自分を捨てて主人に仕える喜び2011年06月13日 13時39分

 「主に仕える」という点における武士道とキリスト教との類似性について書いてほしいというリクエストがありました。
 話を分かりやすくするために、浅野内匠頭と赤穂浪士との主従関係と、イエス・キリストと弟子たちとの主従関係の類似性から、まず始めようと思います。

 ①浅野内匠頭もイエス・キリストも、犯罪者として死罪になりました。
 ②赤穂浪士とイエスの弟子たちも、犯罪者として死罪になりました。
 ③赤穂浪士もイエスの弟子たちも、主人を死罪に定めた権力者の裁定は正しい道からはずれていると確信していました。
 ④自らの命を捨ててでも忠君と正義を貫くことに赤穂浪士も弟子たちも喜びを感じていました。

 だいたい、こんなところでしょうか。
 自らの命を捨てて主人に仕えることに喜びを感じる分かりやすい例は、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」に見ることができます。

 王子は全身を金や宝石で飾られた銅像でした。ある時、王子は自分の足元で休んでいたツバメに、自分を飾っている宝石を貧しい人の所に運んで欲しいと頼みました。ツバメは暖かい国への旅を急がないと自分が凍え死んでしまうので断りました。しかし、王子が何度も頼むので一回だけのつもりで応じます。この善行を行った時、ツバメは心が温かくなるのを感じました。それで王子の頼みを次も聞きました。これを繰り返すうちにツバメは喜んで王子のために働くようになり、遂に凍え死んでしまいました。ツバメは表面的な願望では暖かい国へ行くことを望んでいましたが、本当の自分は王子のために働くことに喜びを感じることを知ったのでした。その喜びは自分の命と引き換えにしても良いと思えるほどのものでした。
 王子はイエス・キリストです。宝石と金が取り去られて、みじめな姿になった王子は廃棄され、炉で溶かされました。これはみじめな姿で十字架に付けられて死んだイエスと同じです。イエス・キリストは自らすすんで十字架に掛かり、自らの命と引き換えに人々を救いました。

 ところで、イエス・キリストは十字架で死にましたが、三日目によみがえったので、今も生きておられます。そうして2000年たった今でも王子がツバメに声を掛けたように、私たちにも声を掛けてくださっています。これは、イエス・キリストを信じるクリスチャンを通して脈々と続けられています。教会にはそのイエス・キリストの呼び掛けに応じた人々が集っており、私もその中の一人です。教会に通うようになると、表面的な願望ではなく、本当の自分が実は何を求めていたかが段々と分かるようになり、やがてイエス・キリストのために働くことに喜びを感じるようになります。命を捨てる覚悟を持つことまでは難しくても、自己中心を悔い改め、自分を捨てて神中心とすることで新たな喜びが得られるのだということが、だんだん分かるようになります。

コメント

_ mokomoko2011 ― 2011年06月16日 19時02分

先生有難うございました。
こんな私でもよく理解できます。
命を捧げてつくす喜びがある方は幸せです・・ネ
真の幸せを見つけた人は最高の喜びと思います。

_ S.KOJIMA ― 2011年06月18日 07時48分

mokomoko2011さま
 チルソクがきっかけで、このようなメッセージをお伝えできたことを、とても不思議に思います。
 今後ともよろしくお願いいたします。

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