退職1周年2009年06月01日 10時00分

 昨年の5月31日付けで前職を辞したので、ちょうど1年が経ったことになる。
 昨年の6月から聴講生として神学校に通うようになり、9月に入試を受け、10月からは神学校の敷地内の寮に入り、24時間神学校で生活しながら聖書の教えについて学んでいる。
 神学校で学ぶようになって1年が経ち、ようやくキリスト教を魂のレベルで理解する入口に立つことができた気がする。私論だが、自らの経 験を踏まえて、人のキリスト教に対する関心のレベルは大雑把に分けて3つあるように思う。

 第0レベル: 全く関心がない
 第1レベル: 建物レベルの関心
 第2レベル: 人間レベルの関心
 第3レベル: 魂レベルの関心

 第0レベルの人は、近所に教会があっても、その存在にすら気付かない人で、10年前までの私はまさにそうだった。
 第1レベルの人の分かりやすい例は、教会で結婚式を挙げたがる人たちであろう。教会の雰囲気を好ましいと思ってくれているので、これはこれで感謝なことだ。
 第2レベルの人はクリスチャンとはどのような人間であるかに関心がある人たちであり、クリスチャンであっても、多くの人はこのレベルに留まっているように思う。
 第3レベルの人はイエス・キリストがどのようなお方であるのかを、他人からの情報を通じてではなく、イエス・キリストご自身からの語りかけを通じて、その一部を理解している人たちだ。一部とするのは、全貌を理解するのは一生掛かっても無理だからである。

 イエス・キリストは神であるのに人となった(ピリピ人への手紙2章6-8節)。人としてのイエスは全く弱い人間であった。その弱さから、純粋な人とは本来弱いものであることが分かる。北朝鮮の金正日のような人物であっても、魂に幾重にも厚くまとった武具を取り去れば、まことに弱い魂しか持っていない。敵を愛するとは、その弱い魂の部分を愛し、敵のために祈るとは、ぶ厚い武具を脱ぐように祈ることであろう。

 私も、人の弱い魂のために、もっともっと祈れる者となりたい。

 1年後の今ごろは、何を思っているだろうか。

キリスト論レポート2009年06月06日 06時22分

 神学院の2年生になって、1年生の時よりも忙しくなってきました。
 昨日はキリスト論のレポートを提出しました。考察がまだ不十分で、あまり納得がいっていませんが、下にペーストしますから、よろしければ読んでみてください。
 キリスト論の授業のレポート提出は7月と9月に、あと2回ありますので、イエス・キリストに関する理解を、それらのレポート課題を通じて深めていけたらと思っています。

教理Ⅱ(キリスト論)課題①レポート(2009年6月5日)

                        S. KOJIMA

 ヘンリ・ナウエン著『アダム 神の愛する子』と
 『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』を読んで

1.素の人間は弱い

 この二冊を読んで、まず気付いたことは、『アダム』も『マザー・テレサ』のどちらも、次の三つの型の人間が描かれているということである。
 A.見かけも実質も、ただ弱いだけのアダムのような人や貧しい人たち
 B.一見強そうに見えるが、実は卵のように壊れやすい殻(プライド等)で自らを必死に守ろうとしている現代人(アダムに出会う前のナウエンを含む)
 C.ラルシュ共同体のリーダーたちやマザーのような強さを持つ人たち

 そして、もう一つ気付くことは、ナウエンもマザーもAのタイプの人たちにイエスの姿を見出していることである。このことから、私は受肉した「人としてのイエス」が非常に弱い存在であったことを学んだ。授業でも河村先生から指摘されたことであるが、福音書を読む時、これまで私の関心はついつい「神としてのイエス」に向いていたようであり、私はイエスを権威ある強い存在としてイメージしていた。それはそれで間違いではなかったと思うが、「人としてのイエス」は本当に弱かったということを、今回学ぶことができた。
 このイエスの弱さを通して人間のことを考えるとき、人間はもともと弱い存在であることが分かる。素のままの人間は上記のAタイプのような弱い者であるということである。その弱い人間が強くなるためには、Bタイプのように自尊心や優越感などで心を武装する方法と、Cタイプのように、神によって強められる方法の2通りがあるが、Bタイプの強さは脆く壊れやすい。
 私たちが目指すべきはCタイプである。しかし、なぜ弱い人たちのために介護施設で奉仕することが、マザーやラルシュの人たちのような強さを持つことにつながるのだろうか。これは自明のことではない。聖書に照らして考えてみる必要がある。

