姫路城とお好み焼き2010年08月02日 20時19分


 変な組み合わせのタイトルですね ^^

 きょう、姫路城に行って来ました。
 修復工事中で天守閣に入れなかったのは残念でしたが、この夏の滞在中に一度は行きたいと思っていましたから、行けて良かったです。

 汗がダラダラ出たので、お城を出た所にあった茶店に入って、かき氷を食べました。宇治茶のかき氷を注文しましたが、なぜかかなり甘かったです。でも、おいしかったです。今の私は完全に甘党です ^^

 晩御飯はどうしようかなと考えていたら、突然お好み焼きを食べたくなったので、小麦粉を買ってお好み焼きを作りました。
 姫路での食生活は、日曜日などに差し入れのおかずをいただいた時を除いては100%自炊で、今のところ外食はゼロです。神学校に入る前とは真逆の生活ですね ^^
 お好み焼きは2枚焼いて、1枚目は結構おいしかったですが、2枚目は辛抱が足りなくて生焼けでした ^^;




熟睡から覚醒へ2010年08月04日 11時40分

 明日の晩の祈祷会ではニコデモの箇所(ヨハネ3章)を開きます。
 いまニコデモという人物について思いを巡らしています。

 ユダヤ人の宗教指導者であり、最高議会の議員でもあったニコデモは、社会的に非常に高い地位にあった第一級の知識人でした。

 しかし彼は霊的には熟睡状態にありました。
 イエスが言った、

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3節)

という言葉を全く理解できなかったのです。

 新しく生まれるとは、霊的に覚醒するということです。それ以前の熟睡した状態は霊的には死んでいるに等しいというわけです。

 そんなニコデモでしたが、このイエスとの対話により、たましいを揺すぶられたのでしょう、次第に霊的に目覚めて行きます。ニコデモは同じヨハネの福音書の7章と19章にも登場し、7章ではイエスを擁護し、19章では死んだイエスのために没薬を持って来ました。この19章でニコデモは霊的にほとんど目覚めたと言って良いでしょう。

 イエスは十字架の時を目前にして言いました。

「わたしが地上から上げられる(十字架に付けられる)なら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

 私たち全ての者は、イエスの十字架に引き寄せられます。そしてイエスを受け入れるか拒むかの選択を迫られるのです。その中間はありません。信じるか信じないかのどちらかです。ニコデモはイエスを受け入れたことを行動で示したのです。

 ヨハネの福音書のニコデモの箇所から私は、人が霊的な熟睡から覚醒に至るには、時間が掛かってもぜんぜん構わないということを読み取りたく思います。一般的な眠りから覚める時と全く同様に、一気に目覚める場合もありますが、徐々に目覚める時のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。
 
 私自身のことを振り返ってみても、私が霊的に覚醒するには、随分と時間が掛かりました。
 私が深い眠りから起こされるきっかけになったのは、このブログに何度も書いている、『自己愛とエゴイズム』という本を今から18年ぐらい前に名古屋で読んだ時だと思います。高津で教会に通うようになる10年ぐらい前のことです。
 この『自己愛とエゴイズム』で特に心に残ったのが、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』のツバメについて書かれた箇所です。このツバメは早く暖かいエジプトに帰りたくてたまりませんでした。しかし、銅像の王子に頼まれて、王子を飾っていた宝石や金を貧しい人々に運んだのでした。そうこうするうちに冬になり、ツバメは凍え死んでしまいました。
 このツバメの望みは暖かいエジプトで幸せに暮らすことでした。しかし、心のもっと奥深い部分では王子と貧しい人々のために奉仕することを望んでいたのでした。この心の奥深い声に従ったツバメは結局は幸せだったのではないか、と『自己愛とエゴイズム』の著者は読者に問い掛けました。
 この本を読んで、私は霊的な眠りから起こされ掛かったのだと思います。しかし、完全に起きることなく再びまどろみ始め、次にたましいが大きく揺さぶられたのが、父の死の時です(父の死以降については7月23日の日記をご覧ください)。

 牧師の仕事とは、目覚まし時計のようなものであり、さらに一度起きた人を再び眠らせないようにすることなのかもしれませんね ^^

  眠っている人よ。目をさませ。
  死者の中から起き上がれ。
  そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。
  (エペソ人への手紙5:14)

きょうは8月6日2010年08月06日 05時34分


 核兵器のない世界が実現するよう、お祈りします。

 きょうは、これから神戸に行き、神戸教会の子どもたちのキャンプに合流します。小学生24名が参加し、彦根教会の先生方も一緒です。

 夜の集会では、私が神様のために働くことになった経緯を子ども向けに話すよう、依頼されています。

 何たる偶然でしょうか。
 神戸教会の先生は、私と広島との関わりを全然ご存知ないはずなのに、8月6日に私の証しが子どもたちにできるとは!

