『わかものダビデ』2009年11月01日 06時16分

 けさ、深川教会に行く前に今日のこの台本をアップしようとブログを開いたら、K-SASABEさんからコメントをいただいていました。
 温かいコメントをどうもありがとうございました。
 今はお返事する時間がないので、きょう一日、このことに思いを巡らしつつ過ごしたく思います。

 さて、今日は深川教会の午後の子どものための賛美集会でメッセージをします。幼稚園生から小学生までが対象ですが、照準は幼稚園生に合わせます。また、保護者の父母もいるので、大人も意識するという難しいものですが、とりあえず台本を作りましたので、アップします。

『わかものダビデ』

「ダビデはペリシテ人に言った。この戦いは、主の戦いだ。」
(第一サムエル17:47)

(紙芝居と剣道の防具を使って)

 ダビデは、イスラエルの立派な王様でした。
 これは、ダビデが王様になる、ずっと前のダビデがまだ若かった頃の話です。
 その頃、イスラエルには別のサウルという王様がいました。
 でも、このサウルは、あまり良くない王様でした。
 良くない王様って、どんな王様だと思いますか?
 (子どもに向かって質問する)
 そう、良くない王様っていうのは、神様のことをあまり信じていない王様のことです。
 ちょとは信じてるんだけど、心から信じてはいないんだね。

 それで、神様は別の人に王様になってもらいたいと思って、誰かいないかなと思って探して、ダビデを見つけたんだね。

 この紙芝居は、ここから始まります。

 使いの者「お~い、ダビデ、お父さんが呼んでるぞ。サムエルっていう先生が来てるから、すぐ来なさいって。」
 サムエル先生は、神様が次に王様になってもらいたいと思っている人を探しに来ました。それで、ダビデがサムエル先生の前に来た時、神様はサムエル先生に、このダビデがそうだ、と言いました。ダビデは神様を心から信じていましたから、神様はダビデが大人になったら、ダビデに王様になってもらいたいと思いました。それで、サムエル先生は神様の命令で、ダビデの頭に油を注ぎました。これは、ダビデが大人になったら王様になるように、というしるしです。
 ダビデには7人もお兄さんがいましたが、ダビデほど神様を信じている者はいませんでした。
 さて、そのころ、イスラエル人はペリシテ人たちと戦争をしていました。
 それで、ダビデのお兄さんたちは戦っていました。
 ダビデはまだ若すぎたので、戦争には参加していませんでした。
 ある日、ダビデはお父さんから、お兄さんたちにお弁当を届けるように言われて、お兄さんたちが戦っている場所に出かけていきました。
 そこには、ゴリヤテという、ものすごく大きな男がいました。
 ゴリヤテ「おれ様と戦うイスラエル人はいないのか。弱虫たちめ!」
 ダビデ 「私たちを悪く言うのは、神様を悪く言っているのと同じだから、絶対に赦せない!誰も戦わないのなら、私が戦うぞ。」
 ダビデがそう言っているのを、その時の王様のサウルが知って、ダビデを呼び寄せて言いました。
 サウル「ダビデ、あなたは、まだ若いから、あの大きなゴリヤテと戦うのは無理だよ。」
 すると、ダビデはサウル王にこう言いました。
 ダビデ「私は羊を飼っていますが、時々、ライオンや熊が来ます。その時、私はライオンや熊とも戦います。そして、いつも勝ちます。神様が守ってくださり、力を与えてくださるからです。ですから、あの大きなペリシテ人も、きっと神様がやっつけてくださいます。私を戦いに行かせてください。」
 ダビデが熱心に頼むので、サウル王はダビデを戦いに行かせることにしました。
 サウル「よし、それなら行くが良い。ただし、あぶないから、この防具を付けていきなさい。」
(と言って、剣道の防具を出す)
 ダビデ「わかりました。」
(と言って、ダビデ、防具を付ける。しかし、重いのでよろける)
 ダビデ「王様、こんな重いものを付けていたら、とても動けません。」
 サウル「でも、危ないから、それは付けていなさい。」
 ダビデ「大丈夫です。神様が必ず守ってくださいます。」
(と言って、防具を全てはずす。)
 ダビデ「あ~、軽い。らくちん、らくちん。これで大丈夫です。神様が守ってくださいますから。」
 サウル「では、せめてこの剣を持って行きなさい。」
 (と言って、木刀を上段に構えて見せる)
 サウル「こうやれば、相手に自分を大きく見せることができる。」
 ダビデ「それも、要りません」
 サウル「何だと。では、どうやって戦うのだ」
 ダビデ「これです。」
 (と言って、石を見せる)
 ダビデ「では、行って来ます。」
 ダビデ「やい、ゴリヤテ、お前はよくも、私たちを弱虫と言ったな。そんな奴は私たちの神様がゆるさないぞ。この戦いは主の戦いだ。私たちの主がお前をやっつける。」
 ゴリヤテ「何を、チビがわけの分からないことを言っているのだ。お前なんか、すぐにやっつけてやる。」
 その時、ダビデはゴリヤテに向かって石を投げました。
 ヒュー・・・・・・・・
 そして、石はゴリヤテの額に当たってゴリヤテは倒れました。
 それで、ペリシテ人たちは恐れて逃げてしまいました。
 イスラエルはダビデの石の一撃で、勝つことができました。
 ダビデは、神様を信頼していたので、神様が勝たせてくださいました。