2.なぜ弱い者がイエスなのか

 『アダム』も『マザー』もマタイ25:40のみことば、すなわち
「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです。」
を根拠に、イエスと弱い人たちとを同一視している。またヨハネの福音書でイエスは13:34と14:21でそれぞれ、
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」
と言い、弱く小さい者や隣人を愛することはイエスを愛することと同じであると言っている。

【疑問】
隣人、とりわけ弱く小さい者がイエスと同じとは、どういうことであろうか。

 日頃から聖書に親しんでいる者は上記のマタイ25:40を根拠に、小さい者とイエスが同じであることを、さして疑いを挟まずに受け入れてしまうであろうが、それほど聖書を読んだことがない人たちにとっては、これは不思議なことではないだろうか。極めて重要なマタイ25:40の教えが未信者に分かりにくいことは、伝道上好ましくないであろう。

3.受肉により二つの戒めが一体化?

 次のように考えたらどうであろうか。
 イエスがマタイ22:36-39他で言うところの第一と第二の戒め、すなわち
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
の二つの戒めがイエスの受肉により融合して一体化したのである、と。
 イエスご自身や使徒たちはこの二つの戒めが一つになったとは直接には言っていないが、マタイ25:40とヨハネ14:21は、第一と第二の戒めが一体であると考えないと理解不能である。
『マザー・テレサ』の「祈り」の章の下記の言葉は、二つの戒めが一体となっていればこそ、出てくる言葉であろう。

「生活の中にいろいろのことが入りこむので祈れない、という言い訳をする人たちがあります。そんなことはあり得ません。祈るために、仕事を中断する必要はないのです。仕事を祈りであるかのようにし続ければよいのです。
 黙想をいつもしている必要もなければ、神と語っていることを意識することも必要ではありません―どれほどそれがすばらしい体験であるにせよ、大切なのは、神と共にあり、神と共に生き、神のみこころを自分のものとして行うことなのです。清い心で人々を愛し、すべての人、特に貧しい人々を愛することが、間断ない祈りになるのです。」

 マザーやラルシュの施設で奉仕する人々は弱い人々の中にイエスを見て、そのイエスを愛することでイエスが彼らのうちに現れ、強められるのである。これがCタイプの人たちの強さである。
 二つの戒めがイエスの受肉により一体となったと考えることで私のマタイ25:40の理解はずっと進んだが、他の人にとってそれが分かりやすいかどうかは、よく分からない。いずれにしても、マタイ25:40とヨハネ14:21のような極めて重要な教えを、聖書になじみにない人にも、もっと分かりやすく教える方法を私たちは考えていくべきであろう。

4.敵をも愛せる

 今回の考察で私自身が得た最大の収穫は、マタイ5:44でイエスが言う、
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
が自分なりに理解でき、実行できるという大いなる希望が持てたということである。
 例えば、北朝鮮の金正日のような人物であっても、心の武装を取り去れば、アダムのような、ただの弱い人間に過ぎないということが、今回の考察を通して分かった。「敵を愛す」とは素のままの弱い人間の部分を愛するということ、「迫害する者のために祈る」とは心の武装を取り去るよう祈ることであるとすれば、私にもできる。
 私の召命のみことばは、イザヤ52:7の

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。
 平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
 『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は。」

である。3年前の8月15日と2年前の8月6日、私は広島の平和公園の中で「私を平和のために用いてください」という長い祈りを捧げた。どのように用いて欲しいかは分からぬままの長い祈りであったが、伝道者として召されたのは、その祈りのゆえであると確信している。しかし、召されてからも、自分が平和のためにどのように働いたら良いのか、依然として分からないままであった。
 今回、二冊の課題図書を読み、思いを巡らす中で、計らずも「敵を愛する」ことがどのようなことかが少しだけ分かり、平和のために働くことへの一筋の光明が見えた気がする。そのことを主に感謝し、主がなお一層さやかに私の進むべき道を示してくださることを願い、祈っていきたい。

風船カズラ第2ロケット点火!2009年06月12日 08時31分


 風船カズラの成長が突然、加速し始めました。猫よけ用の枯れ枝にツルが巻きつき始めた途端、上へ上へと伸び始め、1日に10cm近くも伸びています(驚)
 チル友さんたちに遅れること1年、風船カズラの成長を見るのが、また一段と楽しくなってきました ^^

