姫路に来ました2011年05月11日 08時36分

 8日の日曜日の朝に姫路に来ました。そのまま姫路教会に住み込み、たぶん来年の卒業式の頃まで、神学校のインターン実習生として、ここで過ごします。

 前回、『阪急電車』の日記を書いてから、まだ2週間しかたっていないのに、この映画を見たのがずっと昔のような気がします。

 この2週間の最初の1週間は京都で4月の教会の会計の締め(初めてなので大変でした)、新しく着任した牧師先生への諸事の引き継ぎ、引越し荷物の梱包・搬出をし、京都を離れた後の1週間は大阪・奈良・静岡・名古屋に行き、そして姫路に来ました。
 姫路に来てからも、引越し荷物の搬入・荷解き、必要な物品の購入やこちらでの祈祷会・礼拝説教の準備など、いろいろあって、本当に『阪急電車』を見たのが、遥か昔のような気がします。

 少し落ち着いたら、播州赤穂に行き、忠臣蔵ゆかりの地を歩き、今年の初めに『最後の忠臣蔵』がきっかけで考察を始めた、「主に仕える」という点における『武士道』とキリスト教の類似性について、さらに思いを巡らせたく思っています ^^

最後までとは、いつまでか2011年05月18日 14時00分

 ここ姫路教会は目の前に広大な田畑が広がる、のどかな場所で、読書して信仰について思いを巡らすには、本当に良い環境です。そこで今日は信仰の中でも特に大事な【永遠】について書きます。

 ニュースを見ると菅首相は「原発賠償、最後まで国が面倒見る」(4/29)とか被災者には「最後の最後まで国が前面に立ち責任を持って対応する」(5/17)とか言って、【最後まで】を強調しています。是非そうしていただきたいと思います。中途半端に終わらせることなく、最後までしっかりと面倒を見ていただきたいと思います。

 さてここで私は、人々の側もこの機会に、「最後までとは、いつまでか」ということについて是非とも考えていただきたいと思います。そして【永遠】ということにもっと目を向けていただきたいと願っています。

 三陸海岸は、これまでにも度々、大きな津波に襲われて来たということが言われています。インターネットを検索すると、過去のそのような大津波に関する解説も読むことができます。ですから、地元の人は【過去】の経験や記録をもとに警戒をしていたことでしょう。しかし私は思うのですが、日本人は全体的に、少し前のことはもう【過去】のこととしてしまい、【今】という非常に短い時間の中でしか生きていないような感じを受けています。私自身の経験からもそのような傾向があるように思います。

 私は1978年に北海道大学に入学しました。前身である札幌農学校の開校が1876年のことですから、当時は開学100周年記念のお祝いムードがまだ少し残っていました。その時の私は100年前というと大昔のような感じを受けていました。しかし、聖書を読むようになり、2000年前のイエスや3000年前のダビデ、3400年前のモーセらに関する記事を身近に感じるようになってからは、100年や200年前のことは、私にとっては昔のことではなくなりました。

 古いと言われる1000年前の『源氏物語』は確かに古い書ですが、新約聖書が書かれてから900年以上も後の書物です。ダビデ王が人妻のバテ・シェバを見そめたのは源氏が人妻の空蝉に心を寄せる2000年も前のことでした。王国を築いて上り詰め、バテ・シェバ事件を境に転落するダビデ王の盛衰の旧約聖書の記事は、とても3000年前のこととは思えない生々しさで迫って来ます。

 新約聖書のマタイの福音書の一番最後には、イエス・キリストが天に上る前に弟子たちに次のように言ったことが記されています。

「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

 聖書によれば、私たちは死んでも最後は天国か地獄かのどちらかで永遠の時を生きることになります。死んだら終わりではなく、イエスを信じていても信じていなくても復活して最後の審判を受けます(ヨハネ5:29、黙示録20:12など)。復活が実際にあることはイエス・キリストご自身が示しています。イエス・キリストの復活が実際に無かったならパウロの回心はあり得ないことです。パウロの回心がイエス・キリストの復活によるものでないとしたら、新約聖書の4分の1を占めるパウロの手紙をどう解釈したら良いか全くわからなくなります。

 菅首相の「最後まで面倒を見る」から話を始めましたが、イエス・キリストこそが本当の意味での【最後まで】、つまり【永遠】に面倒を見てくださる方です。

 3000年前のダビデ王の不倫の話からでもいいですから ^^; まずは聖書の面白さを味わっていただきたいな、と思います。そして【永遠】ということに目を向けることを始めていただけたらと思います。

「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人をやって、その女について調べたところ、『あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか』との報告を受けた。ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。」
(旧約聖書・サムエル記第二11:2~4)

