教会は「みことばの風呂屋」、牧師は風呂屋の親父だ2009年05月29日 08時30分

2009年5月29日早天メッセージ原稿

聖書箇所
 ルカの福音書10章38-42節(この日記の最後に記します)
 
 昨年、ザカリヤやシメオンなど、ルカの福音書に登場する人物を取り上げて、何回か説教をさせていただきました。その時にはマルタとマリヤについても、いずれしたいと思っていました。しかし、なかなか一つのまとまった説教になりそうな気がしなかったので、とりあげることができず、そのうちに、このルカの福音書の人物シリーズも自然消滅という感じになってしまいました。
 さてしかし、最近、私の中であるテーマが大きく膨らんで来ていて、そのことを話すのに、この聖書箇所がふさわしいように思いますので、取り上げることにしました。今日、特に注目したいのは、39節と42節です。

「彼女(マルタ)にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 きょうのテーマは、「神様の浮力による浮力感」ということです。
 マリヤはきっと、いい気持ちになってイエス様のみことばに聞き入っていたと思うのですね。いい気持ちに包まれると、体が軽くなってフワフワと浮いたような気持ちになります。そういう、いい気持ちの時は、顔もおだやか~な表情になります。聖書のこの箇所には、マリヤがいい気持ちで聞いていた、とは書いてありませんが、もし深刻な顔をしてイエス様のみことばに聞き入っていたのなら、よく気の付くマルタのことですから、マリヤをそっとしておいたのではないかと思います。マリヤが余りに気持ち良さそ~な顔をしていたので、忙しく働いていたマルタは嫉妬を感じて、イエス様に愚痴をこぼしたのではないかと思うのです。
 きょう、この「浮力感」というテーマでお話ししようと思ったのは、最近、『重力ピエロ』という映画を観て、思うところがあったからです。この映画は、私は内容をほとんど知らないままに題名に惹かれて観たのですが、まあそれは殺人、放火、暴力、レイプ、売春、復讐といった、「悪」の要素が満載の映画だったので、通常なら私は5点満点で1点しか付けない映画なのですが、一箇所だけ非常に恵まれたシーンがあったので、4点を付けてもいいかな、などと思っています。
 その恵まれたシーンとは、主人公の兄と弟の兄弟が子供の頃、両親と家族4人でサーカスの空中ブランコを見上げるシーンです。ピエロがブランコにつかまって空中に飛び出そうとしているのですが、恐ろしくて腰が引けて、なかなか飛び出すことができません。しかし、意を決して空中に飛び出し、ブランコからも手を離して空中を飛び、反対側のもう一つのブランコから来た相手に、しっかりとキャッチされます。
 このシーンを見て、私は、ヘンリ・ナウエンが『最後の日記』の中で、空中ブランコに強い関心を示していたことを思い起こしました。空中に飛び出して相手に受け取ってもらう方の人は、決して捕まえてくれる人の腕を自分からつかみにいってはダメで、ブランコ上から自分をつかんでくれる相手に全てをゆだねなければいけないのだそうです。その関係にナウエンは神と人との間にあるべき関係を見い出していました。つまり、人は神に全てをゆだねた時に初めて、すべてがうまく行くのです。自分の力で何とかしようという思いが入ると、狂いが生じます。ナウエンは空中ブランコに対する洞察を本にするために資料を集め、編集者と意見交換までしていましたが、結局、本格的に取り掛かる前に亡くなってしまいました。『重力ピエロ』を観て、ナウエンが思い巡らしていたことが、ほんの少しだけ分かった気がしました。
 そして晩にお風呂に入り、また一つ分かったことがあります。
 私たちがお風呂に入って心地良く感じるのは、お湯の温かさもありますが、水の浮力により、重力から解放されるからなのですね。
映画『重力ピエロ』の中で、ブランコ上の相手に腕をつかんでもらって空中を行ったり来たりするピエロを見て、子供がお父さんに心配そうに、「あのピエロ、大丈夫かなあ?」と聞きます。すると、お父さんはこう答えます。「大丈夫だよ。あんなに、楽しそうなんだもん。」そして、つけ加えます。「楽しそうに生きてれば、地球の重力なんて消してしまえるのさ。」これは、心に残るセリフでした。私たちは、幸福感に包まれると、本当に体が軽くなったような気がします。これは、可逆的な双方向の関係のように見えます。双方向の関係とは、体が軽くなると幸せになるし、幸せになると体が軽くなる、ということです。お風呂に入ると気持ちがいいのは、体が軽くなるからなのですね。しかも、温かいお湯がまた、体の緊張をほぐしてくれます。