『伝道者の書』からのメッセージ2009年06月14日 06時45分

 先月、深川教会の壮年会の例会で旧約聖書の『伝道者の書』3,4章について20分ぐらいの話をしました。今日行われる、今月の例会でも5,6章についても引き続き、話をすることになりました。先週、急に頼まれました ^^; 
 『伝道者の書』は読み込めば、読み込むほど味わいがあると感じています。未熟ですが、原稿をまとめたので、こちらにもアップします。

 『伝道者の書』5, 6章
                            
 きょうは先月の3,4章に引き続き、今月の5,6章もまた、私のほうでお話をさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。
 前回は、3章、4章を見ながら、旧約の時代の『伝道者の書』の記者が感じている人生の空しさを通じて、新約の時代を生きる私たちに与えられたイエス様の恵みの大きさを、より鮮明に感じ取ることができるのだということをお話ししました。

 さて、その、前回のこの会では私のすぐ右隣にO兄が座っておられました。そのわずか1週間後に天に召され、ほんの短いお交わりでしたが、とても寂しく思います。でも寂しくても、悲しいことではないというのが、私たち、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者に与えられた素晴らしい恵みです。このことを覚えて、改めてその恵みに感謝したく思います。
 私たちのこの世の人生が、残りあと何年かは神のみぞ知るですが、私たちは神の国に入ることが約束されています。これが新約の時代を生きる私たちに与えられた大きな恵みです。しかし、旧約の時代に生きた『伝道者の書』の記者は、自分の人生が残りわずかになってきた時に、自らの人生を振り返り、大きな空しさを感じています。これは一体、どういう心理でしょうか。きょうの5,6章の準備にあたり、1章から4章までを改めて読み返してみて、新たに思ったことがありますので、きょうは、まず始めにそのことからお話しさせていただきます。
 過去を振り返って「すべてが空しい」と言っている『伝道者の書』の記者も、過去に実際に事に当たっていた時には、喜びをもって何でもしていました。2章10節に「実に私の心はどんな労苦をも喜んだ」とあります。しかし、自分の人生が残り少なくなってきた時、それらがとてもつまらないものに思えてしまいました。直後の11節で「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」と言っています。
 昨年の10月に淀橋教会で行われた聖化大会に講師として招かれたビクター・ハミルトン先生がこんなことをおっしゃっていました。ユダヤ人が時間の中を進んで行く感覚は、ボートを漕ぐように、後ろ向きに進んで行く感覚なのだそうです。出エジプトの出来事を大切にしており、そのことを絶えず忘れないように進んでいるからのようです。私たちには未来のことは一切分かりませんし、過去のことは良く見えているわけですから、その感覚は私たちにも理解できます。
 私は、今回のメッセージの準備をしていて、この『伝道者の書』の記者も後ろ向きになって過去を見ながら、この書を記したのではないかと思いました。そうすると、一番手前に栄華を極めた自分の王様としての暮らしがあり、ずっと遠方に、自分の先祖の墓が小さく見えます。この記者の先祖たちの最期は聖書にどのように記されているでしょうか。

 アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた(創世記25章8節)
 ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
(創世記49章33節)
 こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。(列王記第一2章10節)
 ソロモンは彼の先祖たちとともに眠り、彼の父ダビデの町に葬られた。(列王記第一11章43節)

 今までエルサレムにいた誰よりも知恵があり、強大な王国を築いた『伝道者の書』の記者も、死ねば先祖たちと同じ狭くて暗い墓に入って眠ります。すぐ目の前に、つい最近までの王様としての派手な暮らしがあるのに、背中のすぐ後ろには狭くて暗い墓が迫っています。背中の墓は見えませんが、先祖の墓は遠方に見ることができます。記者は、自分がたどって来た道と、自分がこれから一緒に入る先祖たちの墓とを同じ視野に入れて、じっと見つめていたのではないかと私には思えます。この時、記者は自分の知恵を頼りにして生きてきたことの空しさを感じていたのではないでしょうか。
 きょうは5章と6章を、そのような視点から見てみることを、お許しください。