 今夜はパワーポイントを使って、原爆資料館には私の名を刻んだタイルがある話から始めて、映画『夕凪の街 桜の国』のエキストラに参加したこと、平和公園で「私を平和のために用いてください」と長い祈りを捧げたこと、その祈りが応えられて神様に呼ばれた(召された)ことなどを、話します。
 最後は、イエス様がヨハネ20章で「平安(平和)があなたがたにあるように」と3回もおっしゃったことを話し、私の使命は一人でも多くの人に平和の心が与えられるよう、神様に用いていただくことだという話で締めくくります。

 子どもたちに平和のメッセージが届きますように。

8月9日の思い巡らし2010年08月09日 12時16分

 きょうは長崎に原爆が投下された日です。

 告白すると、私はヒロシマに比べるとナガサキをやや軽く見ていました。しかし、永井隆氏の『長崎の鐘』、『この子を残して』、『ロザリオの鎖』を読んで以降、ヒロシマとナガサキは同じになりました。
 信仰者であり科学者である永井氏の文章は情に流されることなく、しっかりと定まった地点から愛の泉の文章がこんこんとあふれ出し、その愛の水は原爆で亡くなった夫人へ、そして、やがて残される子供たちへと注がれています。

 けさ私は、8月6日の日記にコメントをくださった方々への返信を書いていて、核兵器のない世界を実現するには、「愛」の力が最も強力な力になるであろうという思いが与えられ、次の瞬間にそれは確信に変わりました。その根拠は聖書(ヨハネ13:34、Ⅰコリ1-13、Ⅰヨハ4:7)にありますが、ここではそれは置いておくとして、では、この愛の力を核兵器廃絶にどのように結び付けたら良いのでしょうか。私はキリスト者ですが、ここでの考察はもう少し広い立場で考えてみます。

 まだ思い巡らしを始めたばかりですが、一つ思うのは、広島と長崎で使用された原爆は、高度数百メートルで光を放つという卑劣なやり方で人々を殺傷したということです。天から注がれる光は、多くの宗教にとって愛の象徴、救いの象徴、慈悲の象徴であると思います。例えばイエスは「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言い、阿弥陀仏とは無量光仏・無量寿仏のことです。天から光を放って人を殺傷するやり口は神仏を冒涜していると言えます。神仏の愛と慈悲を完全に無視しています。

 では、核兵器を地上で炸裂させるのなら良いのか。いいえ、それもダメです。広島と長崎で神仏を冒涜した核兵器は、以降はどのような使われ方がされようと、既に罪深い兵器となっているのです。ちょうどアダムとエバが罪を犯して以降、全ての人類が生まれながらに罪人であると聖書に記されているのと同様に、全ての核兵器は広島と長崎が原点であるがゆえに罪深いのです。

 核兵器の罪深さを、放射線の被害から考えるより、広島・長崎で神仏を冒涜したことを考えたほうが良いのではないか、いま私はそんな風に考え始めています。

 では、もし神仏が存在しないとしたら、核兵器は存在しても良いのか。私は、良いのだろうと思います。神仏が存在しなければ、善悪の基準が存在しないからです。

 でも、神仏は存在します。解釈の仕方は違っても多くの人が神仏の存在を感じていることが、ます第一の証拠と言えるでしょう。そういう人間の感覚は信用できないという無神論者には、神無しによる宇宙の起源と生命の起源の説明が求められますが、これは極めて困難であることが科学的にも分かってきています(リー・ストロベル『宇宙は神が造ったのか?』による)。

