『日(陽)はまた昇る』考2009年05月05日 12時12分

 次の日曜日の午後、深川教会の壮年会の勉強会で、旧約聖書の『伝道者の書』の3章、4章について20分程度の話をすることになっており、いま『伝道者の書』について、あれこれ思いを巡らしているところです。
 さて、ある注解書に、ヘミングウェイの『日はまた昇る』の冒頭にこの『伝道者の書』の第一章の一部が引用されているとありましたので、さっそく文庫本を手に入れて見てみたところ、

「あなたがたは、みんな失われた世代ね」
 ― ガートルード・スタインの座談より

とある後に、

「日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。」

の第5節を含む『伝道者の書』1章の4節から7節までが引用されていました。「空(くう)の空」で始まる『伝道者の書』は読み方によっては人生の空しさだけが連綿と綴られている書であり、『日はまた昇る』は「失われた世代」の退廃的な生活が綴られています。
 一方、和製の『陽はまた昇る』、これはいくつもの楽曲やテレビドラマ、また映画のタイトルにもなっていますが、これには再び立ち上がる力強いイメージがあります。

 『日は…』の気だるさと『陽は…』の力強さ…、この違いは、いったい何なのでしょうか?

 思いを巡らす中で、これは神を意識するかしないかの違いではないかと気付きました。『日は…』は神を意識しているものの、あまりに遠い存在であるために虚無的になってしまっている、一方、『陽は…』は、始めから神様など一切あてにしていないために自らを奮い立たせて力強くあらねばならない、というような構図になっているのではないでしょうか。
 『日は…』は神を意識しており、『陽は…』は神を意識していない、それゆえ、一見すると両者の違いは非常に大きいように見えます。しかし、両者には神を身近に感じていないという共通点があります。
 いま私は『伝道者の書』の勉強を通じて、改めて旧約の神の限界と新約の神の恵みの大きさを感じているところです。御子イエス・キリストがこの世に来てくださったことにより、神は私たちにとって、ずっとずっと身近な存在になりました。『日は…』も『陽は…』も、どちらもその素晴らしい恵みに与っていません。ああ、もったいない・・・

神学院の野鳥たち2009年05月06日 10時11分

 けさ、神学院の駐車場わきの草むらでコジュケイのつがいが歩いているのを見ました。春になってから、チョットコイ、チョットコイとうるさく鳴いているのは耳にしていましたが、ここで姿を見たのは今朝が初めてでした。
 少し前にはアカゲラも肉眼でハッキリと見ました。キョッ、キョッという鳴き声を2,3か月前ぐらいから聞いていて、それらしき影も見ていたので、アカゲラがいるという確信は持っていましたが、すぐ近くで肉眼で見て確認できたので良かったです。
 あとカワラヒワみたいな鳴き声も聞きましたが、姿は見ていません。
 それと、ここではスズメを全然見かけません。数が減っているというニュースをネットで見ましたが、ここでそれを実感しています。

 以下、ここで見たり聞いたりした鳥たちです(思いつく順)。

 シジュウカラ、エナガ、コガラ(冬に見たように思う)、メジロ、コゲラ、アカゲラ、カワラヒワ、ジョウビタキ、モズ、コジュケイ、ツグミ、ムクドリ、ハシブトガラス、ハシボソガラス、キジバト、ドバト、ウグイス、ツバメ、オナガ、ハクセキレイ、ヒヨドリ。

 20種ぐらいかなと、漠然と思っていましたが、やっぱりそれぐらいでしたね。

「心の扉を開く」2009年05月16日 21時56分

救い・きよめの証し
(2009年5月17日・高根教会)