 まず、5章1節から7節。神の宮で礼拝を捧げる時の注意事項ですが、神に向かって多くのことを祈ることは、決して悪いことではないと思います。念仏のように同じ言葉を繰り返してはいけませんが(マタイ6::7)、様々なことを祈るのは良いはずです。しかし、記者は3節で「ことばが多いと愚かな者の声となる」と言っています。これは、かつて王であった記者が、自らの知恵の多さに高ぶり、神の前で多くの言葉を弄したことを恥じているのではないかと私には思えます。
 8節、「ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見て驚いて」いたのは、記者だったのかもしれません。しかし、そのような不正をして私腹を肥やす者も、上の者が見ており、彼らにもやがては死が訪れます。彼らもどうせ死ぬのだから、驚かなくてもいいではないか、ということかもしれません。
 10節から14節。富や財産に関することは、死が近づいている記者にとって、特にむなしく思えたようです。16節では「痛ましいことだ」と言っています。15節にあるように、死ぬ時には、「何一つ手に携えていくことができない」からです。
 17節。記者は王であった時、自分の国の民たちの「多くの苦痛、病気、そして怒り」を見てきたのでしょう。
 そんな記者の結論が、18節です。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。」これまで、私は記者が出したこの結論を、知恵がある者の結論としては、あまりに軽い気がして、この言葉の背後にあることなどを考えてみようという気には全くなりませんでしたが、きょう最初に述べたような、記者が後ろ向きになって自分の人生を振り返っている図を思い浮かべる時、この18節で記者が言いたいことが少し理解できるような気がします。思うに、『伝道者の書』の記者の歩んで来た道は、記者の知恵を駆使してきたものであったため、あまりにゴテゴテと余計な装飾がある、とても見苦しい感じのする通りになってしまっていたのではないかと思います。それに対して18節のような単純な生き方をしてきた人の通ってきた道は、とてもスッキリとしている、そのような気がしますが、いかがでしょうか。19節、20節は18節をさらに説明したものです。

 6章に入ります。1節、2節は新共同訳のほうが分かりやすいと思いました。新共同訳では、「悪」を「不幸」と訳し、「外国人」を「他人」と訳して、次のように訳しています。

「太陽のもとに、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのを私は見た。ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし、神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。」

 新約時代の私たちは、神様がすぐ近くに共にいてくださる、そのことだけで幸福を感じることができますが、旧約の時代は、神様が共にいてくださると言っても、近くではなく、天におられるわけですから、神様が共におられるということだけでは十分な幸福感を得ることができず、どうしても、それ以外の、世的な楽しみを追求するという傾向が見て取れます。イエス様の恵みを知っている私たちから見ると、そのように世的な喜びに満たされなければ幸福感を感じられない、ということ自体が不幸なことだと思います。旧約の時代の人々は本当に困難の中にあったことを感じます。
 そういうわけですから、3節の百人の子どもを持つような子宝に恵まれ、長生きするということは、神様に大変に祝福されているわけですが、その人の死を嘆いてくれる人間が側にいないなら、大変な不幸だということになってしまいます。「死産の子のほうが彼よりはましだ」というのは強烈ですね。4節から6節はその死産の子についてのさらなる説明です。神様が本当に遠い存在であることを思います。
 ここで、新約の恵みに目を転じたく思います。ピリピ人への手紙2章6節を開いていただけますか。8節までをお読みします。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
 『伝道者の書』を読んでから、このピリピの箇所を読むと、イエス様の愛の尊さが本当に良く分かりますね。イエス様は、『死産の子のほうがましだ』と言って苦しんでいる人々の中に降りて来てくださり、慰めを与えてくださり、私たちを神の国へと導いて行ってくださいます。ですから、私たちは前を向いて歩いて行くことができます。この先、何があるか分かりませんが、何があってもイエス様が共にいてくださるという安心感があります。
 旧約の時代も、神様は人々を大きな愛で見ていてくださいました。しかし、神様があまりに大きな存在であるがゆえに、多くの人々にとっては、かえって遠くに感じる存在になってしまっていました。でも私たちは、共にいてくださるイエス様を通じて神様の愛の大きさを知ることができます。神の国に入ることができれば、もっと良く知ることができるでしょう。私たちには、こういう楽しみがあります。神様の愛の大きさは人知をはるかに越えた大きさです。その大きさゆえに遠くに感じてしまった旧約の時代の人々のことを思うとき、イエス様が近くにいてくださることの恵みの大きさを、より一層実感します。最後に、エペソ人への手紙5章17節から19節までを、ご一緒にお読みして、今日のメッセージを閉じたく思います。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」

朝の食卓のショート・ディボーション2009年06月18日 08時16分

 神学院では毎週木曜日の朝食後に、ショート・ディボーションの時間があります。食堂で、院長以下ほとんどの教職員、神学生が集っている中で、神学生が5分以内の短い話をします。1年生の間は当務はなく、2年生になってからも、4年生から順番に回っていきますので、先々週から、ようやく我々2年生の番になりました。
 けさは、いよいよ私の番です。最近、思っていることを、ちょうど5分ぐらいにまとめてみました。こちらにもアップしますので、よろしくお願いいたします。

