『歎異抄』と『聖書』2009年12月22日 10時21分


「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(歎異抄3章)

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコの福音書2章17節)


 週末に浄土真宗の親鸞の教えを説いた『歎異抄』と、これをベースに書かれた倉田百三の戯曲『出家とその弟子』を読みました。どちらも学生時代に一回読んだことがある書物です。学生時代はあまり深く読むことができなかったと思いますが、今回は聖書と比較しながら読むことで、もっと深く読むことができました。

 よく言われることのようですが、浄土真宗とキリスト教とは、自力ではなく他力に頼る以外に救われる道はないとする点で非常に良く似ています。自分が善人だと思って自分の力で何とかしようとする者のことは神仏は放っておき、自分がどうしようもない悪人・罪人であることを自覚し、もはや神仏にすがるしかないと自分を捨てて神仏に頼る者をこそ神仏は憐れみをもって救いの手を差し伸べてくださる。だから善人が天国に行けるなら悪人が天国に行けないわけがない、というわけです。

 「自分を捨てる」ということを、頭ではなく感覚として段々と理解できるようになってきた私は、『歎異抄』の教えに深く共鳴します。大学に勤めていた時は自分の能力を如何にして他者に認めさせるかに腐心し、今はそのことから如何にして自由になるかに苦心しているからです。

 このように私は『歎異抄』の教えに共感します。

 しかし浄土真宗とキリスト教では決定的な違いがあります。それは、信じる対象がキリスト教の場合は歴史的に実在したイエス・キリストであるのに対して、阿弥陀仏はそのような存在ではないということです。阿弥陀仏の代わりに釈迦を考えたとしても、やはり決定的に違います。釈迦は人が死んで仏になりましたが、イエス・キリストは神が人となり十字架で死んだ後に復活し、今も生きておられる存在です。それゆえにイエス・キリストは非常に身近な存在です。

 きょうのところは、ここまでにしておきます。

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