 私たちを守ってくださるのは、こんな鎧や兜ではなくて、神様です。
 私たちが信頼しなければならないのは、刀や武器の力ではなく、神様の力です。

 私たちは自分の力で何とかしようと、こんな防具をいっぱい身につけたりしますが、もっとダビデみたいに神様を信じて生きましょう。神様が共にいてくださいますから、神様が力を与えてくださいます。

 最後に、もう一度、金言を一緒に大きな声で読みましょう。

「ダビデはペリシテ人に言った。この戦いは主の戦いだ。」
(第一サムエル17:47)

映画『四日間の奇蹟』の背後、そして底にあるもの2009年11月02日 07時07分


 「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(旧約聖書・イザヤ書53章5節)

 私は、背後に十字架が見える映画『四日間の奇蹟』(2005年・佐々部清監督作品)の写真が大好きです。
 背後にある十字架。これが、私たちにどれほど大きな平安をもたらしてくれるか、その大きさは計り知れません。
 『四日間の奇蹟』の三名の主人公、敬輔、真理子、千織はお互いの尊い犠牲に依存し合う形で心の平安を得ていきます。その背後には家族の犠牲的な愛も存在しています。
 三人の中で最も大きな犠牲を払ったのは真理子でした。その真理子の体は金属片によって刺し通されました。その真理子を一番底から支えているのが、イエス・キリストの十字架です。
 冒頭のイザヤ書の聖句は、イエス・キリストが誕生する前の旧約聖書の時代に預言された言葉です。イエスは十字架上で釘に刺し通されることを知っていながら、この世に来ました。私たちに平安をもたらすためです。
 私たちは十字架を見上げます。しかし、実は十字架は私たちを一番底から支えてくださっています。
 神であるイエスは人となって十字架上の死という、どん底を味わいました。

 「キリエ、エレイソン(主よ、あわれんでください)。」
 『四日間の奇蹟』の原作の冒頭にも出てくる、イエスに憐れみを請うこの言葉は、新約聖書の福音書の中に何度も何度も出てきます(例えば、マタイ9:27、15:22、20:30、20:31、…)。
 主イエス・キリストはこのように、本来は憐れみを請われる側の神なのです。その神が人となって十字架に付けられるという、どん底を味わいました。だからこそ、私たちを底の底から支えてくれる大きな力を持っており、それゆえに私たちは、心の平安を得ることができるのです。

 映画『四日間の奇蹟』には、その十字架がしっかりと見えています。

母マリヤの Let it be と母サラの闘い2009年11月03日 06時03分

 "Let it be to me according to your word."
 「お言葉どおり、この身になりますように。」
 (新約聖書・ルカの福音書1章38節)

 もう11月ですね。早いもので今月の終わりにはクリスマスの待降節に入ります。クリスマスまでの約1ヶ月、教会ではイエスの生誕についてのメッセージが語られ、クリスマスに向けて心を次第に整えて行きます。