 いつも神学院の働きと神学生のためにお祈りをいただき、ありがとうございます。
 私は高津教会の出身です。8年前、2001年に洗礼を受けました。生まれと育ちは静岡県の静岡市で、札幌市、名古屋市、川崎市などに住んでいたことがあり、今は神学院がある横浜の市民です。
 きょうは救いときよめの証しに12分ほどお時間をいただいています。せっかく二つの証しを一緒にする機会をいただいていますので、新しい試みをしてみようと思います。実は私は「きよめ」という言葉を実感として、どうとらえたら良いか少なからず苦労してきました。そこで今日は「救い」と「きよめ」を表すのに「心の扉を開く」という表現で一くくりにするということをしてみたく思います。
 多くの人は、たとえイエス様を信じていなくても、ごく親しい人に対しては心の扉を開いていると思います。しかし、イエス様に対して心の扉を開く、つまりイエス様を信じて救われると、やがて親しい人だけではなく、それ以外の人にも心の扉を開くことができるようになる、それが、「きよめの信仰に立つ」ということだと私は思います。そして、本当にキリスト者として成長すると、(私はまだまだですが、)自分の敵を含めた全ての人に対して心の扉を開け放つことができるようになるのだと思います。
 ここで、有名な御言葉を一ヵ節お読みします。ヨハネの黙示録3章20節です。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 私はもうすぐ50歳になりますが、今から思うと、私が20歳ぐらいの時から、イエス様ははっきりと私の心の扉を叩き続けていてくださいました。友人に勧められて聖書を開く機会が、何回かあったのです。しかし、私はそのノックの音を20年以上も無視し続け、ようやく反応したのが8年前の2001年6月に父が死んだ時でした。
 父の死因は末期のすい臓ガンで、肝臓にも転移していました。父はその1年半前に心筋梗塞で入院し、退院後もずっと通院して治療を受けていました。その間、父のガンは着々と進行していたわけですが、医者はそのことに気付かず、ガンが発見されたのは死のわずか1週間前のことでした。母から電話であとわずかの命らしいということを聞いた時はとても信じられませでしたが、とにかく私は休暇を取って帰省し、病室に泊まりこんで、父の最期の5日間を病室で共に過ごしました。父は心筋梗塞の治療中でしたから、自分の体がなぜこんなに急速に衰弱していくのかを、知りたがっていました。しかし、私たちは父にはガンということは言わないことにしていましたから、私は父が「いったいどうなっているんだ?」と知りたがるのに適当に合わせて、「ホントにどうなってるんだろうね?」などと言っていました。これは本当に空しい会話でした。ウソをつくということは、普段でも良心の呵責を感じる罪な行為です。それを、家族がこの世の別れを前にしているという重大な局面でウソを付かなければならないとは、いかにそれが患者への思いやりとは言え、実に空しい思いやりです。家族が死ぬという重大な時に、こんなむなしい嘘しかつけないことに、私は自分がつくづく無力であることを感じました。この時に私が味わった無力感が、父の死後に私を教会に向かわせたことは間違いないと思います。でも、それだけではありませんでした。全く思いがけないことに、私は父の葬式の相談を家族とした時になって初めて、父が若い時に洗礼を受けたクリスチャンであることを知りました。でもいろいろな事情で、葬式はお寺で行いました。クリスチャンなのにお寺で葬式をあげて良かったのか?と私は疑問に思い、そして病室で父についた嘘のこともあって葬式後に韓国人の友人に勧められていた、韓国人の教会に行きました。父のために祈ろうと思ったのです。でも父のために、と思って行った教会で、私のほうが癒されました。これもまた思いがけないことでした。聖歌隊の美しい賛美歌の歌声を聞いて心が癒されたのです。
 そうしてその教会に何度か行くうちに、神様はまた、思いがけないことをなさいました。その教会の上のほうの人が私に、日本人の教会に行って日本語の説教を聞くようにと言ったのです。せっかく、そこの教会に通い始めていたのに、別の教会に行けとは何ごとだ!と私は腹を立てました。それで、日本人の教会には1度だけ行き、もしそこが気に入らなかったら、もう絶対に教会へは行かないぞと思って、近所にあった高津教会を訪れました。それが忘れもしない、2001年8月12日です。その日は藤本満先生の「ガラテヤ人への手紙」の講解の第1回目でした。
 藤本先生は、ルターが免罪符に抗議して、そしてパウロが律法主義を批判して当時の教会と激しく闘っていたことを熱く語っていました。そのことが、教会に批判的な気持ちで足を運んだ私の心と、どこかで波長が合ったのだと思います。学生の頃から何度も聖書を開く機会があったにも関わらず、少しも心が動かなかった、かたくなな私を変えることができたのは、教会の良さを語るメッセージではなく、ガラテヤの教会を批判するメッセージだったのです。これも予期せぬことでした。こうした予期せぬノックの連続でついに私は心の扉を開き、その年のクリスマス礼拝に洗礼を受けました。
 こうしてイエス様が、扉を開けた私の心の中に入ってきてくださり、次に教えてくださったことが、教会の兄弟姉妹たちと互いに祈り合うということでした。自分の願いを自分で祈るのではなく、自分の願いを兄弟姉妹に打ち明けて祈ってもらい、自分はできるだけ人のために祈る、そのことの大切さを教えていただきました。そうすることで自己中心的になりがちな自分の心が次第に人に向かって開かれていき、そのような祈りに神様は応えてくださるのだということを知りました。さらには信仰の篤い兄弟姉妹たちが自分のために祈っていてくれるということを意識する時、自分も心の醜さを取り除いていかなければならないと促されるのです。
 そして、最も大切なことは、こうした祈りの場には、イエス様がいつも共にいてくださるということです。このようにイエス様が共におられるという実感があるとき、心の平安を保ちつつ、安心して他人に対して心の扉を開くことができるようになる、これがきよめの信仰であろうと、いまの私は確信しています。
 このような確信が得られたのは、実は比較的最近の今年の3月のことです。3月8日の聖日の午後、神学院のこの春の卒業生が企画した伝道会が神学院教会で持たれました。この卒業生の中に、元劇団四季の須郷さんがいて、その須郷さんが脚本を書いた卒業生による劇の『靴屋のマルチン』に、私もマルチンの友人役で出演させてもらいました。この劇のための最初の練習の時、私はどうせ素人劇だからと安易な気分で練習に臨んだのですが、須郷さんは最初からいきなり本気モードで劇団四季のプロの演技を始め、その迫力ある演技に私は度肝を抜かれてしまいました。それでこれは本気で取り組まなければと思い、須郷さんと神様に全てをゆだねて練習して本番の演技に臨んだところ、劇が終わってから、実に多くの人が私の演技を褒めてくださいました。1週間後、2週間後も、あの劇の演技は良かったですね、と教会員の方が言ってくださいました。
 これは私にとって、本当に大きな出来事でした。私は型や枠にはめられるのが大嫌いで、自分らしくありたいと思うあまり、これまで人との間に知らず知らずのうちに壁を築いていたということに気付かされました。今回の劇では私は須郷さんと神様に全てをゆだねて演技をしました。そうすると、私が話しかけなくても、教会員の方のほうから私に「良かったですね」と話しかけてくださったのです。それは教会員のお一人お一人を通じてイエス様が私に直接、「それでいいんだよ。そうやって自分らしさへのこだわりを捨てることで、かえって本来の自分の良さが現れるんだよ」と教えてくださったのだと思います。こうして私の心の中に入ってきてくださったイエス様が、こんどは他の人々に対しても私の心の扉を開けるよう働きかけてくださっていることを感じます。
 きょうお読みした黙示録3章20節の

