三上英次とホセアとイエス2011年06月03日 10時44分

 三上英次とは高倉健主演の映画『駅 STATION』の主人公、ホセアとは旧約聖書のホセア書の預言者ホセア、イエスとはイエス・キリストのことです。いま、木曜夜の祈祷会の説教は旧約聖書の12小預言書からしており、先週まではハガイ書、今週と来週はホセア書です。

 ホセア書の学びをしていて、私はふと、『駅 STATION』の冒頭のシーンを思い出しました。たった一度の過ちを犯した妻(いしだあゆみ)と別れることにした三上(高倉健)が駅で妻子を見送る切ないシーンです。三上は妻を赦しませんでしたが、ホセアはボロボロになりながらも妻を大きな愛で赦しました。

 浮気性の女ゴメルを妻とするよう神に命じられたホセアはゴメルとの間に三人の子供ができます。その子らに神は不吉な名前を付けることを命じます。子の健やかな成長を願う親にとって、それはどんなにつらいことだったでしょうか。この時点でホセアは相当に傷ついていたことでしょう。

 しかし、ホセアの苦しみはまだ序の口でした。やがて妻のゴメルは男を求めて夫と子供を残して家を出てしまいます。しかし、男に相手にされなかったゴメルは娼婦(奴隷?)に身を落とします。そのゴメルを愛すよう、神はホセアに命じました。そこでホセアは銀と麦を支払ってゴメルを買い取り、彼女にこう言います。

「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」(ホセア3:3)

 普通だったら三上英次のように妻を赦せないでしょう。しかし、ホセアは三上の妻よりもっとひどい浮気性の女ゴメルを赦し、銀と麦を支払って買い取り、愛しました。

 実は、神の目から見れば私たちはゴメルと全く同じです。神から離れて、自分たちで選んだものを好き勝手に愛しています。そんな私たちを神は赦し、愛してくださり、神から離れていた私たちを買い戻してくださいました。その代価がイエス・キリストの命です。

 ホセアは銀と麦でゴメルを買い取りましたが、神はイエス・キリストを十字架に付け、その命で私たちを買い取ってくださいました。

 私たちはホセアの愛の大きさに驚嘆しますが、ご自身の命を差し出したイエス・キリストの愛は、人知を遥かに越えた愛です ^^

これが人間ですね2011年06月04日 06時11分

 菅内閣不信任を巡る国会のドタバタを見ていると、人間がどのような生き物かということが、実に良く分かります。皆、同じ法則で動いています。

「相手の自己中心性は見えるが、自分の自己中心性は見えない」

 この法則は国会議員だけでなく、マスコミやテレビを見ている私たちにも、もちろん当てはまることです。

 このことは、われわれ人間には予めインプットされた絶対善の行動基準があり、誰もがそれに基づいて行動しなければならないと考えているということを示しています。それは、「利己的・自己中心的であってはならない。非利己的・自己犠牲的でなければならない」ということです。

 しかし、非利己的・自己犠牲的な行動をするのは、そんなに簡単なことではありません。それで知らず知らずのうちに利己的・自己中心的な行動を取ってしまいがちになるのですが、本人はそれになかなか気付きません。自分の自己中心性には気付かないけれど、相手の自己中心性はよく見えるから、今回のようなドタバタになるというわけです。

 以上のことは、C.S.ルイスの『キリスト教の精髄』の第一章に、キリスト教の話を始める前に確認しておくべきこととして一般向けに実に分かりやすく40ページ以上にわたってじっくりと書いてありますから、ぜひ多くの方々に読んでいただきたいなあ、と思います。

 この世には、絶対善というものが存在します。
 最近、赤穂に観光に行って来たので、池宮影一郎の忠臣蔵小説を少し読み直していて、『四十七人の刺客』のかなり初めの部分に大石内蔵助が次のように言う場面に目がとまりました。