 映画『四日間の奇蹟』の出だしで、礼拝堂の中で祈る真理子の頭上に幼な子イエスを抱く母マリヤの絵が映し出されます。そして、礼拝堂の外にも幼な子イエスを抱く母マリヤの像があります。
 処女マリヤは男の子をみごもったと天使に告げられた時、自分の身に何が起きたのか、と非常に戸惑います。しかし、やがて"Let it be to me according to your word."「お言葉どおり、この身になりますように。」と言います。
 イエスをみごもってからイエスが十字架上で死ぬまでの出来事は、母マリヤにとっては喜びよりも苦難の方が遥かに多かったに違いありません。そのことに思いを馳せるとき、私たちの心も痛みます。
 しかし同時に、神様の御心であるのなら全て受け入れます、というマリヤの素直な信仰にも心を打たれます。

 たびたび『私の中のあなた』を引き合いに出して申し訳ありませんが、この映画の母サラとイエスの母マリヤとでは、何と対照的であろうか、何と全てが異なることであろうかと思うことです。

中心はここだ!2009年11月07日 11時37分

 これは全くの個人的な考えですが、旧約・新約を合わせて約2000ページある聖書全体の中心となる聖句は、新約聖書・ヨハネの福音書4章の下記2節であると考えるに至りました。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(23節)
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(24節)」(ヨハネの福音書4章23,24節)

 聖書66巻の中心が上記2節だとするのは随分と乱暴な話ですが、聖書を読んだことがない方に聖書の説明を簡単にする時には、重要な聖句を示すのは必要なことです。
 しかし、聖書は重要な聖句で満ち溢れています。そこで、人によって違ってかまわないので聖書全体の中心がどの聖句にあるかを考え、その説明をしたら良いと思ったのです。

 では、なぜ私がこの2節を聖書全体の中心と考えるかを説明します。

 まず、「しかし」の中に旧約聖書の全てが包含されています ^^;
 この聖句は、イエスがサマリヤ地方を旅していた時に、その土地の女に語った言葉ですが、その時イエスは旅の疲れで井戸のかたわらに座っていました。

 なぜイエスはそんなに疲れていたのか?

 イエスはサマリヤ地方で、旧約の時代のイスラエルの民の不信仰の末路を様々な形で見て嘆息し、疲れ果てたのではないか、私にはそのように思えます。
 イエスはこの井戸のある町に来る途中で、かつてシロの町があった辺りを通って来たと思われます。シロの町にはモーセの時代に作られた神の契約の箱がヨシュアの時代に運び込まれましたが、神の箱はサムエルの時代に運び出されて敵地を転々とします。

 このように信仰が薄かったゆえにシロはペリシテによって滅ぼされ、サマリヤもアッシリアによって滅ぼされました。また、神はエレミヤを通じ、シロの町の名をあげてエルサレムの不信仰に警告を発しましたが、そのエルサレムもバビロニアによって滅ぼされました。

 これらの出来事に共通していることは、イスラエルの民が神の箱や神殿という「入れ物」にこだわり、霊である神ご自身を礼拝していなかったということです。

 イエスの時代、民は相変わらず神殿という入れ物にこだわり、神から離れていました。
 それゆえ、イエスは上記23節で「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」と言いました。

 この節の「父」と「礼拝」も極めて重要です。イエスは父なる神の御子であり、神から離れていた民(私たちを含む)の罪を赦すため、父によってこの世に送られたのです。

 私たちは、なぜ父なる神を礼拝しなければならないのでしょうか?それは、聖書の一番始め、創世記1章に書かれている通り、神が天地を創造し、私たち人間もお造りになったからです。

 24節「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 この霊とまことによる礼拝ができず、入れ物や物質を礼拝して神から離れてしまっている私たちを救うために、イエス様はこの世に来てくださいました。