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 この最後の「彼もわたしとともに食事をする」の「わたし」とは、いろいろな人の姿を借りたイエス様なのではないかと、今の私には思えます。この春以来、私は祈っている時だけでなく、お一方お一方との温かい交わりの中にもイエス様の臨在を感じることができるようになりました。様々な人に対して私の心の扉を開く働きをし続けてくださっているイエス様に心から感謝しています。

『三本木農業高校、馬術部』と『ガラテヤ人への手紙』2009年05月19日 06時31分


 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制
(ガラテヤ人への手紙5章22, 23節)

 佐々部監督の映画『三本木農業高校、馬術部』のDVDがいよいよ5月26日に発売になります。
 馬術部員たちは寮生活をしながら勉学と部活動を両立させる中で、自制、柔和、誠実、善意、親切、寛容、平安、喜び、愛の心を養っていきます。私自身が今、寮生活をしながら聖書の学びと教会での奉仕をしていますから、そのことが良くわかります。
 「愛、…、柔和、自制」は新約聖書の『ガラテヤ人への手紙』に記されている言葉です。『三本木農業高校、馬術部』を初めて見た時、愛の潤いがたっぷりと含まれたみずみずしい素晴らしい作品だと思いました。でも、なぜそんなに感動するのか、いま一つ掴めず、不思議な気持ちでいました。でも、今、『ガラテヤ人への手紙』5章22, 23節の世界なのだということが分かりました。
 前回の日記で、私はこの『ガラテヤ人への手紙』によって、高津教会としっかりとつながる者とされたことを書きました。ですから、この『ガラテヤ人への手紙』は聖書の中でも格別に思い入れのある書です。
 日頃、聖書に親しんでいる方で、『三本木農業高校、馬術部』をまだ観ていない方は、ぜひご覧になってください。
 また、『三本木農業高校、馬術部』を観たことがあって、『ガラテヤ人への手紙』をご存じない方は、ぜひ新約聖書の『ガラテヤ人への手紙』5章22, 23節を開いてみてください。