「世の善悪とは何であろう、何をもって善と悪を定めるのだ。…。世に絶対の善もなければ、絶対の悪というものもない」

 しかし、これは完全に間違っています。忠臣蔵でも討ち入りに加わらなかった者は、おのれを恥じています。これは小説の中だけでなく、実際もそうであったことでしょう。恥じる気持ちがあるということは、「人は非利己的・自己犠牲的でなければならない」という絶対善の行動基準が予めインプットされているということです。

 この絶対善から人間がどれほど掛け離れているかが書かれているのが聖書です。アメリカの大統領が就任する時には聖書に手を置きますから、たとえ不幸にしてそこから大きく離れてしまった場合でも原点に立ち戻ることができます。

 立ち戻るべき原点を持たない日本の場合は、いったいどこへ漂流して行くのでしょうか…

大事なのはピーク時の節電なのでは?2011年06月08日 07時55分

 国土交通省が管理する国道は節電のため点灯する街灯の数を震災後に大幅に減らし、国道沿いは今でも暗いのだそうです。そのため、自転車通勤の人たちが危険にさらされているのだと、今朝のNHKニュースで報じられていました。

 節電対策で重要なのはピーク時の使用電力をいかに抑えるかでしょうから、6月の今も夜道を暗いままにしておくのは、おかしいと思います。

 震災直後の3月は暖房による電力使用が夜間に増えたので街灯を消灯することは節電対策として有効だったでしょう。しかし、これからの時期は夜間の暖房ではなく、昼間の冷房による電力使用を抑えることが重要なのですから、歩行者や自転車利用者を危険にさらしてまで夜間の節電を続ける必要はないのではないでしょうか。
 
 何でこんなことになるのでしょうか?

 国家公務員になった人たちの多くは暗記力で競争を勝ち抜いてきた人たちだから応用力が無いのではないか、とまで勘繰りたくなります。

 秋以降、また暖房シーズンになったら考え直さなければならないかもしれませんが、その時はその時の電力事情に合わせて対策を考えれば良いのではないでしょうか。暗さが原因の交通事故が起きないよう、硬直した対応ではなく、ぜひ柔軟な対応をお願いしたく思います。

【追記1】(6/8)
 ブログで言いっ放しなのも無責任な気がしたので、国土交通省のHPから意見を記名入りで投稿しておきました。

【追記2】(6/9)
 きのうの午後に国土交通省に送信した意見に対する返事が、きょうの午後に、もう来ました。型通りの定型文ではなく、ちゃんとした返事だったので、意外でした。きっと同様の意見が多数あったのだと思いますが、それにしても、翌日すぐに型通りではない返事が来るとは、お役所もけっこう気を遣っているのですね。(ただし、国会答弁みたいな今一つすっきりしない回答ではありましたが・・・)

神か政治家のせめてどちらかは…2011年06月10日 19時17分

 昨夜の教会の祈祷会の説教で、私はこんな話をしました。

 「神か政治家か、せめてどちらか一方は、各自でしっかり選ぼう」

 自分の一番上に立つ者は自分でしっかり選ぼう、ということです。

 神を信じていれば神が一番上ですし、神を信じていなければ国のリーダーが自分の一番上に立つ者ということになります。

 いま日本のリーダーは一年交代で、政治は全く安定していません。このような安定しない世にあっても神を信じていれば心はある程度安定していますが、神を信じない人は安心して暮らしていけないでしょう。

 政治が安定しない一因は選挙で投票する国民が、あまり勉強せずにその時の気分で投票することにもよると思います。2005年の郵政民営化を問う総選挙は自民党が圧勝し、2009年の政権交代を問う総選挙は民主党が圧勝し、しかし今、民主党は全く人気がありません。選挙結果が大きく振れることは、たまには良いかもしれませんが、いつもいつも大きく振れるのは、いかがなものかと思います。これでは安定した生活が望めません。ですから、政治家を選ぶ時は、もっとしっかり勉強して選ぶ必要があると思います。

