熟睡から覚醒へ2010年08月04日 11時40分

 明日の晩の祈祷会ではニコデモの箇所(ヨハネ3章)を開きます。
 いまニコデモという人物について思いを巡らしています。

 ユダヤ人の宗教指導者であり、最高議会の議員でもあったニコデモは、社会的に非常に高い地位にあった第一級の知識人でした。

 しかし彼は霊的には熟睡状態にありました。
 イエスが言った、

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3節)

という言葉を全く理解できなかったのです。

 新しく生まれるとは、霊的に覚醒するということです。それ以前の熟睡した状態は霊的には死んでいるに等しいというわけです。

 そんなニコデモでしたが、このイエスとの対話により、たましいを揺すぶられたのでしょう、次第に霊的に目覚めて行きます。ニコデモは同じヨハネの福音書の7章と19章にも登場し、7章ではイエスを擁護し、19章では死んだイエスのために没薬を持って来ました。この19章でニコデモは霊的にほとんど目覚めたと言って良いでしょう。

 イエスは十字架の時を目前にして言いました。

「わたしが地上から上げられる(十字架に付けられる)なら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

 私たち全ての者は、イエスの十字架に引き寄せられます。そしてイエスを受け入れるか拒むかの選択を迫られるのです。その中間はありません。信じるか信じないかのどちらかです。ニコデモはイエスを受け入れたことを行動で示したのです。

 ヨハネの福音書のニコデモの箇所から私は、人が霊的な熟睡から覚醒に至るには、時間が掛かってもぜんぜん構わないということを読み取りたく思います。一般的な眠りから覚める時と全く同様に、一気に目覚める場合もありますが、徐々に目覚める時のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。
 
 私自身のことを振り返ってみても、私が霊的に覚醒するには、随分と時間が掛かりました。
 私が深い眠りから起こされるきっかけになったのは、このブログに何度も書いている、『自己愛とエゴイズム』という本を今から18年ぐらい前に名古屋で読んだ時だと思います。高津で教会に通うようになる10年ぐらい前のことです。
 この『自己愛とエゴイズム』で特に心に残ったのが、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』のツバメについて書かれた箇所です。このツバメは早く暖かいエジプトに帰りたくてたまりませんでした。しかし、銅像の王子に頼まれて、王子を飾っていた宝石や金を貧しい人々に運んだのでした。そうこうするうちに冬になり、ツバメは凍え死んでしまいました。
 このツバメの望みは暖かいエジプトで幸せに暮らすことでした。しかし、心のもっと奥深い部分では王子と貧しい人々のために奉仕することを望んでいたのでした。この心の奥深い声に従ったツバメは結局は幸せだったのではないか、と『自己愛とエゴイズム』の著者は読者に問い掛けました。
 この本を読んで、私は霊的な眠りから起こされ掛かったのだと思います。しかし、完全に起きることなく再びまどろみ始め、次にたましいが大きく揺さぶられたのが、父の死の時です(父の死以降については7月23日の日記をご覧ください)。

 牧師の仕事とは、目覚まし時計のようなものであり、さらに一度起きた人を再び眠らせないようにすることなのかもしれませんね ^^

  眠っている人よ。目をさませ。
  死者の中から起き上がれ。
  そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。
  (エペソ人への手紙5:14)

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