 8月6日と9日に世界中で多くの人が祈りを捧げるのも、神仏が存在する証拠です。神仏が存在しなければ祈ることは無意味だからです。

 核兵器のない世界は、神仏の存在を前提とし、神仏の愛の力に頼らなければ実現は難しいのではないか、いま私はそんな風に思っています。ただし無神論者にも核兵器は廃絶した方が良いと考える人は多いと思います。そのような方々との関係をどうするかは、これから追々考えていきたく思います。

ど真ん中でした2010年08月12日 14時35分


 10日と11日に広島に行って来ました。

 まず廿日市でこうの史代さんの原画展を見て、それから原爆ドーム近くの広島市こども文化科学館のプラネタリウムで『夕凪の街 桜の国』の特別編を見ました。夏の星座の解説入りです ^^

 それから原爆資料館に行き、私の名を刻んだタイルと2年ぶりで対面して来ました。

 今回、新たな「大発見」がありました。

 なんで、今まで気付かなかったのかと思いますが、私のタイルはこのタイル画の左右のど真ん中にあるということに、今回初めて気付きました。これまで、横21列あるブロックの真ん中のブロックに私のタイルがあることは分かっていました。しかし、そのブロックの中の、さらに中央に私のタイルがあることは、見落としていました。


 中央のブロックのそのまた中央に私のタイルがあるのです!


 これを、どう解釈すべきでしょうか?

 私は平和のメッセージを中心に語っていかなければならないのだ!と解釈します。

 私はキリスト者ですから、イエス・キリストの平和のメッセージを語っていきます。原爆投下は明らかにイエス・キリストの平和の心に反しています。イエス・キリストは「ヨハネの福音書」20章で3回も「平安(平和)があなたがたにあるように。」とおっしゃっています。

 このタイル画のブロック数が縦も横も21だというのも、何だかいろいろなことを想像します。

 21世紀の今、しっかりと平和のメッセージを語るように、とも取れます。

 21は「ヨハネの福音書」の章の数とも同じです。

 3と7を掛けると21になりますが、3も7もキリスト教では大切な数です。3は三位一体の神の3ですし、7は1週間の日数です。7日に1回の聖日は神に礼拝を捧げる大切な日です。


 ところで、左右の位置が真ん中なのは良いとして、私のタイルが下から5つ目のブロックにあることは、どう解釈したら良いでしょうか。私は、上の写真のように十字架を下に置きたく思います。

 イエス・キリストの十字架は私たちをどん底から支えてくださっています。このイエス・キリストを無視したり拒んだりする時、人はどこまでも下に落ちて行きます。広島・長崎以降の戦争での核兵器使用が無いのは、こうして十字架により下から支えられているからだと私は思います。

 広島・長崎の地獄の中には十字架のイエスもいて苦しんでいました。このイエスの十字架を無視する時、人はさらに下に落ちて行き、3度目の核兵器使用が起こるのでしょう。

 この、3度目の「3」という数字はとても大切な気がします。もしかしたら、その時こそが終末の日なのかもしれません。

『非核時代のヨハネ福音書』2010年08月14日 16時03分

【プロローグ】

 初めに、神が天と地を創造した。
 神は宇宙が誕生する前から存在した。
 神は、「父」と「御子イエス」と「聖霊」の三位一体の神である。

 すべてのものは、神によって造られた。
 御子イエスは「ことば」であった。
 ことばは意味を有した情報である。
 宇宙は混沌ではなく、秩序を有している。
 それは、宇宙は偶然により出来たものではなく、ことばにより造られたからである。
 造られたもので、ことばによらずにできたものは一つもない。

 生命の情報が書き込まれたDNAも文字の配列であり、「ことば」ある。
 DNAは偶然により配列したのではなく、神が配列を決めたのである。
 それは聖書の文字が偶然により配列したのではないのと同様である。
(聖書の文字をバラバラにしたら、何億年たっても意味のある情報を持った配列にはならないであろう。)

 神は局在し且つ遍在する。
 神が造った光や電子も「粒子」として局在し、且つ「波」として遍在する。
 神は遍在し光や電子もまた遍在するため、神は時空を超えて物質を支配することができるのである。

 イエスにはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 しかし、人は光を殺人に用いた。
 人は原爆を造った。
 原爆は広島と長崎の上空数百メートルで光を放った。
 その光のエネルギーは放射線・紫外線・赤外線として人々を殺傷し、或いはまた火炎や爆風となり、さらに多くの人々を殺傷した。
 原爆の光は人々のいのちを奪い、世にやみをもたらした。
 そしてイエスも小さい者として広島と長崎で人々と共に苦しんだ。