 もうすぐクリスマスです。今年のクリスマスはぜひ、このヨハネの福音書4章23節、24節のみことばを噛み締めたく思います。

同窓会セミナー2009年11月09日 20時05分

 明日から埼玉県で聖宣神学院の2泊3日の同窓会セミナーが開かれます。学院のこの60年の卒業生の多くが集まっての牧師の研修会です。われわれ神学生も参加して共に勉強させていただきます。
 主講師はジョン・オズワルト先生です。旧約聖書学が専門の世界的に著名な神学者だそうです。この分野に入って日が浅い私には、世界的に著名な神学者と言われても、どれくらい偉いのか見当がつきませんでしたが、実際にお会いしてみて、確かに底知れぬ深みを持った先生だと思いました。オズワルト先生は土曜の晩から神学院のキャンパス内にある院長宅に泊まっており、きょうは朝食後の小礼拝で院長の通訳付きでわれわれ神学生のために説教をしてくださり、また昼食時にも、我々の質問に丁寧に答えてくださったのです。私も質問し、また私が持っている先生の著書にサインもしていただきました ^^
 この土日は、今度のセミナーに備えて、そのオズワルト先生の著書『聖きを生きる人々』(原題:Called to be Holy)を読みました。この本の前半は旧約聖書における「聖」が、そして後半には新約聖書における「聖」について書かれています。そして、新約における「聖」では、イエス・キリストがこの世に来た真の目的は、良く言われるところの「十字架に掛かるため」というよりは、むしろその後の「聖霊を人々に与えるため」であるということが、繰り返し強調されています。
 この本を読んで、私は今まで曖昧だった私なりの「きよめ」のイメージが俄然ハッキリとしてきました。いま私が抱いている「きよめ」のイメージは、心の窓を全開にして聖霊の風を心の中に取り入れることです。このことについては、いずれまた書きたく思います。
 明日の朝、セミナーに出かけ、木曜の晩に戻り、金曜は夕方まで授業がありますが、できれば「被爆者の声をうけつぐ…」に行きたいなあ、と強く思っています。原爆のことは、私の伝道者への召命に深く関わることですから…

信仰のチャレンジ2009年11月12日 22時35分

 ジョン・オズワルト先生が講師を務めた3日間のセミナーを終えて神学院に戻った今の私の心にあるのは、次の御言葉です。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

 最初の文は新約聖書のヨハネ4:24(11月7日の記事)、そして後の文はローマ人への手紙12:1からです。

 「供え物」は日本の神道や仏教でもしますし、キリスト教の起源のユダヤ教においては、いけにえの動物が非常に重要な供え物です。しかし、キリスト教においては供え物は必要ではありません。イエス・キリストが十字架上で犠牲のいけにえとなってくださったからです。このことを、ただ信じさえすれば、神様から豊かな恵みが注がれます。

 この、信じさえすれば良い、供え物は必要ないということを前提とした上で、パウロは上記ローマ12:1で、我々の「からだ」を供え物としてささげなさいと書いています。

 何と大胆な言葉でしょうか。

 神様に捧げる供え物は、聖いものでなければなりません。きよくないものを捧げることは、神様を冒涜することになります。ですから、パウロは我々に聖い者になり、自身をささげなさいと書いています。

 そんな聖い者になれるはずがない、と大抵の者は思います。私もそう思います。しかし、オズワルト先生は、聖霊の力を信じれば、聖霊なる神が私たちを聖めてくださると説きました。私自身がどんなに頑張っても無理なことでも、聖霊の力を信じれば、それは可能だと言います。

 私の中には悪ぶりたい思いが未だに残っており、きよくなることへの抵抗感が今なお残っていることを告白しなければなりません。しかし、聖くなることに抵抗することは、聖霊に抵抗することと同じことです。

 私は聖霊に抵抗するわけにはいきません。
 私は降参しなければなりません。きよくなることへの抵抗感を捨て去らなければなりません。聖霊の力を信じ、全てをゆだねなければなりません。
 昨晩、私は敗北感にまみれていました。しかし、新たな一歩を踏み出さなければなりません。

 これは、私にとっては大きなチャレンジです。
 もう後へは引けません。前に進むのみです。

Death in Life2009年11月14日 15時03分


 昨日、久しぶりで映画『夕凪の街 桜の国』をDVDで観ました。

 それで、今日はヒロシマのことについて、ここに何か書き残さなくてはと、朝からずっと考えています。しかし、なかなか書けないでいます。
 ヒロシマのことについて、以前のように、思いついたことをすぐに書く、という感じでは自分がなくなってきているようです。そんなことを言っていると、ますます書けなくなってしまいますが・・・