ああ、行きたい!2009年05月21日 16時13分

マニィ大橋さんのブログに
 >「武士道シックステイーン」!
 >今が旬のティーン女優、鳴海璃子さん、北乃きいさんW主演の、青春剣道ムービーだそうです。

とありました。
 公式サイトを見たら剣道の試合のシーンのエキストラを募集していました。
 https://ss2.xrea.com/bushidoh16extra.com/entry/

 ああ、行きたい!
 でも、行けない ^^;

 忍耐、忍耐 ^^

 「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す…」
 (ローマ人への手紙5章4節)

チルソク菌が懐かしい2009年05月23日 09時10分


 新型インフルエンザ騒動に揺れる昨今、佐々部監督の映画『チルソクの夏』を観てチルソク菌感染者が続出し、猛威をふるっていた当時が、妙に懐かしいです ^^

『重力ピエロ』を観て、風呂に入って2009年05月26日 09時00分

 サーカスの空中ブランコで、恐くてなかなか相手のブランコめがけて踏み出せないピエロが、意を決して空中に出て行くシーンが印象的でした。
 このシーンを見て、ヘンリ・ナウエンが『最後の日記』の中で、空中ブランコに強い関心を示していたことを思い起こしました。空中に飛び出して相手に受け取ってもらう方の人は、決して捕まえてくれる人の腕を自分からつかみにいってはダメで、ブランコ上から自分をつかんでくれる相手に全てをゆだねなければいけないのだそうです。その関係にナウエンは神と人との間にあるべき関係を見い出していました。つまり、人は神に全てをゆだねた時に初めて、すべてがうまく行くのです。自分の力で何とかしようという思いが入ると、狂いが生じます。ナウエンは空中ブランコに対する洞察を本にするために資料を集め、編集者と意見交換までしていましたが、結局、本格的に取り掛かる前に亡くなってしまいました。『重力ピエロ』を観て、ナウエンが思い巡らしていたことが、ほんの少しだけ分かった気がしました。

 そして晩にお風呂に入り、また一つ分かったことがあります。

 私たちがお風呂に入って心地良く感じるのは、お湯の温かさもありますが、水の浮力により、重力から解放されるからなのですね。映画の中の「楽しそうに生きてれば、地球の重力なんて消してしまえる」は心に残るセリフでした。映画では家族の愛が重力を消すことを示していましたが、その愛は神に源を発します。ヨハネの手紙第一の4章12節の下記の聖句を心にとどめたく思います。

「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」

 映画の主人公の兄弟のその後を、神様が正しく導いて行ってくださることを信じたく思います。

感謝の祈り2009年05月27日 22時13分

恵み深い天の父なる神様:
 回復をお祈りしていたSさんの奥様の病状が快方に向かっているとの報告がありました。感謝いたします。神様の癒しの御手が、これまでずっと置かれ続けていたことを信じますから、御名を崇めて賛美します。引き続き、奥様の健康が以前のように自由に外出できるまでに回復しますよう、癒しの御手を置き続けてください。
 昨日は、大学病院から一般の総合病院に転院され、担当のお医者様も変わられたとのこと、転院先でも適切な治療がなされますよう、担当の先生を神様が助けて、正しく導いてください。
 Sさんとご家族の健康がここまで守られたことにも感謝いたします。引き続き、奥様が完全に回復されるまで、Sさんとご家族の健康も支え続けてくださいますように、よろしくお願いいたします。
 また、Sさんとご家族が病院に車で通う際の行き帰りにも、事故を起こしたり巻き込まれたりすることなどがないよう、神様が守っていてください。
 御名によって感謝して、お祈りいたします。

教会は「みことばの風呂屋」、牧師は風呂屋の親父だ2009年05月29日 08時30分

2009年5月29日早天メッセージ原稿

聖書箇所
 ルカの福音書10章38-42節(この日記の最後に記します)
 
 昨年、ザカリヤやシメオンなど、ルカの福音書に登場する人物を取り上げて、何回か説教をさせていただきました。その時にはマルタとマリヤについても、いずれしたいと思っていました。しかし、なかなか一つのまとまった説教になりそうな気がしなかったので、とりあげることができず、そのうちに、このルカの福音書の人物シリーズも自然消滅という感じになってしまいました。
 さてしかし、最近、私の中であるテーマが大きく膨らんで来ていて、そのことを話すのに、この聖書箇所がふさわしいように思いますので、取り上げることにしました。今日、特に注目したいのは、39節と42節です。

