ガンダム ― 2010年09月03日 09時43分
ちょっとだけ、静岡に帰って来ました。
噂のガンダムも、ついでに見てきました。
デカかったです!
でも、私はマジンガーZに熱くなっていた世代なので、マジンガーZの実物大を見たかったです ^^
昔のプラモデルの展示は懐かしかったです。
小学生の頃は、よくプラモデル屋に入り浸っていたことを思い出しました。
ミュージアム・ショップではプラモデルをたくさん売っていました。もし、今の住まいが神学院の寮でなかったら、買っていたかも。たぶん買っていたでしょう ^^
久々でプラモデルを作りたくなりました。
来週の月曜日に姫路から横浜に戻ります。
5日は「信望愛の十字架」というタイトルで礼拝説教をします。
8週間の夏期実習の仕上げです。
私たちの未来を見ている方 ― 2010年09月09日 09時09分
何度目かは忘れましたが、今朝、朝の食卓のショート・ディボーションの番が回ってきました。
今回のは、私は相当に気に入っています ^^
「私たちの未来を見ているイエス・キリスト」
聖書箇所:ヨハネの福音書1章48節
「ナタナエルはイエスに言った。『どうして私をご存じなのですか。』
イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが
いちじくの木の下にいるのを見たのです。』」
姫路教会での夏期実習では、自由な時間がたっぷりと与えられ、学びと祈りと思い巡らしの時を思う存分もつことができました。本当に恵まれた8週間でした。そうして自由な時を過ごして得られた最大の収穫は、過去・現在・未来という時間の感覚について、かなり柔軟に考えられるようになったことです。
私たちは、過去から未来へという時間の一方通行の中で生きていますから、時間を超越した神様の時間感覚を理解できないことは、仕方がないことかもしれません。しかし、それにしても私たちは余りにも時間にがんじがらめに縛られ過ぎているのではないでしょうか。私は夏期実習の後半、イザヤやイエスの時間感覚をもっと身近に感じたいという願いから、聖書だけでなく物理学の相対論や量子力学の一般書を読んでみたり、哲学の時間論なども少しかじってみたりして、時間について思い巡らす時を持ちました。
そうした後に、今日の聖書箇所のヨハネ1:48について、次の解釈が与えられました。私は確信を持って断言しますが、イエス・キリストが見た、いちじくの木の下のナタナエルは、過去のナタナエルではなく、未来のナタナエルです。
注解書は、私が調べた範囲では、全て過去のナタナエルと解釈していますし、私自身も少し前までは、過去のナタナエルのことだと考えていました。しかし、そう解釈するのは、私たちが日常の時間感覚に完全に縛られているからです。
新改訳の旧約聖書で「いちじくの木」という言葉が使われている箇所は19箇所ありますが、「いちじくの木の下」で検索すると3箇所に減ります。列王記第一の4:25、ミカ4:4、ゼカリヤ3:10です。これら3箇所から分かることは、「いちじくの木の下」にいる者は平和に包まれている、ということです。このような平和はソロモン以降においては救い主イエスの十字架によってしか、もたらされません。イエス・キリストに出会って救われた者だけが、真の心の平安を得て、いちじくの木の下で憩うことができます。イエス・キリストに出会う前のナタナエルはいちじくの木の下には、いません。ですから、イエス・キリストが見たのは過去ではなくて未来のナタナエルなのです。それは、ナタナエルが21章で再び登場することからもわかります。ナタナエルは救われて、いちじくの木の下に入ることができたのです。
このナタナエルの箇所から、私たちは何を学び、どのように伝道に生かして行ったら良いのでしょうか。イエス・キリストが救われた後のナタナエルを見ていたように、私たちもまた、人々が救われた後の姿を思い浮かべ、希望を持ってイエス・キリストの福音を伝道するべきではないでしょうか。この人は、まず救われる見込みはないだろう、などという先入観を持たず、誰に対してでも、その人がいちじくの木の下で平和な心で憩っている未来の姿を思い描き、福音を宣べ伝えるのです。
ナタナエルの記事は小さくて目立ちませんが、私たちが、いかに過去にとらわれやすい者であるか、ということを教えてくれています。イエス・キリストはサマリヤの女であれ、ザアカイであれ、どのような過去の持ち主に対しても、同じように接しました。それは、イエス・キリストが愛をもって人々の未来を見ていたからではないでしょうか。私たちはイエス・キリストと異なり、愛の足りない者かもしれません。しかし、人々の未来を見ることなら、できるはずです。それが愛を生むということもあるでしょう。
私たちが時間の縛りからほんの少しでも解き放たれるなら、その分だけイエス・キリストに近づくことができます。
イエス・キリストは人々の未来を見ています。
私たちもそれにならいましょう。
今回のは、私は相当に気に入っています ^^
「私たちの未来を見ているイエス・キリスト」
聖書箇所:ヨハネの福音書1章48節
「ナタナエルはイエスに言った。『どうして私をご存じなのですか。』
イエスは言われた。『わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが
いちじくの木の下にいるのを見たのです。』」
