罪理解の分岐点2009年12月03日 17時44分

 前回の日記「不思議な歓喜」に記した私の個人的なアルダスゲイト体験、すなわちイエス・キリストによる救いの確信を経て、キリスト教の伝統的な伝道方法の問題点が見えてきました。

 高津教会ではそれほどではありませんでしたが、多くの教会では、人の内にある「罪」を強調します。そして、一人一人に自分の罪深さを悟らせ、悔い改めを促します。しかし、この伝道方法が通用するのは、せいぜい20代前半の若者まででしょう。なぜなら、20代の半ばぐらいに罪理解の分岐点があるからだ、というのが今回の私の結論です。

 「罪」とは神から離れていることです。この「神に対する罪」を20代前半までなら、「人に対する罪」を通じて悟ることができます。「人に対する罪」とは、自己中心的な言動により他人に迷惑を掛けたり、傷つけたりすることです。人は自己中心的になると、その分だけ神から離れてしまいます。逆に自我を捨てれば捨てるほど神に近づくことができます。従って、今まで自分が自己中心的であったということに気付いていなかった子どもや若者が、そのことを教会で指摘され、自分でもそれが分かると、ガ~ン!!^^とショックを受け、「神様、ゴメンナサイ!」と悔い改め、神であるイエス・キリストを信じることができます。

 しかし、大人は教会に行かなくても、社会経験を積むと、他人の自己中心的な行動を見ていれば自分の自己中心性も分かるようになり、神とは無関係に、自らの道徳的な罪を悟ります。聖書を読まなくても、「人に対する罪」のことは分かっているのです。

 この「人に対する罪」の理解を、神とは無関係に形成した大人に「神に対する罪」を理解してもらうのは、容易なことではありません。神が万物の創造主であることを認めなければ、それは無理でしょう。従って、大人に対して「罪」からアプローチする伝道方法はほとんど効果が無いと、私は思います。

 教会の牧師のほとんどは20代の前半までにイエス・キリストを信じた者ですから、大人に対して「罪」を説くことの効率の悪さを分かっていないと思います。大人は既に「人に対する罪」のことは分かっていますから、いくら「罪、罪」と言っても、なぜ罪のことでそんなに大騒ぎするのか、さっぱり分からないのです。

 40歳を過ぎてから教会に通い始めた私は、若い時にイエス・キリストを信じた人に比べて自分の罪意識が低いことに今まで散々悩まされて来ました。つまり、自分はキリスト教のことが、実はぜんぜん分かっていないのではないかと。しかし、教会に通い始めて以降に感じた「人に対する罪」の意識が弱かったのも、それは当然であったことが今回わかり、安心しました。

 罪理解の分岐点を過ぎた大人に対しては、「罪」からではない伝道方法を考えるべきです。その一つが、心の平安を説くことであろうと思いますが、まだまだ他にも、大人にふさわしい伝道方法が、きっとあることでしょう。