「彼女(マルタ)にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 きょうのテーマは、「神様の浮力による浮力感」ということです。
 マリヤはきっと、いい気持ちになってイエス様のみことばに聞き入っていたと思うのですね。いい気持ちに包まれると、体が軽くなってフワフワと浮いたような気持ちになります。そういう、いい気持ちの時は、顔もおだやか~な表情になります。聖書のこの箇所には、マリヤがいい気持ちで聞いていた、とは書いてありませんが、もし深刻な顔をしてイエス様のみことばに聞き入っていたのなら、よく気の付くマルタのことですから、マリヤをそっとしておいたのではないかと思います。マリヤが余りに気持ち良さそ~な顔をしていたので、忙しく働いていたマルタは嫉妬を感じて、イエス様に愚痴をこぼしたのではないかと思うのです。
 きょう、この「浮力感」というテーマでお話ししようと思ったのは、最近、『重力ピエロ』という映画を観て、思うところがあったからです。この映画は、私は内容をほとんど知らないままに題名に惹かれて観たのですが、まあそれは殺人、放火、暴力、レイプ、売春、復讐といった、「悪」の要素が満載の映画だったので、通常なら私は5点満点で1点しか付けない映画なのですが、一箇所だけ非常に恵まれたシーンがあったので、4点を付けてもいいかな、などと思っています。
 その恵まれたシーンとは、主人公の兄と弟の兄弟が子供の頃、両親と家族4人でサーカスの空中ブランコを見上げるシーンです。ピエロがブランコにつかまって空中に飛び出そうとしているのですが、恐ろしくて腰が引けて、なかなか飛び出すことができません。しかし、意を決して空中に飛び出し、ブランコからも手を離して空中を飛び、反対側のもう一つのブランコから来た相手に、しっかりとキャッチされます。
 このシーンを見て、私は、ヘンリ・ナウエンが『最後の日記』の中で、空中ブランコに強い関心を示していたことを思い起こしました。空中に飛び出して相手に受け取ってもらう方の人は、決して捕まえてくれる人の腕を自分からつかみにいってはダメで、ブランコ上から自分をつかんでくれる相手に全てをゆだねなければいけないのだそうです。その関係にナウエンは神と人との間にあるべき関係を見い出していました。つまり、人は神に全てをゆだねた時に初めて、すべてがうまく行くのです。自分の力で何とかしようという思いが入ると、狂いが生じます。ナウエンは空中ブランコに対する洞察を本にするために資料を集め、編集者と意見交換までしていましたが、結局、本格的に取り掛かる前に亡くなってしまいました。『重力ピエロ』を観て、ナウエンが思い巡らしていたことが、ほんの少しだけ分かった気がしました。
 そして晩にお風呂に入り、また一つ分かったことがあります。
 私たちがお風呂に入って心地良く感じるのは、お湯の温かさもありますが、水の浮力により、重力から解放されるからなのですね。
映画『重力ピエロ』の中で、ブランコ上の相手に腕をつかんでもらって空中を行ったり来たりするピエロを見て、子供がお父さんに心配そうに、「あのピエロ、大丈夫かなあ?」と聞きます。すると、お父さんはこう答えます。「大丈夫だよ。あんなに、楽しそうなんだもん。」そして、つけ加えます。「楽しそうに生きてれば、地球の重力なんて消してしまえるのさ。」これは、心に残るセリフでした。私たちは、幸福感に包まれると、本当に体が軽くなったような気がします。これは、可逆的な双方向の関係のように見えます。双方向の関係とは、体が軽くなると幸せになるし、幸せになると体が軽くなる、ということです。お風呂に入ると気持ちがいいのは、体が軽くなるからなのですね。しかも、温かいお湯がまた、体の緊張をほぐしてくれます。
 さて、先週の教理Ⅱの「キリスト論」の授業で、河村先生が、大変興味深い話をしておられました。人間がまだ創造されていなかった時、世界は神に満ちていた、神様は遍在するお方だから、そこらじゅう、神様だらけだった、と図解入りで説明してくださいました。その神様だらけの空間を神様は人間に譲ってくださったのだと、おっしゃっていました。これを、人間がお湯に入った時、人間の体積分のお湯が除かれることと等価であると考えてみようと思います。すると、水の場合に排除された水の体積分の浮力が生じるように、神様により、体に浮力が生じることになります。アルキメデスの原理と同じ、ということです。ある物体により排除された流体(液体とか気体)の体積分の重力に相当する浮力が得られることを「アルキメデスの原理」と言います。だいたい紀元前220年ぐらいのことだそうです。この原理をアルキメデスは風呂に入っている時に発見したそうで、アルキメデスは発見したことがうれしくて、裸で街中を走り回ったという伝説が残っています。そのアルキメデスの原理は、物体と流体との間だけでなく、私たちと神様の間にも働いているのではないでしょうか。私たちが神様の恵みに包まれて幸福感を感じ、体のフワフワ感を感じるのは、まさに神様の浮力が働いているからではないでしょうか。