聖書箇所: 創世記1章1, 2節

 初めに、神が天と地を創造した。
 地は茫漠として何もなかった。
 やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

 私は最近、創世記のこの冒頭に記されている、「水」のことが非常に気になっています。神様が「光があれ」とおっしゃる前から神様と共に存在していた水とは、いったい何物なのでしょうか。創世記のこの箇所の注解書を読んでも、水についてはほとんど触れられていないので、私の好奇心はつのるばかりです。
 聖書には、水を神様に例える表現が数多くあります。例えば、「渇く」という言葉を使って、水分が人間に必要不可欠なのと同様に、神様がいなくては人間は生きていけないということを表現しています。
 また、水により私たちの体の汚れが清められるように、聖霊により私たちの罪が潔められる例えも多く使われています。
 以上の水の二つの働き、すなわち水分補給と、汚れを洗い流すという二つの働きが、水を神様に例える代表的な例だと思いますが、創世記1章2節の「神の霊が水の上を動いていた」から感じられる、神様と水との近い関係を思う時、私は水をもっともっと神様に例えても良いのではないかと思います。
 私が最近特に感じているのは、神様の御言葉と「お風呂」とが、非常に良く似ているということです。先に述べた、体がきれいになる、ということに加えて、お風呂では体が温まるということ、そして体が軽くなる、ということも、良く似ています。御言葉も心を温かくし、そして心を軽くしてくれるからです。
 そのように、御言葉によって心が軽くなり、温かくなり、そして、きれいになるところ、それが教会です。ですから私は教会を、「御言葉のお風呂屋さん」と呼びたく思います。そして、今の私の理想の牧師像は、「風呂屋の親父」です。お風呂屋の親父さんが、きれいなお湯を浴槽にたっぷりと満たして、お客さんに気持ち良くお湯に浸かってもらうように、牧師も神様の聖なる御言葉を教会の来会者にたっぷりと提供して、主の平安にどっぷりと浸かってもらいます。そして日常の疲れを取り去り、汚れを落としてもらいます。
 私は神学院に来る前には、週末にはたいてい映画館に行って、大きなスクリーンで映画を楽しむ、という生活をしていましたから、空想の世界を映像化して頭の中に思い描く、ということが比較的容易にできますが、皆さんはいかがでしょうか。
 試しに、ちょっと不謹慎かもしれませんが、どこかの教会の会堂の中がお風呂になっていることを想像してみてください。そのお風呂に入ったら、すごく気持ちが良いと思いませんか?神様の御言葉を聞きながら、お風呂に入っているような気持ちになれるなんて、素晴らしいことだと思いませんか?
 日本はクリスチャンの人口比率の低さでは、世界有数だと思いますが、お風呂の文化を大切にする国としては、日本は世界でもトップレベルだと思います。日本人がお風呂を楽しむように教会生活を楽しむようになったらいいなあ、と私は思います。
 それには、私自身が神様の御言葉をたっぷりと注ぎ出すことができる者にならなければなりません。その御用のためには私の力はまだまだ全く足りていないことを痛感します。お風呂屋の親父さんという、私の理想とする牧師像に近づけるよう、神様にお祈りしながら、努力していかなければならないと思っています。

 創世記1章2節の「神の霊が水の上を動いていた」の「水」から、私の思いは、いまお話ししたように巡ってきました。
 皆さんは、この「水」について、どのようにお思いになるでしょうか。