 上の写真は、3週間ほど前にたまたま本屋で見つけて買った、ロバート・リフトン著『ヒロシマを生き抜く』(岩波現代文庫)という本です。原題は『Death in Life -Survivors of Hiroshima』です。忙しくて、まだ全体の1/4ほどしか読んでいません。これまで読んだ中で、一番心に残っている箇所は、永井隆博士について書かれたところ(p.82-83)です。下に引用します。

「…このような事情のもとで、被爆者は自分の生を罪と結びつけることになったのである。長崎で有名となったカトリック信者で、医学者の永井隆博士は、次のように説明している。
 『それゆえ、原子爆弾の下では、死の手に捕らえられて、救いを叫ぶ友を見捨て、すがりつく隣人の手を振り離して逃げた者しか、生き残らなかったのです。責任をもって持ち出さねばならない重要書類や、品物を放り出して、身軽に走り逃げなければ、生きのびられませんでした。言いかえると、原子爆弾の下で生き残った者は、利己主義者だけであります。―この事実を、私たち生き残った者は、自分で知っています。そして、つねに自分で苦しんでいます。』」(引用終わり)

 また、栗林輝夫著『原子爆弾とキリスト教』(日本キリスト教団出版局)という本には、永井隆氏に関して次のような記述があります。

「長崎で被爆したカトリック医師、永井隆は白血病に苦しみながら他界するまで、原爆投下の意味を信仰的に問い続けた。そして『人類の罪悪の償いとして」、浦上の地が「犠牲の祭壇に屠られ燃やされるべき、きよき子羊として選ばれたのではないか』との結論を得た。イエス・キリストが全人類の罪を贖うために十字架上で死なねばならなかったのと同じく、長崎市民の命は人類に平和をもたらすための犠牲だった。だからこそ再び地上に原爆で死ぬ者があってはならない。永井は長崎が人類最後の被爆地であるように、そうした尊い犠牲の上に世界の平和が築かれるようにと祈った。」(引用終わり)

 永井隆氏の著作をまとめて読んでみたくなり、先ほどamazonで4冊注文してしまいました。
 私の神学院の卒業はまだ2年以上先ですが、卒業論文のテーマは「原爆と信仰」についてにしようと今、強く思っています。
 
 『夕凪の街 桜の国』の皆実もフジミも京花も、『Death in Life』の人生だったのだということを思わされています。

朝の食卓のショート・メッセージ22009年11月16日 22時20分

 前回の6月18日に続いて、2回目の5分間スピーチの担当が今週、巡ってきます。今日、その原稿ができました。
 本番は木曜日ですが、他にネタもないので、原稿をアップします。永井隆氏の著書も読み始めましたので、近々感想が書けたら良いなあと思っています。


聖書箇所:ヨハネの福音書4章24節

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 いま私は男子寮の早天・晩祷の当務ではヨハネの福音書から説教をしています。アラムナイ・セミナーの前の週は、先ほどお読みしたヨハネ4:24までの4章の説教をしました。
 ヨハネの福音書の説教を始める前は、私は4章までの出来事をバラバラに捕らえていただけでした。バプテスマのヨハネの言葉、カナの婚礼、宮きよめ、ニコデモとの会話、そしてサマリヤの女との会話を、それぞれ別々の話としてしか捕らえていませんでした。
 しかし、説教のための思い巡らしを重ねて行くうちに、これらが互いに関連を持って書かれている、ということに気付き始めていました。そうした折、素晴らしいタイミングでオズワルト先生が来てくださいました。このBTCの食堂とセミナーの会場でオズワルト先生の話を何度も聞いているうちに、私の中で1章から4章までが一本の糸でつながりました。

 1章でバプテスマのヨハネが言った、イエス様による聖霊のバプテスマとはどのようなものかが、2章と3章で示されます。2章のカナの婚礼できよめの水を良いぶどう酒に変えた奇跡は、バプテスマのヨハネの水をイエス様の血に変えたことを示します。そして、2章後半の宮きよめは、私たちの心の中の宮をイエス様が、その、ご自身の血できよめてくださることを示します。
 そうしてイエス様の血によってきよめられた心に聖霊が入ると、私たちは新しく生まれるのだと、イエス様は3章のニコデモとの会話でおっしゃいます。この3章で、聖霊は風に例えられます。このように風に例えることで、真の礼拝というものは、必ずしも特定の場所に設けた神殿で行うものではない、という4章の教えへと導いて行きます。