 神は聖典を世に送り、政治家はマニフェストを世に送ります。せめてどちらか一方はじっくりと読んで、自分の一番上に立つ者をしっかりと選ぶ必要があるでしょう。

 キリスト教の聖典である聖書には神の約束が記されています。政党のマニフェストには公約が記されています。

 神の約束が記されている聖書か、政党の公約が記されているマニフェストか、せめてどちらか一方はしっかりと読まなければ、どこに向かうか分からない世の流れに、ただ流されるままになってしまいます。

自分を捨てて主人に仕える喜び2011年06月13日 13時39分

 「主に仕える」という点における武士道とキリスト教との類似性について書いてほしいというリクエストがありました。
 話を分かりやすくするために、浅野内匠頭と赤穂浪士との主従関係と、イエス・キリストと弟子たちとの主従関係の類似性から、まず始めようと思います。

 ①浅野内匠頭もイエス・キリストも、犯罪者として死罪になりました。
 ②赤穂浪士とイエスの弟子たちも、犯罪者として死罪になりました。
 ③赤穂浪士もイエスの弟子たちも、主人を死罪に定めた権力者の裁定は正しい道からはずれていると確信していました。
 ④自らの命を捨ててでも忠君と正義を貫くことに赤穂浪士も弟子たちも喜びを感じていました。

 だいたい、こんなところでしょうか。
 自らの命を捨てて主人に仕えることに喜びを感じる分かりやすい例は、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」に見ることができます。

 王子は全身を金や宝石で飾られた銅像でした。ある時、王子は自分の足元で休んでいたツバメに、自分を飾っている宝石を貧しい人の所に運んで欲しいと頼みました。ツバメは暖かい国への旅を急がないと自分が凍え死んでしまうので断りました。しかし、王子が何度も頼むので一回だけのつもりで応じます。この善行を行った時、ツバメは心が温かくなるのを感じました。それで王子の頼みを次も聞きました。これを繰り返すうちにツバメは喜んで王子のために働くようになり、遂に凍え死んでしまいました。ツバメは表面的な願望では暖かい国へ行くことを望んでいましたが、本当の自分は王子のために働くことに喜びを感じることを知ったのでした。その喜びは自分の命と引き換えにしても良いと思えるほどのものでした。
 王子はイエス・キリストです。宝石と金が取り去られて、みじめな姿になった王子は廃棄され、炉で溶かされました。これはみじめな姿で十字架に付けられて死んだイエスと同じです。イエス・キリストは自らすすんで十字架に掛かり、自らの命と引き換えに人々を救いました。

 ところで、イエス・キリストは十字架で死にましたが、三日目によみがえったので、今も生きておられます。そうして2000年たった今でも王子がツバメに声を掛けたように、私たちにも声を掛けてくださっています。これは、イエス・キリストを信じるクリスチャンを通して脈々と続けられています。教会にはそのイエス・キリストの呼び掛けに応じた人々が集っており、私もその中の一人です。教会に通うようになると、表面的な願望ではなく、本当の自分が実は何を求めていたかが段々と分かるようになり、やがてイエス・キリストのために働くことに喜びを感じるようになります。命を捨てる覚悟を持つことまでは難しくても、自己中心を悔い改め、自分を捨てて神中心とすることで新たな喜びが得られるのだということが、だんだん分かるようになります。

レビ記を読んで涙2011年06月17日 16時55分

 今朝、素晴らしい経験をしたので、お証しさせていただきます。

 なお、予め断っておくと、レビ記を読んで涙が出たのは、ほふられる牛や羊が可哀想で泣けたわけではありません ^^;

『レビ記を読んで涙』

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ人への手紙 8章16節)