『ブラザー・サン シスター・ムーン』2009年06月20日 11時33分

 シネマなびの佐々部監督の今月のおすすめDVDの『ブラザー・サン シスター・ムーン』をさっそく観てみました。
 鑑賞後に、まず思ったことは、
「主は、生きておられる」
ということです。そんなことは我々にとっては当たり前のことですから、「今さら何を言ってるの?」ではありますが、でもやっぱり、その感を強くしました。
 イエス・キリストは十字架上で死んで復活してから、弟子たちの前に現れ、その後も多くの人々に現れ続け、1200年後にはフランチェスコにしっかりと現れ、そして現代の我々の心をも動かし続けています。
 美しい自然を背景に、イエス・キリストにならって清貧な生き方を追求するフランチェスコら若者たちの清々しさ、情感豊かな音楽、そして要所要所で引用されている聖書の美しいことばの響き、これらに心が洗われる思いがしました。
 また、佐々部監督の映画との共通点を多く見いだすことができたことも、うれしかったです。清々しい新人俳優の活躍(チル夏、四日間、三農馬術部)、弱者への温かい眼差し(四日間、カーテンコール、夕凪・桜)、美しい自然・光(四日間、三農馬術部)、戦争の悲惨さ・愚かさ(出口のない海、夕凪・桜)、青年の巣立ち(結婚しようよ、三農馬術部)、硬直した管理層(陽はまた昇る、半落ち)、そして、純粋な情熱は人の硬直した心を溶かすことができるということ(陽はまた昇る、チル夏、カーテンコール、四日間、三農馬術部)、などなどです。
 私には特に、権威の上にあぐらをかいている人たちへの独特の距離感と、弱者への眼差しという点で、佐々部監督ご自身とも重なる部分が多いような気がしました。

 主は、生きておられます。
 このようにして主は現代においても、多くの人々に現れてくださっています。それなのに、多くの教会では人々の心を十分にとらえることができないでいます。そんな現代の日本の教会の働きを、主はどのようにご覧になっているのでしょうか、伝道する側はどこかで間違っているのではないか、そんなことを、いま感じています。

シネマなび 佐々部監督の今月のおすすめDVD
http://www.navitown.com/weekly/cinema/dvd/index.html

召命の証し(新作)2009年06月21日 06時26分

 きょうは船橋市にある高根教会で召命のお証しをします。

 「召命」とは、私の手元の電子辞書(大辞泉)によれば、「キリスト教で、神の恵みによって神に呼び出されること。伝道者としての使命を与えられること」だそうです ^^
 召命のお証しは昨年の春、母教会の高津教会でもしましたが、その時は昨年の1月から3月にあった出来事を中心に話しました。今回はその生々しい部分は大幅に少なくし、もっと以前の「一粒のタイル」のことから話すよう、新たに原稿を作り直しました。少し言葉が足りませんが、12分という時間制限がありますので、これで一杯一杯です。
 読んでみていただけると、ありがたく思います。

 召命の証し(高根教会)

 こんにちは。
 いつもお祈りをありがとうございます。きょうは召命のお証しをさせていただきます。まず、みことばを一カ節お読みします。旧約聖書のイザヤ書52章7節です。

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。
 平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
 『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は。」

