「心の扉を開く」2009年05月16日 21時56分

救い・きよめの証し
(2009年5月17日・高根教会)

 いつも神学院の働きと神学生のためにお祈りをいただき、ありがとうございます。
 私は高津教会の出身です。8年前、2001年に洗礼を受けました。生まれと育ちは静岡県の静岡市で、札幌市、名古屋市、川崎市などに住んでいたことがあり、今は神学院がある横浜の市民です。
 きょうは救いときよめの証しに12分ほどお時間をいただいています。せっかく二つの証しを一緒にする機会をいただいていますので、新しい試みをしてみようと思います。実は私は「きよめ」という言葉を実感として、どうとらえたら良いか少なからず苦労してきました。そこで今日は「救い」と「きよめ」を表すのに「心の扉を開く」という表現で一くくりにするということをしてみたく思います。
 多くの人は、たとえイエス様を信じていなくても、ごく親しい人に対しては心の扉を開いていると思います。しかし、イエス様に対して心の扉を開く、つまりイエス様を信じて救われると、やがて親しい人だけではなく、それ以外の人にも心の扉を開くことができるようになる、それが、「きよめの信仰に立つ」ということだと私は思います。そして、本当にキリスト者として成長すると、(私はまだまだですが、)自分の敵を含めた全ての人に対して心の扉を開け放つことができるようになるのだと思います。
 ここで、有名な御言葉を一ヵ節お読みします。ヨハネの黙示録3章20節です。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 私はもうすぐ50歳になりますが、今から思うと、私が20歳ぐらいの時から、イエス様ははっきりと私の心の扉を叩き続けていてくださいました。友人に勧められて聖書を開く機会が、何回かあったのです。しかし、私はそのノックの音を20年以上も無視し続け、ようやく反応したのが8年前の2001年6月に父が死んだ時でした。
 父の死因は末期のすい臓ガンで、肝臓にも転移していました。父はその1年半前に心筋梗塞で入院し、退院後もずっと通院して治療を受けていました。その間、父のガンは着々と進行していたわけですが、医者はそのことに気付かず、ガンが発見されたのは死のわずか1週間前のことでした。母から電話であとわずかの命らしいということを聞いた時はとても信じられませでしたが、とにかく私は休暇を取って帰省し、病室に泊まりこんで、父の最期の5日間を病室で共に過ごしました。父は心筋梗塞の治療中でしたから、自分の体がなぜこんなに急速に衰弱していくのかを、知りたがっていました。しかし、私たちは父にはガンということは言わないことにしていましたから、私は父が「いったいどうなっているんだ?」と知りたがるのに適当に合わせて、「ホントにどうなってるんだろうね?」などと言っていました。これは本当に空しい会話でした。ウソをつくということは、普段でも良心の呵責を感じる罪な行為です。それを、家族がこの世の別れを前にしているという重大な局面でウソを付かなければならないとは、いかにそれが患者への思いやりとは言え、実に空しい思いやりです。家族が死ぬという重大な時に、こんなむなしい嘘しかつけないことに、私は自分がつくづく無力であることを感じました。この時に私が味わった無力感が、父の死後に私を教会に向かわせたことは間違いないと思います。でも、それだけではありませんでした。全く思いがけないことに、私は父の葬式の相談を家族とした時になって初めて、父が若い時に洗礼を受けたクリスチャンであることを知りました。でもいろいろな事情で、葬式はお寺で行いました。クリスチャンなのにお寺で葬式をあげて良かったのか?と私は疑問に思い、そして病室で父についた嘘のこともあって葬式後に韓国人の友人に勧められていた、韓国人の教会に行きました。父のために祈ろうと思ったのです。でも父のために、と思って行った教会で、私のほうが癒されました。これもまた思いがけないことでした。聖歌隊の美しい賛美歌の歌声を聞いて心が癒されたのです。