 しかし、イエスの光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 神から遣わされた「21世紀のヨハネ」という人が現われた。
 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
 すべての人を照らすそのまことの光は、悪魔の光である核兵器を廃絶するために、再び世に来ようとしていた。
 イエスはもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 イエスはご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、イエスを受け入れた人々、すなわち、この方が核兵器の無い世界を実現することを信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 ことばであるイエスは人となって、私たちの間に住まわれた。
 私たちはこの方の栄光を見た。
 この方は恵みとまことに満ちておられた。
 21世紀のヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『悪魔の光を廃絶するために来る方がおられる』と私が言ったのは、この方のことです。」
 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
 というのは、科学は人々に恵みをもたらしたが平和はもたらさず、真の平和の恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

【参考図書】
リー・ストロベル著・峯岸麻子訳『宇宙は神が造ったのか?』(いのちのことば社)


(新改訳第2版を改変)

律法と科学法則の共通点2010年08月16日 11時28分

 前回の日記に書いた「非核時代のヨハネ福音書」は一歩間違えば異端ですので、神の御心からはずれることのないよう、修正すべき所は修正しつつ、慎重且つ大胆に書いていかねばならないと自戒しています。そのためには、私自身に一層の修練と敬虔さが求められると思い、身の引き締まる思いがしています。
 しかし、神様は良いテーマを与えて下さったと感謝しています。それは、標記の「律法と科学法則の共通点」に気付き、このことを深めていくことで、新たな伝道の道が開かれるかもしれない、という気がしているからです。
 律法を信奉しイエスを十字架に付けた律法学者たちとそれを支持する民衆は、現代の科学を信奉して神が万物を創造したことを信じない科学者たちとそれを支持する民衆と、非常に良く似ていると思うのです。例えば、「非核時代のヨハネ」で私が参考図書とした『宇宙は神が造ったのか?』を読むと、私にはダーウィンの進化論はほとんど破綻しているように思えますが、天下のNHKは未だに『ダーウィンが来た!』を放映しています。多くの人々は宇宙も生命も偶然により誕生したと考えていると思いますが、どちらも神が創造したものです。
 日本のキリスト教では「罪」と言うと道徳的な面が強調され、それはもちろん大切なことですが、これからは科学的な面からも、もっと「罪」について言及したほうが良いのではないかと思わされています。
 律法も科学法則も神が与えたものですから大切なものですが、それのみを信奉しすぎると却って神から離れてしまいます。サンダース著『パウロ』(土岐・太田訳、教文館)の「律法」の章に、「律法の要求の真の成就は、彼(パウロ)の考えによれば、キリストにある人々、すなわち、キリストの〈霊〉が内に宿っている人々においてのみ現実となる」(p.197)という記述があります。私はこれは科学の場合と良く似ていると思います。すなわち、「科学の法則の真の理解は、私の考えによれば、キリストにある人々、すなわち、キリストの〈霊〉が内に宿っている人々においてのみ現実となる」のだと思います。
 ヨハネの福音書が一旦閉じる20章のイエスの最後の言葉は「見ずに信じる者は幸いです。」です。生けるキリストはこの福音書を通じて、科学を信奉する現代人にも語り掛けているのではないでしょうか。

「時間」と『龍馬伝』の私利私欲2010年08月23日 16時52分


 いま「時間」について熱烈に関心を持っています。

 時間関係の哲学書や精神医学書も今日中にアマゾンで届く予定ですので、時間の許す限り読んで行きたく思っていますが、とりあえず物理学の方面から勉強を始めています。読んだ本はブライアン・グリーン著『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』。下巻はざっとしか読んでいませんが、上巻はかなりじっくり読みました。

 この本はすごく良かったです。相対性理論や量子力学の成果を説明する一般向けの本としては、今まで数多く読んだ本の中で一番分かりやすかったです。もちろん素人レベルなのですが、それでも時間と空間に関して今までより格段に理解が深まり感謝でした。

