『複眼の映像』を読んで2011年06月20日 23時15分

 昨日の日曜日の夜、チル友さんが姫路を通るというので、姫路駅で会い、しばらく楽しい時を過ごしました。姫路駅の駅ビル内には大きな本屋があるので、少し早めに行って、佐々部監督が日記で紹介していた橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』を買い求めました。今日はそれを読みました。

 『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』などで黒澤明監督らと脚本を共同執筆した著者の体験談と黒澤明論は大変に興味深かったです。著者の橋本氏の出身地が姫路の近くということで、いま私が住んでいる姫路が多く登場するのも親しみが持てました。

 しかし、最も印象に残った箇所を一つ挙げるなら、橋本氏と黒澤明監督とのやり取りではなく、橋本氏の脚本の師匠である伊丹万作監督とのやりとりです。

 伊丹氏は、オリジナルの脚本ばかり書く橋本氏に原作物に興味はないのか聞き、そして、

「原作物に手をつける場合には、どんな心構えが必要と思うかね」

と聞きました。それに対して橋本氏は、原作を牛に例え、

「一撃で殺さないといけないんです。そして鋭利な刃物で頸動脈を切り、流れ出す血をバケツに受け、それを持って帰り、仕事をするんです。原作の姿や形はどうでもいい、欲しいのは生血だけなんです」

と答えました。すると、伊丹氏は、

「君の言う通りかも…しれない。…しかし、橋本君、この世には殺したりはせず、一緒に心中しなければいけない原作もあるんだよ」

と答えたと、橋本氏は回想しています。

 「原作と心中する」とはどういうことでしょうか。私流に解釈するなら、原作の著者と共に苦しみ、原作と共に死ぬことで、原作に宿る霊を自分の内に取り込むことができる、という意味ではないかと思いました。

 それは、聖書を語る場合には、まさにそれが必要だからです。聖書を生き生きと語るには、語る者がまず十字架上のイエス・キリストと一体になり、共に苦しみ、そして死ななければなりません。これは簡単なことではありませんが、私自身もそのようにならなければいけないことです。どうすればイエス・キリストと一体になれるか、日々祈り求めながら模索しています。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
(新約聖書・ガラテヤ人への手紙2章20節)