」『新実用聖書注解』いのちのことば社,2008.
・藤本満「マルコの福音書」『新実用聖書注解』同上(マルコ13章の終末論関係で).
・R.Kysar, "John, The Maverick Gospel" 3rd ed., Westminster John Knox Press, 2007.
・A.J.Kostenberger, "John" (Baker Exegetical Commen. on NT), Baker Academic, 2004.
・C.S.Keener, "The Gospel of John: a commentary"1&2 Hendrickson Publishers, 2003.
・D.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』新教出版社,2002.
・C.L.Blomberg, "The Historical Reliability of John's Gospel" InterVarsity Press, 2001.
・G.R. Beasley-Murray, "John" (Word Biblical Commentary 36), Thomas Nelson, 1999.
・A.J.Kostenberger, "Encountering John" Baker Academic, 1999.
・大貫隆『ヨハネによる福音書(福音書のイエス・キリスト)』日本基督教団出版局,1998.
・朝比奈悦也『ヨハネの福音書』(新約聖書講解シリーズ)イムマヌエル綜合伝道団出版局,1997.
・H. Ridderbos, "The Gospel of John: a theological commentary" (英訳) Eerdmans, 1997.
・L.Morris, "The Gospel According to John" Revised (NICNT), Eerdmans, 1995.
・W.F. Dicharry, "Paul and John" The Liturgical Press, 1992.
・D.A.Carson, "The Gospel According to John" (Pillar NT Commen), Eerdmans, 1991.
・H.J.S.ブレニー「ヨハネの黙示録」『ウェスレアン聖書注解・新約篇4』イムマヌエル綜合伝道団,1986.
・H.J.S.ブレニー「ヨハネの福音書」『ウェスレアン聖書注解・新約篇1』イムマヌエル綜合伝道団,1984.
・F.F.Bruce, "The Gospel of John: Introduction, Exposition and Notes" Eerdmans, 1983.
・R.A.Culpepper, "Anatomy of the Fourth Gospel" Fortress Press, 1983.
・A.シュラッター『ヨハネの黙示録』新教出版社,1979.
・A.シュラッター『ヨハネによる福音書』新教出版社,1978.
・村瀬俊夫「ヨハネの福音書」『新聖書注解・新約1』いのちのことば社,1973.
・山口昇「ヨハネの黙示録」『新聖書注解・新約3』いのちのことば社,1972.
・R.Bultmann, "The Gospel of John: a commentary"(英訳) The Westminster Press, 1971.
・C.K.Barret, "The Gospel According to St. John" 2nd ed.,The Westminster Press, 1971.
・W.バークレー『ヨハネ黙示録』〈上〉ヨルダン社,1969.
・W.バークレー『ヨハネ福音書』〈上・下〉ヨルダン社,1968.
・O.クルマン『新約聖書』【文庫クセジュ】白水社,1967.