平和公園全体がイベント広場に…残念!2007年08月05日 23時27分



 きょうの午前は高津教会の礼拝に出席し、午後の飛行機で広島入りしました。明日の6日は被爆者慰霊・平和祈念式典に参列する予定ですので、夕方ホテルにチェックインした後で早速、平和公園へ下見に行ってきました。平和公園の中は放送局や各種イベントのテントが林立しており、完全にイベント広場と化していました。これはかなり残念なことです。私がそう感じた理由を少し長いですが以下に記します。
 普段、私は日曜日の高津教会の礼拝はほとんど欠かさず出席し、水曜夜の祈祷会もできるだけ参加するようにしています。しかし、7月の1日、8日、15日の日曜日はそれぞれ韓国出張、下関の七夕上映会参加、大阪出張があって礼拝に出席しませんでした。水曜の祈祷会にもこの期間は参加しませんでした。それで約1ヶ月間教会から離れてわかったことは、信仰心を失うのは早いが、取り戻すのは大変だということです。少しぐらい教会から離れていても復帰すればすぐに元のような感性・霊性を取り戻せると思っていましたが、全然そんなことはありませんでした。22日、29日、そして今日の8月5日の礼拝に出席して、ようやく感性・霊性が回復してきて信仰心も取り戻せたような気がしました。そうして8月6日の広島では平和のための祈りを捧げるつもりでやや気負って広島入りしましたが、いつもは厳粛な雰囲気に包まれている平和公園がお祭りのようなイベント広場になってしまっているのを見て失望しました。
 私はイベント大好き人間ですからイベントそのものを否定するつもりはありませんが、広島から発するメッセージは厳粛なものである必要があるはずです。背景に宗教的な心があれば明るいイベントであっても、ある程度の厳粛さを保つことができると思いますが、宗教色を排除した日本のこのような行事の場合、お祭りイベント的な要素が混入すると残念なことですが、重みがほとんど感じられない軽いものになってしまうと思います。日本人同士では軽いと思わなくても信仰を生活の中心においた海外の人から見れば、軽いと思われてしまっても仕方がないと思いました。なぜそう思うかと言うと、教会から離れていた1ヶ月間は私自身もフワフワと浮遊するように軽かったことに教会に復帰して気付いたからです。この軽い重いは非常に微妙な感覚ですので、人にはなかなか分かってもらえないかもしれませんが、とにかく、そういうことなのです。
 広島発のメッセージが、なぜ世界になかなか届かないのか、少し分かったような気がした8月5日の平和公園でした。明日、8月6日は今日よりは厳粛な雰囲気に包まれていることを期待したく思います。