律法と科学法則の共通点2010年08月16日 11時28分

 前回の日記に書いた「非核時代のヨハネ福音書」は一歩間違えば異端ですので、神の御心からはずれることのないよう、修正すべき所は修正しつつ、慎重且つ大胆に書いていかねばならないと自戒しています。そのためには、私自身に一層の修練と敬虔さが求められると思い、身の引き締まる思いがしています。
 しかし、神様は良いテーマを与えて下さったと感謝しています。それは、標記の「律法と科学法則の共通点」に気付き、このことを深めていくことで、新たな伝道の道が開かれるかもしれない、という気がしているからです。
 律法を信奉しイエスを十字架に付けた律法学者たちとそれを支持する民衆は、現代の科学を信奉して神が万物を創造したことを信じない科学者たちとそれを支持する民衆と、非常に良く似ていると思うのです。例えば、「非核時代のヨハネ」で私が参考図書とした『宇宙は神が造ったのか?』を読むと、私にはダーウィンの進化論はほとんど破綻しているように思えますが、天下のNHKは未だに『ダーウィンが来た!』を放映しています。多くの人々は宇宙も生命も偶然により誕生したと考えていると思いますが、どちらも神が創造したものです。
 日本のキリスト教では「罪」と言うと道徳的な面が強調され、それはもちろん大切なことですが、これからは科学的な面からも、もっと「罪」について言及したほうが良いのではないかと思わされています。
 律法も科学法則も神が与えたものですから大切なものですが、それのみを信奉しすぎると却って神から離れてしまいます。サンダース著『パウロ』(土岐・太田訳、教文館)の「律法」の章に、「律法の要求の真の成就は、彼(パウロ)の考えによれば、キリストにある人々、すなわち、キリストの〈霊〉が内に宿っている人々においてのみ現実となる」(p.197)という記述があります。私はこれは科学の場合と良く似ていると思います。すなわち、「科学の法則の真の理解は、私の考えによれば、キリストにある人々、すなわち、キリストの〈霊〉が内に宿っている人々においてのみ現実となる」のだと思います。
 ヨハネの福音書が一旦閉じる20章のイエスの最後の言葉は「見ずに信じる者は幸いです。」です。生けるキリストはこの福音書を通じて、科学を信奉する現代人にも語り掛けているのではないでしょうか。