 話は24年前の1985年にさかのぼります。当時、私は大学院生で、金属の物理の実験をしに、茨城県に毎月のように行っていました。当時はちょうど筑波で科学万博を開催していましたので、出張した際に科学万博を見に行きました。その会場に、国連平和館というパビリオンがあり、そこでは、ある絵を約8万ピースのタイル画にして、そのタイルに一人一人の名前を刻んで平和への願いにしようという催しをしていました。これが、その絵です。平山郁夫氏の「平和のキャラバン」という絵で、それぞれのタイルに購入者の名前を刻み、ロボットアームを使ってはめ込んでいました。この絵は科学万博終了後は、広島の原爆資料館に展示されると説明されましたが、まもなく私はそのことを忘れました。
 それから、10年後、1995年のことです。その10年間にはいろいろな事があって、私はいったんは金属の物理の関係で大学の工学部に就職していましたが、退職して今度は外国人留学生のお世話をする大学の留学生センターという所に就職していました。その留学生教育の研究会が広島であったので出張し、帰りに原爆資料館に立ち寄りました。そこで10年ぶりで、この絵に対面しました。そして、自分のタイルを見つけた時は感激でした。
 そして、10年後の2005年に私はまた原爆資料館を訪れ、この絵と対面しました。2001年にイエス様を信じて洗礼を受けてから初めて原爆資料館を訪れたことになります。原爆資料館を出てから私は平和公園の中のベンチに座り、持っていた新約聖書を開きました。悪魔の兵器である原爆の、その悪のあまりの大きさに呆然とし、聖書を開かずにはいられませんでした。そこで目に留まったのが、マタイ5章9節の、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれるから」です。この時、このみことばが私の心にしっかりと刻み付けられました。そして、原爆資料館に私の名を刻んだタイルがいつもそこにあるということが、何だか私の分身がいつも原爆資料館にあるような気がして、そのことを大切にしていこうと思いました。
 それから数日たって、私が応援している映画の佐々部清監督が、広島の原爆の被爆者とその家族を描いたマンガの『夕凪の街 桜の国』を映画化するという話を聞きました。佐々部監督は『チルソクの夏』という日本と韓国の高校生の清々しい交流を描いた映画を撮った監督さんで、私は大学の留学生センターでは日韓留学プログラムの韓国人留学生のお世話をする仕事をするようになっていたのが縁で『チルソクの夏』を知り、職場の大学でこの映画の上映会と佐々部監督の講演会を開いたことがあったのです。私が広島の原爆資料館に行って帰ってきた直後に佐々部監督が広島が舞台の映画を撮るというニュースに、私はとても偶然とは思えず、しっかりと応援しようと思いました。
 そして、翌2006年の夏にこの『夕凪の街 桜の国』の撮影が始まりました。広島でのロケではエキストラが募集されましたので、私も応募し、通行人の役をいただきました。その時に、これまで味わったことのない、頭の混乱、というものを味わいました。私がエキストラとして参加したシーンは原爆ドームのすぐ近くの橋の上で、スタートの合図と共に田中麗奈さんと中越典子さんの二人と反対方向に歩くというシーンでした。反対方向ですので、映画には小さくしか写っていないのですが、スタートの合図があるまでの待機時間中は、田中麗奈さんと中越典子さんのすぐ近くにいられるという、幸せな時を過ごすことができました。本来なら、大喜びしたいところですが、すぐ目の前には原爆ドームがあります。多くの人々が苦しみながら死んでいった場所です。そんな場所で、大喜びするわけにはいきませんから、私の頭は非常に混乱しました。その日は2006年の8月14日でした。
 翌15日の終戦の日、私は再び同じ場所を訪れ、神様に聞きました。「きのうのあの出来事は何だったのですか?」と。でも、答えはありませんでした。その日、私は答えを求めてほぼまる1日を平和公園の中で過ごしました。平和公園の中には平和の鐘があり、訪れた人が時おり、その鐘を鳴らしていきます。その鐘の音を聞きながら、私はいつしか祈り始めていました。「神様、私を平和のために用いてください」と祈りました。それは長い祈りでした。
 すると、この頃から、私の仕事に変化が現れ始めました。実は私は2000年から、以前の金属の物理の研究も再び行うようになっており、留学生教育の仕事と二足のワラジを履くようになっていました。しかし、金属の研究は難しいテーマに取り組んでいたため、目立った成果は挙げられずにいました。それが、2006年の広島でのお祈り以降、急速に進展し始めました。しかし、そのことが、私を次第に傲慢にしていきました。そして、留学生教育の仕事を、次第に軽視するようになっていってしまいました。
 そんな私を神様は粉々に粉砕しました。2008年の1月、私の思い上がりは頂点に達していました。金属の研究でさらに大きな発見をしたのです。しかし、それは従来の理論を根本から見直さなければならないような発見なので、学会ですぐに認めてもらえるとは思えず、厳しい戦いが予想されました。そこで私は金属の研究にもっと多くの時間をつぎ込む必要を感じ、留学生教育の仕事はますます軽視するようになり、そのことが留学生センターの先生方との関係を悪化させていきました。そうして、私は二足のワラジをはき続けることが困難になり、どちらか一方に絞らざるを得ない状況に陥りました。では、どちらに絞るか。当時の私の頭の中はほとんど金属で占められていましたから、留学生センターの仕事に絞ることは無理でした。しかし、金属での大きな発見はまだ学会でも認められていないので、金属関係で新たなポストを得ることも、当面の間は無理でした。つまり私は、どちらの道も閉ざされてしまったのです。何とかしなければと、私は大学の副学長にも面談を求めて話を聞いてもらったりしましたが、もがけばもがくほど、道が閉ざされていきました。金属の発見で思い上がっていた私を主は粉々に打ち砕き、さらに、すり鉢で粉末にするように、ゴリゴリと私をすりつぶしていきました。
 その時、私の中に、主の僕(しもべ)として働きたい、すなわち献身したいという気持ちが芽生えました。献身以外で残る道は、金属の発見を早く学会で認めてもらい、金属の研究者として新たな就職口を得ることでしたが、金属という狭い分野の中で新しい発見をなかなか信じようとしない人たちに信じてもらえるよう努力するよりは、もっと広い世界でイエス様を信じようとしない人たちに信じてもらえるよう、イエス様のしもべとして働くことのほうが、遥かにやりがいがあるように思えたのです。それから、しばらくして聖書のページをめくっていた時に与えられた御言葉が、冒頭でお読みしたイザヤ書52章7節です。その中の「平和を告げ知らせ」の「平和」という二文字が重く響きました。大学で働く道を閉ざされたのは、二年前に広島で「私を平和のために用いてください」と祈ったことが、主に聞かれたからなのだと思いました。自分で祈ったことですから、それから私は一切迷わず、聖宣神学院に入学できるよう、主任牧師の藤本満先生にお願いしました。
 広島の原爆資料館には今も私の分身のようなタイルがそこにあります。そのことを私は忘れずに大切にしていきたく思っています。そしてこの一年、聖宣神学院で学んできて、平和のために自分に何をしたら良いかということも、少しずつ見え始めてきていますから、主に感謝しています。
 今後とも、神学生のため、神学院の働きのためにお祈りをよろしくお願いいたします。