 4章では、イエス様はサマリヤ地方を旅しておられました。
 6節に「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた」とあります。
 なぜイエス様はそんなに疲れていたのでしょうか?
 私はこう考えます。イエス様はサマリヤ地方で、旧約の時代のイスラエルの民の不信仰の末路を様々な形で見て嘆息し、疲れ果てたのではないでしょうか。
 イエス様はこの井戸の町に来るまでに、かつてシロの町があった辺りを通って来たと思われます。シロの町にはモーセの時代に作られた神の契約の箱がヨシュアの時代に運び込まれました。しかし、神の箱はサムエルの時代に運び出されて敵地を転々とします。
 このように信仰が薄かったゆえにシロの町は滅ぼされ、そしてサマリヤもエルサレムも滅ぼされました。 これらの出来事に共通していることは、イスラエルの民が神の箱や神殿という「入れ物」にこだわり、霊である神ご自身を礼拝していなかったということです。

 イエス様の時代、民は相変わらず神殿という入れ物にこだわり、神から離れていました。
 それゆえ、イエス様は24節で「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言いました。
 霊とまことによる礼拝とは、どんな礼拝でしょうか?
 その答が、今回のアラムナイ・セミナーの最後に読まれたロマ書12章1節の後半に書いてあります。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

 神様への供え物になるほどにきよくなることなど、自分の努力では到底無理ですが、神様がきよめてくださると信じれば、それは可能だ、とオズワルト先生はおっしゃいました。
 今回のアラムナイ・セミナーで、私は自分がまだまだ神様を信じきっておらず、神様に抵抗している者だということを思い知らされました。
 イエス様は、

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです」(ヨハネ4:23)

とおっしゃいました。
 神様に抵抗している者は、真の礼拝者ではありません。私は神様を愛していますから、真の礼拝者になりたいです。それゆえ、私は神様が私をきよめてくださると信じ、神様の御手に落ち入ります。

 神様は絶妙のタイミングでオズワルト先生を送ってくださり、大切なことを教えてくださいました。そのことのゆえに、御名を崇め、心から賛美し、感謝します。

『この子を残して』2009年11月19日 16時55分

【ブックカバー裏表紙の本書の紹介文】
 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!(本文から)
 長崎で原爆にあい、放射線を浴びて不治の原子病患者として床にふす父親と、二人の幼い孤児予定者。この三人が生きてゆく正しい道はどこにあるのか。父親が考えたこと、子供たちがしたこと、子供たちに話したいことを、あとで読んでもらうために書きに書いた父親の遺言書ともいえる感動の書。


 永井隆氏の著作『長崎の鐘』、『この子を残して』、『ロザリオの鎖』が届いたので、いま読んでいます。ヒロシマにばかり目が向いていて、これらナガサキの名著のことを今まで知らずにいたことが悔やまれます。
 永井氏はカトリックの信仰を持った放射線医学が専門の科学者(医学博士)です。『ロザリオの鎖』に収められている「科学者の信仰」という一文の中の、氏の「真理とは人間の創作以前のものである。(中略)正直な謙虚な自然科学者に神を信仰する者が多く、実験という面倒な仕事をせずにただ多くの報告を読んでいる文科系の人に唯物無神論者が多い」という意見には深くうなずきます。
 氏の著作を読んだ感想を、これから少しずつ書いていけたらと思っています。とりあえず、今日は『この子を残して』に収められている「完全な幸福」という文の一部を引用するにとどめます。

「完全な幸福」

 真実孤児の道はさみしい。孤児の真実の道は苦しい。この道を行く人は辛く、悲しく、難しい。この道は暗く、細く、けわしく、石多く、花少なく、窮して通じ、通ずれば窮す。路傍に立つ者は枯木のごとく冷たく、頼りなく、そっけなく、しばしば枝を張り出して妨げる。……手をつなぎゆく幼い二人、兄は十四、妹は八つ。

