『最後の忠臣蔵』2011年01月03日 10時42分

 とても良い映画だと思いましたが、残念な映画でもありました。

 一番残念だったのは、人形浄瑠璃が話の展開に混乱を与えていたことです。大半の人にとっては混乱を与えるものでは無かったのかもしれませんが、少なくとも私にとっては混乱以外の何物でもなく、人形浄瑠璃は無いほうが良かったとさえ思います。映画館を出てもずっとモヤモヤしていたので、帰りに本屋に寄って原作の文庫本を買って読み^^; 、またYahooのユーザーレビューなどを読んでようやく人形浄瑠璃の位置付けが分かりました ^^

 ネタバレになってしまうので、これ以降のことは書かないほうが良いのかもしれませんが、この際ですから、私がどのように混乱したかを書き、なぜ私がそのように思ってしまったのかを考察してみたく思います。従って、以下はネタバレします。

 私がどう混乱したかと言うと、『曽根崎心中』という人形浄瑠璃の展開を当てはめるなら、この映画のヒロイン可音もまた自害してしまうのであろうという予測を持って映画の後半を見てしまったのです。こういう予断を持って見てしまったので、いったい可音はどうなったのか、映画が終わってからも気になって仕方がありませんでした。映画のラストシーンも私にとっては可音の自害を思わせるものだったからです。

 しかし、原作を読み、何人かのレビューを読み、可音は自害しなかったのだと知りました。可音が自害するなどという勘違いをして見た人など他には、いなかったみたいです ^^; でも私は可音がいつ自害するか、いつ自害するのか、と思いながらずっと見ていたので、結局、映画の最後の1/4ほどは、はぐらかされるばかりで感動を得そびれてしまいました。

 いったい何故わたしは可音が自害するはずだと思い込んでしまったのでしょうか。

 それは、まず役所広司さん扮する孫左衛門が必ず切腹するであろうという確信があったからだと思います。人によっては孫左衛門が切腹するとは思わずに見たことでしょう。或いはまた切腹を予想した人でも、もしかしたら切腹を回避するかもしれないという期待を持って見た人も多かったのではないでしょうか。そのような人たちにとっては孫左衛門が切腹するかしないかが最大の関心事であり、可音が自害するかどうかは関心外だったことでしょう。しかし、私にとっては孫左衛門が切腹することは100%確実だと思っていましたから、私の関心は人形浄瑠璃の『曽根崎心中』に導かれて可音の自害に向かっていたのだと思います。

 では私は何故、孫左衛門が必ず切腹するであろうと確信していたのでしょうか。

 主イエス・キリストのしもべとして仕えようと思う前の私だったら、主君への忠義のために切腹する武士のことなど、自分とは掛け離れた世界のことと考えていたはずです。しかし、今や私は主イエスのしもべとして迫害の中で死んでいったペテロやパウロ、そして多くの聖徒たちの気持ちが分かるようになりました。主のしもべとしての立場を貫くなら、主に従い続けるしかありません。その先に迫害による殉教があろうともです。もちろん、遠藤周作の『沈黙』の主人公のような道を選ぶこともあるでしょう。それはそれで、イエスに忠実な生き方なのだと思います。いずれにしても、ひとたびイエスとの個人的な関係が堅固に構築されたなら、イエスを離れることなど考えられないことです。

 『武士道』を書いた新渡戸稲造がキリスト教徒であったことからも分かるように、武士道とキリスト教は極めて近い関係にあるということを、この映画を見て改めて感じました。このことは、私にとっては大いなる希望となりました。この映画を見て本当に良かったと思います。そういう意味では、人形浄瑠璃で混乱させられたことも、このような考察のきっかけとなったのですから、良かったのかもしれません。

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