 マリヤはイエス様のみことばに聞き入り、いい気持ちになっていました。私はこれを、「みことばのお風呂」と呼びたく思います。みことばのお風呂に入ると、体が温まるのと同時に神様の浮力により重力からも解放されて、体が軽くなります。一方、マルタは同じ場所にいながら、このお風呂には入っていませんでした。マルタの奉仕も貴いものであったと思いますが、イエス様は、良いほうを選んでいるのはマリヤだとおっしゃいました。イエス様は、マルタとマリヤのどこに注目しているのでしょうか。私は二人の霊的な状態だと思います。マリヤのほうが、霊的に良い状態にあるのだと思います。そして、霊的に良い状態とは、神様の浮力により、全身が浮力を感じている状態のことではないかと思います。
 いま私の中では、この「みことばのお風呂」こそが教会のあるべき姿ではないかという考えが急速に膨らんできています。何ヶ月か前は、「教会は映画の撮影現場だ!」論を展開していましたが、今は、この「みことばのお風呂」こそがふさわしいのではないかと考えを改めました。「みことばのお風呂」では、普通のお風呂で体がきれいになるように、心がきれいになります。しかも、堅苦しい、厳格な生活管理を通じて、心がきよめられるのでなく、お風呂のような気持ちよさによって、きよめられるのです。なんと、素晴らしいことではないでしょうか。教会は、「みことばのお風呂屋さん」であり、牧師は風呂屋の親父(またはおかみさん)です。あ~、自分は風呂屋の親父になるんだ~、と思うと、俄然やる気になりませんか?私は目標が明確になり、俄然やる気になっています。神学院では、院長先生が、卒業後にどのような伝道者になりたいのかという明確なイメージを持って神学院での生活を送ることが大事だと、よくおっしゃっています。自分がどのような伝道者になりたいのか、私はこれまで特にイメージすることができないでいましたが、今は、「風呂屋の親父だぜ~!気持ちいい~!」という感じです^^ アルキメデスがアルキメデスの原理を見いだした時は、爆発的な喜びがあったと思います。私の喜びは、もっとゆっくりした、お風呂に入った時に感じるような、ジワジワ~としたものです。そんな喜びを今、感じています。
 風呂屋に行く人々は、風呂屋の親父に会いたくて風呂屋に行くのではなく、お風呂に気持ちよく入って、身も心もきれいになりたくて行くのです。教会も、人々は牧師に会いたくて行くのではなく、神様に包まれるために行くというのが、健全な姿でしょう。牧師は、そのような環境を整えるための働き人です。私は、そんな牧師を目指したいと、いま思っています。
 さてしかし、教会を訪れる人に気持ちよくなってもらいたいと言うと、教会は耳に心地よいことばかり言っていてはダメで、イエス様を信じない人がどのような裁きを受けるかということについても、きちんと語らなければダメだという声が聞こえてきそうです。もしそのような声に答えるとすれば、私は、耳に心地よいだけでなく全身で気持ち良さを味わった人は、必ず裁きについても、きちんと理解できる段階に進んで行くであろうと答えたく思います。
 きょうは、「神様の浮力による無重力感」というテーマでお話ししました。まとめると、まず、神様が満ちているところに身を置くと、お風呂のお湯の中で浮力を感じるように、神様から浮力を受けて重力から解放され、全身が気持ち良さに包まれるということです。神様が満ちているとは、今の聖霊の時代にあっては、聖霊に満ちていると言っても良いと思います。そして、教会は「みことばのお風呂屋さん」であろうということ。お風呂はお風呂屋さんに行かなくても入れますが、お風呂屋さんのお風呂はやはり、一味もふた味も違います。教会はそんなところであろう、ということ。そして、牧師は、人々に「みことばのお風呂」に気持ちよく入ってもらうために働く、働き人ではないだろうか、ということです。
 神様の浮力は、第二列王記6章のエリシャの記事にあるように、水に沈んだ斧の頭を浮かび上がらせるほどの力を持っています。そのことを覚えて、神様の働き人としてご奉仕できたら、と思います。

【ルカの福音書10章38~42節】
 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」