 信仰によって、そのさみしさが消えるのではない。苦しみがなくなるのでもない。辛さ、悲しさが除かれるのでもない。さみしさはいつまでも続く。苦しさはどこまでも苦しい。辛さ、悲しさはやっぱり辛さ、悲しさである。宗教はアヘンではない。肉体的な苦痛や、人間感情の悲哀を消してくれるのが信仰の目的ではない。信心のご利益ではない。神は愛であるから、苦しむ人間の苦しみを消してくださることはある。医学の力でなおらぬ病気が祈りによってたちまちなおった奇跡はたくさんある。それは人間に神の存在を認めさせるために、神が愛であることを知らせるために、時々神が行いなさる。ちょっとした秩序の変更であろう。地上的な苦しみや悩みを消していただくために神を信じるのは未熟な信仰である。腹が痛いからモルヒネを注射してください、と医者に頼むような気持ちで、信仰生活に入ってはいけない。真の信仰生活はまだまだ高いところを行く。

 人は生まれながら完全な幸福を求めている。その幸福がどこにあるかわからないので、勝手に見当をつけて探しに出る。ある者はその幸福は財産と関係があると思って金をためる。ある者は権力に結びついていると考えて立身出世を図る。あるいは学問知識によって見いだせると判断して大学の研究室に残る。そのほかいろいろある。私も若いころは体力をもって、地位のあがるにつれてその地位を利用して大いに幸福を追求した。大いに発展したほうだったから、大抵よさそうな部門には顔を出したものだ。そうして、結局、完全な幸福を見つけなかった。そうこうしているうちに原子爆弾を受け、初めて完全な幸福を手に入れるためには宗教によるほかはないことを知った。完全な幸福は神と一致することであった。―― 私は今幸福である。そして二人のわが子も、この心境をもつように祈っている。
(中略)
 孤児としてこの子がたどる肉体の道は苦難にみちている。神と一致してこの子が進む霊魂の道は幸福にみちている。その幼い肉身がどんなに虐げられ、さげすまれ、辱められ、痛めつけられようとも、霊魂は神の愛に直接結びつけられておるのだから、平安であり幸福である。

 イエズスは山上の垂訓でこう言った。
「さいわいなるかな泣く人、彼らは慰めらるべければなり」
―― 泣け!わが子。

来なさい。そうすればわかります。2009年11月21日 10時51分

 山口県の徳山で、今日から3日間の日程で「周南映画祭」が開かれます。この機会に、最近、映画館から遠ざかっている地元の方々に、ぜひ大きなスクリーンで観る映画の良さを味わっていただきたく願っています。徳山教会に派遣されているインターンの神学生にも、この映画祭のことを一言話しておきました。

 映画の醍醐味は家庭の小さな画面ではなかなか分かりません。

 「映画館に来なさい。そうすればわかります。」
 映画館に足を運ばなければ、映画の本当の良さが分かりません。

 教会も同じです。イエス・キリストについての表面的な知識は教会に行かなくても学べますが、キリストの心は教会に行かなければ、分かりません。

 もうすぐクリスマスのアドベント(待降節)に入ります。深川教会の教会学校の子どもと父母向けの冊子『インマヌエル・ラムズ』の12月号のメッセージを書きましたので、下に載せます。

インマヌエル ラムズ
No.260 2009年11月29日発行

― 今月のみことば ―
 イエスは彼らに言われた。
 「来なさい。そうすればわかります。」
  (ヨハネ1:39)

 教会では、きょうからアドベントの期間に入りました。これからクリスマスまでの間、イエスさまがどうして、お生まれになったのかを、いっしょに学び、考えましょう。一ヶ月近くもアドベントの期間があるのは、私たちにとってイエスさまがお生まれになったことが、それほど大切なことだからです。クリスマスの日に学ぶだけでは、その大切さがわかりません。

 イエスさまは、どのようなお方でしょうか。どうしてお生まれになったのでしょうか。イエスさまは私たちに、「来なさい。そうすればわかります。」と、おっしゃってくださっています。

 「イエスさまのことは、よくわかっているから、もうこれ以上学ばなくてもいい!」と思っているお友だちはいませんか?イエスさまのことが全部わかっている人なんて、だれもいません。イエスさまのことは、学べば学ぶほど新しいことがわかります。そして、わかればわかるほど、めぐみをたくさんいただけます。

 イエスさまは私たち全員に、「来なさい。そうすればわかります。」と、おっしゃっています。このアドベントの期間、イエスさまのことが、もっともっとわかるようになりましょう。
(S. KOJIMA)