 今週の前半、私は自分が「神の子ども」とされていることを、あまりちゃんと自覚していないことを示されました。それで、このことへの霊的な確証を得たいと願いながら、ウェスレーの説教を読んだり、霊想書を読んだりしていました。
 さて今朝、いつものように祈りのひとときの後、今日の聖書通読の箇所を開きました。今日からレビ記に入りました。すると、1章を読み始めて間もなく、涙がボロボロ出始めました。聖書通読でレビ記と言えば、今までの私にとっては退屈な書でしかありませんでした。それなのに、今朝は泣けて仕方がありませんでした。
 細かいことを、いちいち「~なければならない」と言って教える神の言葉に、幼な子に対して手とり足とり丁寧に優しく教える父親の深い愛情を感じたからです。神はこれほどまでに、ご自分の民を愛しておられるのだということが、一つ一つの「~なければならない」から、ヒシヒシと伝わって来ました。今まで私は「神の愛」も十分には分かっていないことを感じていましたし、聖霊に関してもやや強引に自分に信じ込ませていることを感じていました。しかし今朝の経験で、これらの問題が一度に解決しました。
 退屈な律法の規定の羅列に父の愛を感じて涙を流すことなど、聖霊の働きが無ければあり得ないことです。
 父の愛が分かった喜びと、今までそれに気付かなかった鈍感さに悔いる思い、またそのような私の鈍感さ故に神の御子イエスが十字架に掛かったこと、そして私自身も神の子とされている素晴らしい恵み、これら全部が一緒になって涙がボロボロ出たのだと思います。

 本当に今朝は素晴らしい恵みをいただきました。

あなたがたの心を引き裂け2011年06月18日 11時17分

 毎週木曜夜の教会の祈祷会で、20分ぐらいの短い説教をしています。そして、その短い説教をさらに短くまとめたメモを日曜礼拝の時に配る週報に掲載しています。
 今週から、できるだけ祈祷会メモをこちらにも掲載します。
 よろしくお願いします。


6月16日祈祷会メモ

『あなたがたの心を引き裂け』
【ヨエル2:12~14】

 聖書中の人物は激しい怒り・悲しみ・嘆きを、着物を引き裂くことで表した。しかし民に悔い改めを迫った主は、ヨエルを通じて言った。

「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け」(2:13)

 着物ではなく心を引き裂けとはどういうことか、次の3点で考えよう。

①人を意識したパフォーマンスであってはならない(マタイ6章)
 イエス・キリストは山上の説教で、善行も祈りも断食も目立つ場所でしてはならないと話した。悔い改める場合も同様であろう。

②激しい感情を外にではなく、神に向ける
 感情を外に発散するばかりでは信仰が育たない。神に委ねよう。

③心の貧しい者は幸いである(マタイ5:3)
 着物を引き裂くと貧しい身なりになり、心を引き裂くと心が貧しい状態、つまり神以外に頼るものがない幸いな状態になるのである。

『複眼の映像』を読んで2011年06月20日 23時15分

 昨日の日曜日の夜、チル友さんが姫路を通るというので、姫路駅で会い、しばらく楽しい時を過ごしました。姫路駅の駅ビル内には大きな本屋があるので、少し早めに行って、佐々部監督が日記で紹介していた橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』を買い求めました。今日はそれを読みました。

 『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』などで黒澤明監督らと脚本を共同執筆した著者の体験談と黒澤明論は大変に興味深かったです。著者の橋本氏の出身地が姫路の近くということで、いま私が住んでいる姫路が多く登場するのも親しみが持てました。

 しかし、最も印象に残った箇所を一つ挙げるなら、橋本氏と黒澤明監督とのやり取りではなく、橋本氏の脚本の師匠である伊丹万作監督とのやりとりです。

 伊丹氏は、オリジナルの脚本ばかり書く橋本氏に原作物に興味はないのか聞き、そして、

「原作物に手をつける場合には、どんな心構えが必要と思うかね」

と聞きました。それに対して橋本氏は、原作を牛に例え、

「一撃で殺さないといけないんです。そして鋭利な刃物で頸動脈を切り、流れ出す血をバケツに受け、それを持って帰り、仕事をするんです。原作の姿や形はどうでもいい、欲しいのは生血だけなんです」