 何と言っても興味深いのは、未来と過去は絡み合っているということです。未来に起こることが、過去に起こったことの解釈に密接に関連しているのです。一見すると奇異なことですが、これは私たちの日常でもあることでしょう。過去にあんな異常なことがあったのは、今日のこのためだったのだと解釈することは、私たちの生活の中でもあります。ただし、これは運命論とは異なります。未来に違うことが起こることもあります。その場合は、過去も違う影響を受けているのだと思います。

 著者は、未来が過去に影響を与えるのは「解釈」だけであり、結果を変えることは不可能であると書いています。しかし、私は観測の問題などを合わせ考えると、自分が知っている範囲の過去を変えることは不可能でも、知らなかった過去は変わっても良いのではないかと思います。例えば、キリスト教関係で、寄付により運営されている施設(マザー・テレサの施設など)では、必要なお金や物が与えられるよう祈ると、その日のうちや翌日に届くことがあり、その場合、寄付する側のアクションは、祈りより前に開始されていることが良くあるのだそうです。これは、祈りが過去に影響を与えているのです。

 今の私の祈りが未来だけでなく過去にも影響を与えると考えると、厳粛な気持ちになります。この祈りは私利私欲を離れたものでなければ、応えられないものでしょう。

 いまNHKで放送中の『龍馬伝』では、「私利私欲を離れる」ということが、盛んに言われています。龍馬たちの思いは、私利私欲を離れていたために、未来の私たちに影響を与えただけでなく、過去をも動かして(例えばグラバーが日本に来ることになった、等)薩長同盟という離れ業が成し遂げられたのではないか、そんな気がしています。

頭の中がグジャグジャです2010年08月24日 22時39分

 「時間の矢」について考えていたら、だんだん頭が混乱して来ましたが、せっかく考えたので、とりあえずの結論みたいなことをメモ代わりに書いておこうと思います。

Q:なぜ時間は一方向にしか流れないのか?
A:神が引金を引いたビッグバンの時をt=0として受け入れてしまえば、後はゴジャゴジャ考える必要はないのではないか。

Q:なぜ時間だけが流れ、空間は流れないのか?
A:我々が知覚できないだけで、空間も流れていると考えて良いと思う。ビッグバンの時の半径r=0から始まって、空間は刻一刻と広がっている。我々はその空間の広がりの流れの中に立っているのである。

Q:空間では逆戻りが出来るのに、時間の逆戻りが出来ないのは何故か?
A:たぶん空間の逆戻りも出来ていないのだと思う。ビッグバン後に空間が猛スピードで膨張していることを考えれば、我々が少々のスピードで膨張と反対の方向に進んでも、逆戻りしていることにはならないであろう。もし、それを「空間の逆戻り」と言えるのであれば、「時間の逆戻り」もちゃんと出来ている。なぜなら、特殊相対性理論によれば、我々が空間の中を進む時、時間の進み方が遅くなるからである。

Q:エントロピーが増大する方向を時間の矢の方向とする考え方についてどう思うか?
A:それも一理あると思う。しかし、生命活動はエントロピーが減少する方向に働いていると言って良いと思う。ドロドロのスープを飲んで細胞が出来るのだから。

Q:ラザロの復活(ヨハネ11章)についても考えたね?
A:そうそう、それが今日の思い巡らしの一番の成果です!

Q:どんなこと考えたの?
A:死体が生命活動を再開するのも、エントロピーが減少する方向です。これは一見、不可能のように思えるけど、生命の誕生の方がエントロピーが減少する度合いは遥かに大きいのではないか。生命の誕生は、本当に奇跡的なことです。だから、もし生命の誕生を受け入れることができるなら、死体が生き返ることも受け入れることができるはずです。

Q:ナイス!
A:ありがとう^^

カナ(信)・ベタニヤ(望)・ゴルゴタ(愛)の十字架2010年08月27日 22時53分

 高津教会HPに下記のような投稿をしました。(8/30 加筆修正)

 残暑お見舞い申し上げます。
 姫路での夏期実習もいよいよ、あと残り1週間となりました。

 神学院では各自が実習で取り組みたい課題を出発前に提出することになっていたので、私は、「ヨハネの福音書をどう伝道に生かすかを追求したい」と書いて出しました。ヨハネの研究ばかりしていても、実際に伝道に活用できなければ、この書の執筆目的、即ち、