旧約と新約の伊藤歩さん?2011年05月20日 22時15分


 最近、旧約聖書がすごく心に通うようになってきました。神に反逆する民はまさに自分のことだと、しみじみ感じるようになりました。

 旧約の神も新約の神も同じですから当然のことであり、新・旧どちらか一方にしか心が通わない方がむしろおかしいのですが、旧約の全体像を把握するのに時間が掛かってしまったこともあって、部分的に好きな箇所はあっても、旧約全体にはなかなか心が通いませんでした。

 『カーテンコール』の伊藤歩さんがNHKの朝ドラ『おひさま』で戦前の姿をしているのになかなか慣れませんでしたが、見ているうちに慣れて来たのと同じですね ^^  同じじゃないか… ^^;

人はなぜ苦しむか2011年05月23日 09時59分

 今まで気付きませんでしたが、「人はなぜ精神的に悩み、苦しむのか」という問いに対して、私の立場からは実に簡単に答えられることに、本(下の参考図書)を読んでいて気付きました。

 【意識】が自分の中にあることを、ほとんどの人は気付いていると思います。この意識は創造主である神が与えたものですから、「意識が神から離れるから苦しいのだ」、これが答えです。

 つまり有神論の立場に立つなら、自分の意識が神に近ければ苦しみは少ないのです。もちろん実際問題としては、どうしたら意識を神に近づけられるかなど、難しい問題がいろいろとあると思います。でも理屈としては実に単純ではないでしょうか。
 無神論の立場から、物質的な脳からどのようにして意識という非物質的なものが生まれるのかを科学的に(脳科学や認知科学に基づいて)説明するのは大変に難しい問題で、「意識のハード・プロブレム」と呼ぶのだそうです。私からすれば出発点が間違っているだけの話ですが、面白そうなのでAmazonで何冊か【意識】の研究の入門本を何冊か注文して、これから勉強してみようと思います。

 【意識】は目に見えませんが、【意識】が存在することは誰でも知っています。
 【神】も目に見えませんが、【神】が存在することは誰でも知っているわけではありません。

 どうしたら人の【意識】が創造主である【神】に向くか、意識についての学びからヒントが得られると良いなと思っています。

参考図書
・アーヴィン・ラズロ『生ける宇宙』(吉田三知世・訳)日本教文社 2010
・リー・ストロベル『宇宙は神が造ったのか?』(峯岸麻子・訳)いのちのことば社 2009.

ナルホド、意識は錯覚かも…2011年05月25日 01時13分


 【意識】は脳科学・認知科学ではどのように解釈されているかの入門書、スーザン・ブラックモア著『意識』(岩波書店)をとても興味深く読みました。意識についてのいろいろな解釈を分かりやすく解説してあって、とても良い学びになりました。

 意識をどう解釈するか様々な説がある中で、どうやら著者は、「意識が存在するかのように思えるのは錯覚で、現実には存在しない」という説を支持しているようです。意識が存在しないのだから、「ハード・プロブレム」、すなわち物理的な脳からどうして意識が生じるのかという難しい問題も存在しないというわけです。

 本には、病気や事故で脳の一部の機能が失われている患者の知覚のことや心理学の実験結果など、錯覚の事例が数多く紹介されています。この本には書いてありませんが、映画も錯覚を楽しんでいるわけですね。静止画像を次々に映して動画として見せているわけですし、画面の外側には照明や録音マイクやカメラがあることを多くの観客は知っていながらも、それを意識することなく画面に引き込まれているわけです。

 著者は霊や魂の存在は全く信じていませんから、無神論者でしょう。しかし、その著者が支持する「意識は錯覚であろう」という考え方は案外、聖書的かもしれません。聖書を信じる私も全く違う立場からではありますが、「確かに意識は錯覚かも」と、この本を読んで思うようになりました。

 聖書によれば、この地上の世界は悪魔が支配しています。C.S.ルイスの『悪魔の手紙』を読むと良くわかりますが、悪魔はあの手この手を使って人を神から遠ざけ、人が神を信じないように頑張っています。『意識』の著者のように神の存在を一蹴する本を書いている人間に対しては、悪魔はきっと大喝采を送っていることでしょう。人間は本来は創造主である神の方を向いていなければならないのに、悪魔の妨害により多くの人には神が見えなくなっています。つまり悪魔が人間に思い込ませている「神がいない世界」は、錯覚の世界なのですね。

 『ナルニア国物語』で有名なC.S.ルイスが『悪魔の手紙』の序文に書いた次の言葉は重いです。

「悪魔に関して人間は二つの誤謬におちいる可能性がある。その二つは逆方向だが、同じように誤りである。すなわち、そのひとつは悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらい喜ぶ。すなわち、唯物主義者と魔法使いとを同じようにもろ手を挙げて歓迎する。」

 唯物主義者も魔法使いも、どちらも神の方を向いていません。