おとなり・劔岳・オリオン2009年06月22日 18時43分

 少しだけ時間に余裕ができたので、チル友さんたちで話題になっていた映画をこの順で集中的に見てきました。どれも良かったです。どれも、見終わった後で、心に温かいものが残りました。このことは、本当に大切なことだと思います。

 『おと・な・り』、いい感じですね。カメラマン、フラワーデザイナー、それぞれの道で一流を目指している真摯さに、すごく好感が持てました。

 『劔岳 点の記』、圧倒されました。素晴らしい!
 Yahooのレビューで低い点を付けている人たちのコメントを読むと、映像は良いが話が単調でつまらないらしい。
 全然!そんなことはありません。「何のために地図を作るのか。」主人公の、この自らへの問い掛けが、実に深いじゃないですか。低い点を付けている人は、この問い掛けの重さ・深さが全然、わからないのですね。きっとまだ、自らに問い掛けるに値するような仕事をしたことがないのでしょう。

 『真夏のオリオン』はそれほど期待していたわけではありませんが、チル友さんたちが見るようなので、私も見ておかねば、という気になって見てきました。見て良かったです。戦争について、また考える良い機会となりました。戦争を美化している感がややありますが、見た後に温かいものが残ったのが心地よかったです。

 三本とも、特に『劔岳 点の記』において抜きん出ていますが、プロの仕事というものの凄さを感じます。映画の製作者と俳優もプロですし、映画の中の登場人物たちも、みなプロです。そのことを思う時、自分の甘さを感じます。もっと自分を磨かなければ、という大きな刺激をもらうことができた三本でした。

『劔岳 点の記』2009年06月22日 23時23分

 前回の日記では、この映画を3本の中の1本という扱いにしてしまいましたが、やはり、この映画は単独で取り上げなければ製作に関わった方々に失礼ではないかと思い、改めて感想をここに思いつくままに書きます。
 
 自然の大きさと人間の小ささ。
 自然の大きさに対して、人間は本当に小さいということを感じさせられた映画でした。
 でも、そのちっぽけな人間にもスケールの大きな人と、ゴミみたいな人がいるところが面白いですね。
 ゴミみたいな人のことは置いておいて、スケールの大きな人とは、どんな人なんでしょうか。
 この映画を見ると、よく分かります。
 謙虚な人です。
 謙虚な人は大きいですね。
 なぜでしょう。
 謙虚な人は自分を大きく見せようとはしないからでしょう。
 自分を大きく見せようとする人は、はたから見ると、かえって小さく見えます。この逆説が面白いですね。
 自然が大きいのも、自らを飾ることなく、ありのままで、そこに存在しているからなのでしょう。

 自然の大きさと、謙虚な人間の大きさを、映画館の大きなスクリーンで堪能してください。
 この映画は絶対に映画館で見るべき映画だと思います。

『劔岳 点の記』22009年06月23日 11時44分

 いま男子寮での朝・晩の祈祷会の説教の担当は週1回ぐらいのペースで回ってきます。次の私の担当日は26日の金曜日です。
 次の説教では、ぜび『劔岳 点の記』の感動を男子神学生に伝えたく思っています。
 この映画の感動と聖書の御言葉とが融合している箇所はないだろうかと思いを巡らし、旧約聖書の次の箇所が示されました。


 しかし、わたしに身を寄せる者は地を受け継ぎ、
 わたしの聖なる山を所有することができる。

 主は仰せられる。
 「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。
  わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」

 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
 その名を聖ととなえられる方が、
 こう仰せられる。
 「わたしは、高く聖なる所に住み、
  心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
  へりくだった人の霊を生かし、
  砕かれた人の心を生かすためである。」
  (イザヤ書57章13~15節)