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(20:31)

から離れてしまい意味がないからです。
 この7週間、姫路教会の素晴らしい環境の中で学びと思い巡らしを続け、いろいろなことを考えましたが、ここ一両日で急速に形になって来たと感じています。

 それは解釈上、ヨハネの福音書には①カナ(信)、②ベタニヤ(望)、③ゴルゴタ(愛)の3つの十字架があるとして、伝道に用いることです。第二・第三の十字架を想定したほうが十字架が理解し易くなるのであれば、本書の執筆目的にも適い、聖書のメッセージを曲げることにはならないと思います。第二・第三の十字架を考えることは多様な意味を持つ十字架の理解を助けます。
 伝道では十字架を語る必要がありますが、十字架の教理は、聖書を読んだことがない人には難し過ぎます。また、伝道する時に「罪」をどれだけ語るかも難しい問題だと思います。「罪」を強調し過ぎると人が人を責める感じになり、「罪」を何も語らないと十字架の意味が伝わらない、結局その間を取るのでしょうが、現代の日本人に説明するのはとても難しいことだと思います。
 しかし、ヨハネの福音書には十字架に相当する箇所が3つあると解釈し、十字架について段階的に説明していけば、ずっと分かり易くなります。紙面の関係で詳しくは書けませんが、以下、3つの十字架をそれぞれ説明します。

①カナの十字架(信)
 ヨハネ2章のカナの婚礼は、19章の十字架の場面の裏返しであると解釈することができます。
 祝福⇔のろい、明るい母⇔暗い母、良いぶどう酒⇔酸いぶどう酒、生⇔死、等のこれらの対比や、2章の良いぶどう酒ときよめの水を19章のイエスから出た血と水と考えれば、2章をもう一つの十字架、即ち第二の十字架と考えて差し支えないでしょう。こうして十字架は残酷で暗いというマイナスのイメージだけでなく、実は神の栄光の現れであり、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の祝宴の側面もあるのだということを、この婚礼の場面での「カナの十字架」で説明することができます。
 また、信仰・希望・愛(第一コリント13:13)の「信」をあててみました。まずはイエスを単純に信じることから始まって3章の新生に至ることが、ヨハネ1~2章から分かるからです。
 さらに、2章の後半のイエスの血(良いぶどう酒)による心の宮きよめを説明することで、「罪」についての説明も、この段階からすることが可能です。
 もう一つ大切なこととして、読者が復活したイエスと出会う際の聖霊の働きも是非とも説明しておきたいです。ヨハネの福音書は読者が生けるキリストと交わりを持つために書かれた書であると言っても過言ではないからです。

②ベタニヤの十字架(望)
 第二の十字架の他にもう一つ、第三の十字架を考えるのは強引かもしれません。しかし、ヨハネの福音書は「3」という数字が非常に重要です。やはり第三の十字架は必要でしょう。その場合、11章のラザロが復活したベタニヤ以外には考えられません。20章はイエスの遺体が消えたことで復活が今一つ謎めいていますが、この11章では復活の様子と人々の反応をしっかり描写でき、またその「希望」が語れます。
 11章ではラザロが復活するまで誰もイエスを正しく理解していませんでした。これは19章の十字架の状況とある意味同じと見て良く、ここでイエスを理解しない「罪」をカナに続いてさらに説明できるメリットもあります。
 また、イエスの心が激しく動揺している様子(11:33,35,38)を、マタイ・マルコ・ルカのゲッセマネと重ねて、イエスの苦悩を語ることもできます。
 もう一つ大切なこととして、イエスと父との関係もこのベタニヤの十字架の箇所で説明しておくと良いでしょう。

③ゴルゴタの十字架(愛)
 既述した通り十字架が難しいのは、十字架という一つの出来事にあまりに多くのことが詰まっているからです。これまでカナとベタニヤとで、十字架の持つ多様な意味を、ある程度分散して解き明かすことができました。
 では、このゴルゴタでは、何を語るべきか。それはやはり3:16の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」でしょう。周辺の説明は他で済ませ、十字架の核心である神の愛をじっくり語ることができるのです。

 このように、夏期実習の課題をまとめることができたのは、皆さんのお祈りのゆえだと思い、感謝です。
 今後とも、よろしくお願いいたします。