と答えました。すると、伊丹氏は、

「君の言う通りかも…しれない。…しかし、橋本君、この世には殺したりはせず、一緒に心中しなければいけない原作もあるんだよ」

と答えたと、橋本氏は回想しています。

 「原作と心中する」とはどういうことでしょうか。私流に解釈するなら、原作の著者と共に苦しみ、原作と共に死ぬことで、原作に宿る霊を自分の内に取り込むことができる、という意味ではないかと思いました。

 それは、聖書を語る場合には、まさにそれが必要だからです。聖書を生き生きと語るには、語る者がまず十字架上のイエス・キリストと一体になり、共に苦しみ、そして死ななければなりません。これは簡単なことではありませんが、私自身もそのようにならなければいけないことです。どうすればイエス・キリストと一体になれるか、日々祈り求めながら模索しています。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
(新約聖書・ガラテヤ人への手紙2章20節)

『神を信じて何になるのか』2011年06月22日 23時48分


 6月10日増刷の本がやっと届いたので、ようやく読むことが出来ました。5月1日発行ということで、随分前から予約を受け付けていました。フィリップ・ヤンシーの本はどれも恵まれるので、当然予約したかったのですが、いつまで京都にいるのか、なかなかハッキリしなかったので、予約できませんでした。結局、5月3日に京都を離れることになったので、姫路に落ち着いたら注文することにしたのですが、5月に発売と同時に品切れになっちゃったのでした ^^;

 この本もまた、とても恵まれる本でした。特に「ゆるすこと」がテーマの章、アメリカの銃乱射事件や南アフリカのアパルトヘイトの被害者が加害者をゆるす、と話している個所は圧巻でした。イエス・キリストが内に住んでいなければ、できないことです。

 イエス・キリストの恵みをどうやったら人に伝えることができるのか、随分前から考えていますが、ごく最近になって、天の父の愛を伝えなければ、子のイエスの恵みも伝えられないだろうということに気付きました。

 「ゆるすこと」も、まず天の父の大きな愛により自分自身もゆるされていることを自覚することが前提となります。そして身代わりになったイエスの苦しみを理解するなら、自分も人をゆるさなければならないのですが、これは容易なことではないでしょう。しかし実際に、自分をひどい目に遭わせた加害者をゆるすことができる人たちが存在することは、本当に素晴らしいことです。これはイエス・キリストの愛だけではなく、天の父の大きな愛も分かっていなければできないことだと思います。

 天の父の大きな愛を私はまだまだ分かっていないようですが、分かっていないことが分かっただけでも良かったです。

あなたがたは帰って来なかった2011年06月25日 17時52分

 6月23日(木)の祈祷会説教の要約文(教会の週報用)です。

『あなたがたは帰って来なかった』…アモス版・放蕩息子の父親

【アモス4:1~13】

 ホセアの少し前の時代(760B.C.頃)にアモスが預言した北イスラエルのべテルは、王国が南北に分裂した時(931B.C.)に、民が南ユダのエルサレムの神殿に行かないよう、ヤロブアム1世が金の子牛を造って祭壇に置いた所である。これによりイスラエルの民は偶像礼拝を続け、長い間、神から離れていた。

 主はアモスを通じて同じ嘆きの言葉を、4章で5回も!繰り返している。

「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」(6,8,9,10,11)

 本書の主はルカ15章で家出した弟息子の帰りを待ちわびる父親のようである。父親は、我に返った放蕩息子が戻って来た時、まだ家まで遠かったのに、彼を見つけた。父は息子のことを片時も忘れずに心配し、帰って来ることを願い、いつも遠くの方を見つめていた。

 「あなたがたは帰って来なかった」と何度も何度も繰り返す主は、それほどまでに私たちを深く愛してくださっている。