姫路教会での夏期実習では、自由な時間がたっぷりと与えられ、学びと祈りと思い巡らしの時を思う存分もつことができました。本当に恵まれた8週間でした。そうして自由な時を過ごして得られた最大の収穫は、過去・現在・未来という時間の感覚について、かなり柔軟に考えられるようになったことです。
私たちは、過去から未来へという時間の一方通行の中で生きていますから、時間を超越した神様の時間感覚を理解できないことは、仕方がないことかもしれません。しかし、それにしても私たちは余りにも時間にがんじがらめに縛られ過ぎているのではないでしょうか。私は夏期実習の後半、イザヤやイエスの時間感覚をもっと身近に感じたいという願いから、聖書だけでなく物理学の相対論や量子力学の一般書を読んでみたり、哲学の時間論なども少しかじってみたりして、時間について思い巡らす時を持ちました。
そうした後に、今日の聖書箇所のヨハネ1:48について、次の解釈が与えられました。私は確信を持って断言しますが、イエス・キリストが見た、いちじくの木の下のナタナエルは、過去のナタナエルではなく、未来のナタナエルです。
注解書は、私が調べた範囲では、全て過去のナタナエルと解釈していますし、私自身も少し前までは、過去のナタナエルのことだと考えていました。しかし、そう解釈するのは、私たちが日常の時間感覚に完全に縛られているからです。
新改訳の旧約聖書で「いちじくの木」という言葉が使われている箇所は19箇所ありますが、「いちじくの木の下」で検索すると3箇所に減ります。列王記第一の4:25、ミカ4:4、ゼカリヤ3:10です。これら3箇所から分かることは、「いちじくの木の下」にいる者は平和に包まれている、ということです。このような平和はソロモン以降においては救い主イエスの十字架によってしか、もたらされません。イエス・キリストに出会って救われた者だけが、真の心の平安を得て、いちじくの木の下で憩うことができます。イエス・キリストに出会う前のナタナエルはいちじくの木の下には、いません。ですから、イエス・キリストが見たのは過去ではなくて未来のナタナエルなのです。それは、ナタナエルが21章で再び登場することからもわかります。ナタナエルは救われて、いちじくの木の下に入ることができたのです。
このナタナエルの箇所から、私たちは何を学び、どのように伝道に生かして行ったら良いのでしょうか。イエス・キリストが救われた後のナタナエルを見ていたように、私たちもまた、人々が救われた後の姿を思い浮かべ、希望を持ってイエス・キリストの福音を伝道するべきではないでしょうか。この人は、まず救われる見込みはないだろう、などという先入観を持たず、誰に対してでも、その人がいちじくの木の下で平和な心で憩っている未来の姿を思い描き、福音を宣べ伝えるのです。
ナタナエルの記事は小さくて目立ちませんが、私たちが、いかに過去にとらわれやすい者であるか、ということを教えてくれています。イエス・キリストはサマリヤの女であれ、ザアカイであれ、どのような過去の持ち主に対しても、同じように接しました。それは、イエス・キリストが愛をもって人々の未来を見ていたからではないでしょうか。私たちはイエス・キリストと異なり、愛の足りない者かもしれません。しかし、人々の未来を見ることなら、できるはずです。それが愛を生むということもあるでしょう。
私たちが時間の縛りからほんの少しでも解き放たれるなら、その分だけイエス・キリストに近づくことができます。
イエス・キリストは人々の未来を見ています。
私たちもそれにならいましょう。
John, John, John … ― 2010年09月23日 19時29分
円高で洋書が買い求めやすいこともあって、2週間ほど前にヨハネ(John)の福音書の英語の注解書を少しまとめてアメリカのAmazon.comに注文しておきました。送料が一番安い船便で送ってもらうことにしたので、少なくとも一か月は掛かるのかな、と思っていたら昨日、届きました。注文してから12日目でした。早いですね。高い航空便にしなくて良かったです ^^
安い便でも、ちゃんと届くことが分かったので、もうあと何冊か頼もうと思います。
きょうは、授業もなかったので、一日中、これらの注解書に目を通していました。自分の中でヨハネの研究熱がどんどん高まっているのを感じます。
ヨハネの注解書を買い漁り始めたのは、これまでのヨハネ解釈の歴史の中で2章の「宮きよめ」の解釈に関して、贖罪との関係が論じられていないという重大な抜け落ちがあることに私は以前から気付いていて、そろそろというか、いよいよこの問題に本腰を入れて取り組もう!と決めたからです。この抜け落ちは重箱の隅的なことではなく、ヨハネの解釈全体を左右する根幹的なことなので、これまでのヨハネの研究の歴史的な流れをちゃんと調べようと思ったわけです。
別にこの研究分野の学会に所属しているわけでもないので、調べたところで、この先、どうなるわけでもないのかもしれませんが、とりあえず1年半後に提出する卒論のネタには十分なるので、この分野では今のところ素人同然ではありますが、少し頑張ってみて、ちゃんとした研究にしていきたいなと思っています。
いや~、ヨハネの福音書ってホントに面白いですね ^^
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