これが人間ですね2011年06月04日 06時11分

 菅内閣不信任を巡る国会のドタバタを見ていると、人間がどのような生き物かということが、実に良く分かります。皆、同じ法則で動いています。

「相手の自己中心性は見えるが、自分の自己中心性は見えない」

 この法則は国会議員だけでなく、マスコミやテレビを見ている私たちにも、もちろん当てはまることです。

 このことは、われわれ人間には予めインプットされた絶対善の行動基準があり、誰もがそれに基づいて行動しなければならないと考えているということを示しています。それは、「利己的・自己中心的であってはならない。非利己的・自己犠牲的でなければならない」ということです。

 しかし、非利己的・自己犠牲的な行動をするのは、そんなに簡単なことではありません。それで知らず知らずのうちに利己的・自己中心的な行動を取ってしまいがちになるのですが、本人はそれになかなか気付きません。自分の自己中心性には気付かないけれど、相手の自己中心性はよく見えるから、今回のようなドタバタになるというわけです。

 以上のことは、C.S.ルイスの『キリスト教の精髄』の第一章に、キリスト教の話を始める前に確認しておくべきこととして一般向けに実に分かりやすく40ページ以上にわたってじっくりと書いてありますから、ぜひ多くの方々に読んでいただきたいなあ、と思います。

 この世には、絶対善というものが存在します。
 最近、赤穂に観光に行って来たので、池宮影一郎の忠臣蔵小説を少し読み直していて、『四十七人の刺客』のかなり初めの部分に大石内蔵助が次のように言う場面に目がとまりました。

「世の善悪とは何であろう、何をもって善と悪を定めるのだ。…。世に絶対の善もなければ、絶対の悪というものもない」

 しかし、これは完全に間違っています。忠臣蔵でも討ち入りに加わらなかった者は、おのれを恥じています。これは小説の中だけでなく、実際もそうであったことでしょう。恥じる気持ちがあるということは、「人は非利己的・自己犠牲的でなければならない」という絶対善の行動基準が予めインプットされているということです。

 この絶対善から人間がどれほど掛け離れているかが書かれているのが聖書です。アメリカの大統領が就任する時には聖書に手を置きますから、たとえ不幸にしてそこから大きく離れてしまった場合でも原点に立ち戻ることができます。

 立ち戻るべき原点を持たない日本の場合は、いったいどこへ漂流して行くのでしょうか…

コメント

_ mokomoko2011 ― 2011年06月07日 22時10分

良いお話ありがとうございます。
時々おじゃまさせて戴きますします。
宜しく(*^。^*)

_ S.KOJIMA ― 2011年06月08日 09時02分

 お久し振りです!
 私は下関からすっかり足が遠のいてしまいましたが、そろそろまた訪れたいなあ、と思っております。
 お体に気を付けてお過ごしください。

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