 そうしてその教会に何度か行くうちに、神様はまた、思いがけないことをなさいました。その教会の上のほうの人が私に、日本人の教会に行って日本語の説教を聞くようにと言ったのです。せっかく、そこの教会に通い始めていたのに、別の教会に行けとは何ごとだ!と私は腹を立てました。それで、日本人の教会には1度だけ行き、もしそこが気に入らなかったら、もう絶対に教会へは行かないぞと思って、近所にあった高津教会を訪れました。それが忘れもしない、2001年8月12日です。その日は藤本満先生の「ガラテヤ人への手紙」の講解の第1回目でした。
 藤本先生は、ルターが免罪符に抗議して、そしてパウロが律法主義を批判して当時の教会と激しく闘っていたことを熱く語っていました。そのことが、教会に批判的な気持ちで足を運んだ私の心と、どこかで波長が合ったのだと思います。学生の頃から何度も聖書を開く機会があったにも関わらず、少しも心が動かなかった、かたくなな私を変えることができたのは、教会の良さを語るメッセージではなく、ガラテヤの教会を批判するメッセージだったのです。これも予期せぬことでした。こうした予期せぬノックの連続でついに私は心の扉を開き、その年のクリスマス礼拝に洗礼を受けました。
 こうしてイエス様が、扉を開けた私の心の中に入ってきてくださり、次に教えてくださったことが、教会の兄弟姉妹たちと互いに祈り合うということでした。自分の願いを自分で祈るのではなく、自分の願いを兄弟姉妹に打ち明けて祈ってもらい、自分はできるだけ人のために祈る、そのことの大切さを教えていただきました。そうすることで自己中心的になりがちな自分の心が次第に人に向かって開かれていき、そのような祈りに神様は応えてくださるのだということを知りました。さらには信仰の篤い兄弟姉妹たちが自分のために祈っていてくれるということを意識する時、自分も心の醜さを取り除いていかなければならないと促されるのです。
 そして、最も大切なことは、こうした祈りの場には、イエス様がいつも共にいてくださるということです。このようにイエス様が共におられるという実感があるとき、心の平安を保ちつつ、安心して他人に対して心の扉を開くことができるようになる、これがきよめの信仰であろうと、いまの私は確信しています。
 このような確信が得られたのは、実は比較的最近の今年の3月のことです。3月8日の聖日の午後、神学院のこの春の卒業生が企画した伝道会が神学院教会で持たれました。この卒業生の中に、元劇団四季の須郷さんがいて、その須郷さんが脚本を書いた卒業生による劇の『靴屋のマルチン』に、私もマルチンの友人役で出演させてもらいました。この劇のための最初の練習の時、私はどうせ素人劇だからと安易な気分で練習に臨んだのですが、須郷さんは最初からいきなり本気モードで劇団四季のプロの演技を始め、その迫力ある演技に私は度肝を抜かれてしまいました。それでこれは本気で取り組まなければと思い、須郷さんと神様に全てをゆだねて練習して本番の演技に臨んだところ、劇が終わってから、実に多くの人が私の演技を褒めてくださいました。1週間後、2週間後も、あの劇の演技は良かったですね、と教会員の方が言ってくださいました。
 これは私にとって、本当に大きな出来事でした。私は型や枠にはめられるのが大嫌いで、自分らしくありたいと思うあまり、これまで人との間に知らず知らずのうちに壁を築いていたということに気付かされました。今回の劇では私は須郷さんと神様に全てをゆだねて演技をしました。そうすると、私が話しかけなくても、教会員の方のほうから私に「良かったですね」と話しかけてくださったのです。それは教会員のお一人お一人を通じてイエス様が私に直接、「それでいいんだよ。そうやって自分らしさへのこだわりを捨てることで、かえって本来の自分の良さが現れるんだよ」と教えてくださったのだと思います。こうして私の心の中に入ってきてくださったイエス様が、こんどは他の人々に対しても私の心の扉を開けるよう働きかけてくださっていることを感じます。
 きょうお読みした黙示録3章20節の

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 この最後の「彼もわたしとともに食事をする」の「わたし」とは、いろいろな人の姿を借りたイエス様なのではないかと、今の私には思えます。この春以来、私は祈っている時だけでなく、お一方お一方との温かい交わりの中にもイエス様の臨在を感じることができるようになりました。様々な人に対して私の心の扉を開く働きをし続けてくださっているイエス様に心から感謝しています。