 さて、先週の教理Ⅱの「キリスト論」の授業で、河村先生が、大変興味深い話をしておられました。人間がまだ創造されていなかった時、世界は神に満ちていた、神様は遍在するお方だから、そこらじゅう、神様だらけだった、と図解入りで説明してくださいました。その神様だらけの空間を神様は人間に譲ってくださったのだと、おっしゃっていました。これを、人間がお湯に入った時、人間の体積分のお湯が除かれることと等価であると考えてみようと思います。すると、水の場合に排除された水の体積分の浮力が生じるように、神様により、体に浮力が生じることになります。アルキメデスの原理と同じ、ということです。ある物体により排除された流体(液体とか気体)の体積分の重力に相当する浮力が得られることを「アルキメデスの原理」と言います。だいたい紀元前220年ぐらいのことだそうです。この原理をアルキメデスは風呂に入っている時に発見したそうで、アルキメデスは発見したことがうれしくて、裸で街中を走り回ったという伝説が残っています。そのアルキメデスの原理は、物体と流体との間だけでなく、私たちと神様の間にも働いているのではないでしょうか。私たちが神様の恵みに包まれて幸福感を感じ、体のフワフワ感を感じるのは、まさに神様の浮力が働いているからではないでしょうか。
 マリヤはイエス様のみことばに聞き入り、いい気持ちになっていました。私はこれを、「みことばのお風呂」と呼びたく思います。みことばのお風呂に入ると、体が温まるのと同時に神様の浮力により重力からも解放されて、体が軽くなります。一方、マルタは同じ場所にいながら、このお風呂には入っていませんでした。マルタの奉仕も貴いものであったと思いますが、イエス様は、良いほうを選んでいるのはマリヤだとおっしゃいました。イエス様は、マルタとマリヤのどこに注目しているのでしょうか。私は二人の霊的な状態だと思います。マリヤのほうが、霊的に良い状態にあるのだと思います。そして、霊的に良い状態とは、神様の浮力により、全身が浮力を感じている状態のことではないかと思います。
 いま私の中では、この「みことばのお風呂」こそが教会のあるべき姿ではないかという考えが急速に膨らんできています。何ヶ月か前は、「教会は映画の撮影現場だ!」論を展開していましたが、今は、この「みことばのお風呂」こそがふさわしいのではないかと考えを改めました。「みことばのお風呂」では、普通のお風呂で体がきれいになるように、心がきれいになります。しかも、堅苦しい、厳格な生活管理を通じて、心がきよめられるのでなく、お風呂のような気持ちよさによって、きよめられるのです。なんと、素晴らしいことではないでしょうか。教会は、「みことばのお風呂屋さん」であり、牧師は風呂屋の親父(またはおかみさん)です。あ~、自分は風呂屋の親父になるんだ~、と思うと、俄然やる気になりませんか?私は目標が明確になり、俄然やる気になっています。神学院では、院長先生が、卒業後にどのような伝道者になりたいのかという明確なイメージを持って神学院での生活を送ることが大事だと、よくおっしゃっています。自分がどのような伝道者になりたいのか、私はこれまで特にイメージすることができないでいましたが、今は、「風呂屋の親父だぜ~!気持ちいい~!」という感じです^^ アルキメデスがアルキメデスの原理を見いだした時は、爆発的な喜びがあったと思います。私の喜びは、もっとゆっくりした、お風呂に入った時に感じるような、ジワジワ~としたものです。そんな喜びを今、感じています。
 風呂屋に行く人々は、風呂屋の親父に会いたくて風呂屋に行くのではなく、お風呂に気持ちよく入って、身も心もきれいになりたくて行くのです。教会も、人々は牧師に会いたくて行くのではなく、神様に包まれるために行くというのが、健全な姿でしょう。牧師は、そのような環境を整えるための働き人です。私は、そんな牧師を目指したいと、いま思っています。
 さてしかし、教会を訪れる人に気持ちよくなってもらいたいと言うと、教会は耳に心地よいことばかり言っていてはダメで、イエス様を信じない人がどのような裁きを受けるかということについても、きちんと語らなければダメだという声が聞こえてきそうです。もしそのような声に答えるとすれば、私は、耳に心地よいだけでなく全身で気持ち良さを味わった人は、必ず裁きについても、きちんと理解できる段階に進んで行くであろうと答えたく思います。
 きょうは、「神様の浮力による無重力感」というテーマでお話ししました。まとめると、まず、神様が満ちているところに身を置くと、お風呂のお湯の中で浮力を感じるように、神様から浮力を受けて重力から解放され、全身が気持ち良さに包まれるということです。神様が満ちているとは、今の聖霊の時代にあっては、聖霊に満ちていると言っても良いと思います。そして、教会は「みことばのお風呂屋さん」であろうということ。お風呂はお風呂屋さんに行かなくても入れますが、お風呂屋さんのお風呂はやはり、一味もふた味も違います。教会はそんなところであろう、ということ。そして、牧師は、人々に「みことばのお風呂」に気持ちよく入ってもらうために働く、働き人ではないだろうか、ということです。
 神様の浮力は、第二列王記6章のエリシャの記事にあるように、水に沈んだ斧の頭を浮かび上がらせるほどの力を持っています。そのことを覚えて、神様の働き人としてご奉仕できたら、と思います。

【ルカの福音書10章38~42節】
 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」