祈りとは何だろうか2007年08月07日 12時31分


広島世界平和記念聖堂(2007年8月6日)

 「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
  (マタイの福音書5章44節)

 8月5日の午前、高津教会礼拝での藤本満先生の説教のテーマは上のマタイの福音書の御言葉を引いての「平和のための祈り」でした。このメッセージを心に刻み込んで羽田から広島へ向かう機中の人となった私は窓際の席で眼下の景色を見ながら、原爆を搭載して広島に向かったB29爆撃機エノラ・ゲイ号の搭乗員はどのような気持ちでいたのだろうかということを、いつしか考え始めていました。飛行機に乗ってこのようなことを考えたのは初めてのことです。また、あちこちで積乱雲が発生しているのが見えて、それらが原爆のキノコ雲のように見えました。普通の雲が原爆のキノコ雲に見えたのも初めてのことでした。このようにして原爆に関する感受性がビンビンに高まった状態で広島入りしたので、平和公園内がお祭り広場的になっていることに大いに失望したのでした。
 こういうこともあり、8月6日の午後に世界平和記念聖堂で催された「キリスト者平和の祈り」の集いへの参加には、ある意味で午前の平和公園での式典に参列すること以上の期待感を持って臨んだのでした。しかし、招かれていたメインゲストによる反戦メッセージソングと一人芝居からは、祈りの心がほとんど感じられなかったので、心底失望しました。聖堂で行われる祈りの会に招かれたからには、もう少し祈りについて事前に考えたり勉強したりして来て、我流でも良いから祈りのメッセージを発して欲しかったです。
 この2日間の出来事を通して、私は図らずも祈りについて再考する機会を得ましたので、ここに記してみたいと思います。

 オリビア・ハッセー主演の映画『マザー・テレサ』では、問題に直面したマザーが真剣に祈ると、(不思議と)道がスイスイと開けていきます。このことを「不思議」と思う人は祈りの力を信じていない人です。私は祈りの力を信じていますから不思議とは思いませんが、私自身が持っている祈る力は弱いので、マザーの祈る力の強さには驚きと感動と羨望とを覚えます。
 かつての私は多くの人と同様に祈りの力を信じていませんでした。私が高津教会に通うようになったのは、ちょうど6年前の今頃でした。その当時、教会員でガンが悪化して瀕死の状態になりながら生還した方がおり、礼拝の時に「皆さんのお祈りのおかげで回復できました」と感謝の言葉を述べていました。それを聞いた当時の私は心の中でこの方のことを、あざ笑っていました。祈りで病気が治るはずがないじゃないか、というわけです。そんな私でしたが、神社には頻繁に行ってお願いごとをしていました。不思議な力が働いて運が開けることを望んでいたのです。こんな私が祈りのおかげで病気が治ったと信じている人をあざけることができるでしょうか。むしろ私があざけるべき対象は私自身だったと言えるでしょう。
 そんな私でしたが教会に通ううちに、祈るとは神様にお願いすることなのだということが少しずつ分かってきました。そんなことは当たり前だと思う人がいるかもしれませんが、神社の神様にお願いするのと教会で神様に祈ることの間には決定的な違いがあります。教会には聖書という聖典があり、その気になれば聖書を読んで自分の祈りを聞いてくださる神様がどんな方なのかを知ることができますが、神社の神様がどんな存在なのかを詳しく記した聖典は存在しないのです。多少の記述はあるかもしれませんが、どんなふうに人の願いを神は聞き、或いは聞かないのかということを詳細に明らかにしている聖書のような書物は神道にはないでしょう。祈りとは神との対話なのだということが、私にも次第に分かってきたのです。神社での願いごとは一方的に自分の望みを言うだけで、神の意志を探るということはありません。
 神との対話などと書くと、こいつはアブナイ奴だと思われるかもしれません。静寂も暗闇もなく、時間的ゆとりもない現代を基準にすれば、そう思うのは当然かもしれません。神との対話が難しい環境ですから、神など存在しないと思う人が多くても不思議ではありません。しかし産業革命以前の時代には、神と向き合う環境が整っていました。私が信じるキリスト教はそういう神と対話できる環境があった時代に成立したものだからこそ、信じることができると私は考えています。近代そして現代の文明の恩恵に浴している我々は、生活は便利になったかもしれませんが、神と対話するのに必要な環境を失ってしまいました。マザー・テレサはそのような環境にあっても神と対話することができる稀有な人の一人だったのだと思います。
 平和のための祈りは、よく分からない存在に向かって一方的に平和をお願いするのではなく、神仏との対話の中での祈りでなければならないと思います。神仏と対話する環境が整っていない現代ではそれは難しいことですが、感性と霊性を研ぎ澄まして心身を整え、神仏と対話するのだという意識を持って祈らなければならないと思います。
(2007年8月7日 下関にて)