8月9日の思い巡らし2010年08月09日 12時16分

 きょうは長崎に原爆が投下された日です。

 告白すると、私はヒロシマに比べるとナガサキをやや軽く見ていました。しかし、永井隆氏の『長崎の鐘』、『この子を残して』、『ロザリオの鎖』を読んで以降、ヒロシマとナガサキは同じになりました。
 信仰者であり科学者である永井氏の文章は情に流されることなく、しっかりと定まった地点から愛の泉の文章がこんこんとあふれ出し、その愛の水は原爆で亡くなった夫人へ、そして、やがて残される子供たちへと注がれています。

 けさ私は、8月6日の日記にコメントをくださった方々への返信を書いていて、核兵器のない世界を実現するには、「愛」の力が最も強力な力になるであろうという思いが与えられ、次の瞬間にそれは確信に変わりました。その根拠は聖書(ヨハネ13:34、Ⅰコリ1-13、Ⅰヨハ4:7)にありますが、ここではそれは置いておくとして、では、この愛の力を核兵器廃絶にどのように結び付けたら良いのでしょうか。私はキリスト者ですが、ここでの考察はもう少し広い立場で考えてみます。

 まだ思い巡らしを始めたばかりですが、一つ思うのは、広島と長崎で使用された原爆は、高度数百メートルで光を放つという卑劣なやり方で人々を殺傷したということです。天から注がれる光は、多くの宗教にとって愛の象徴、救いの象徴、慈悲の象徴であると思います。例えばイエスは「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言い、阿弥陀仏とは無量光仏・無量寿仏のことです。天から光を放って人を殺傷するやり口は神仏を冒涜していると言えます。神仏の愛と慈悲を完全に無視しています。

 では、核兵器を地上で炸裂させるのなら良いのか。いいえ、それもダメです。広島と長崎で神仏を冒涜した核兵器は、以降はどのような使われ方がされようと、既に罪深い兵器となっているのです。ちょうどアダムとエバが罪を犯して以降、全ての人類が生まれながらに罪人であると聖書に記されているのと同様に、全ての核兵器は広島と長崎が原点であるがゆえに罪深いのです。

 核兵器の罪深さを、放射線の被害から考えるより、広島・長崎で神仏を冒涜したことを考えたほうが良いのではないか、いま私はそんな風に考え始めています。

 では、もし神仏が存在しないとしたら、核兵器は存在しても良いのか。私は、良いのだろうと思います。神仏が存在しなければ、善悪の基準が存在しないからです。

 でも、神仏は存在します。解釈の仕方は違っても多くの人が神仏の存在を感じていることが、ます第一の証拠と言えるでしょう。そういう人間の感覚は信用できないという無神論者には、神無しによる宇宙の起源と生命の起源の説明が求められますが、これは極めて困難であることが科学的にも分かってきています(リー・ストロベル『宇宙は神が造ったのか?』による)。

 8月6日と9日に世界中で多くの人が祈りを捧げるのも、神仏が存在する証拠です。神仏が存在しなければ祈ることは無意味だからです。

 核兵器のない世界は、神仏の存在を前提とし、神仏の愛の力に頼らなければ実現は難しいのではないか、いま私はそんな風に思っています。ただし無神論者にも核兵器は廃絶した方が良いと考える人は多いと思います。そのような方々との関係をどうするかは、これから追々考えていきたく思います。