北風と太陽2007年08月03日 06時29分



 スティーブン・オカザキ監督の『ヒロシマナガサキ』と佐々部清監督の『夕凪の街 桜の国』。
 滅多に映画のハシゴをしない私ですが、この2本の映画はハシゴをして見るべき映画ではないかと思い、神保町の岩波ホールで『ヒロシマナガサキ』を見終わった後で渋谷のシアターNに移動して『夕凪の街 桜の国』を見ました。
 『ヒロシマナガサキ』のパンフレットの中で佐藤忠男氏が「この被爆者の方々の美しい表情が、原爆についての反省なんかするものかと力んでいるアメリカ人たちの一部のかたくなな心を柔らかく押し開く力になることを切に望む」と書いています。私もそれを切に望みます。しかし同時にそれは難しいかもしれないとも思いました。この映画を見ているとアメリカ人の軽さ・無神経さに腹が立ってくるからです。この映画を見終わった後でアメリカに対して何か行動をとるとしたら、結局は怒りの抗議と謝罪要求ということになってしまいそうです。それはやはり北風で、相手の心をますます閉ざす方向に働くような気がします。
 『ヒロシマナガサキ』を見た直後に見た『夕凪の街 桜の国』は情感の豊かさを一段と鮮明に感じることができました。『ヒロシマナガサキ』を見てささくれ立った心が癒されました。ではこの映画を見た我々はどんな行動を起こせばよいのでしょうか。北風ではなく太陽でなければならないことだけは確かですが、具体的に何をすれば良いのかは、なかなか見えてきません。私はもっと強く祈り感性を研ぎ澄まして、その答えを探し続けなければならないと感じています。こうの史代さんが類い稀な感性によって紡ぎだした言葉のような何かを我々も生み出さなければなりません。我々のような凡人にはこうの史代さんのような創造性は無いから無理だなどと言ってあきらめて答え探しを止めてしまってはいけません。
 麻生久美子さんが被爆者の心を知ることはできなくても知ろうとする姿勢が大事だと思って皆実を演じたと語っています。我々が平和のために何ができるか、答えはなかなか見つからないかもしれませんが、麻生さんのように答えを探し続ける姿勢が大切なのだろうと思います。そして答えが近くに来た時にそれを見逃さないよう、感性を磨いておくことも必要なことなのでしょう。