ヨハネの福音書の驚くべき構造2010年01月02日 10時41分


 新年あけましておめでとうございます。
 元旦の昨日、下記タイトルで小論を書きましたので、掲載します。
 よろしくお願い致します。

                               2010年1月1日
         ヨハネの福音書の驚くべき構造
                                S. KOJIMA

1.聖霊の時代を描きにくい福音書
 ジョン・オズワルトは著書『「聖き」を生きる人々』(原題 ”Called To Be Holy” 1999)の中で、「ヨハネの福音書が他の福音書に書かれてあることに触れる場合、これは特に重要なことであると思って間違いありません。」(p.128)と述べている。その上で彼は、バプテスマのヨハネが「自分のあとから来る救い主は聖霊によってバプテスマを授ける」と語ったことが四つの福音書の全てに書かれていることを挙げ(マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33)、イエスがこの世に来られた最終的な目的は人々に聖霊を与えるためであったとしている。オズワルトはさらに、この目的について、「聖霊が住まうための宮をきよめるために贖いは絶対に必要でしたが、犠牲それ自体が目的ではなく、むしろ、より偉大な目的のための手段です。その目的とは、人が神ご自身によって満たされ、神の聖い歩みを進みことができるようにするという、旧約聖書の信仰者たちが一日千秋の思いで待ち望み続けてきたことです。」と述べている。
 人々は、この聖霊の働きについて、もっと多くのことを知る必要があった。しかし困ったことに、イエスの生涯を記した福音書は、この聖霊の素晴らしい働きを生き生きと描くには甚だ不都合であった。なぜなら、聖霊が人々に注がれたのは、イエスが天に上げられ、地上にいなくなった後のことだったからである。それゆえマタイもマルコもこの出来事には触れず、ルカも福音書の中には記さず、「使徒の働き」という別の書物に記している。

2.ヨハネの福音書の巧妙な仕掛け
 ところが第四福音書の記者ヨハネは驚くべき手法で、この聖霊の重要な働きを巧みに描き込んでいる。その手法とは、復活前のイエスの時代の出来事の中に、復活後の聖霊の時代の出来事を忍び込ませて両者を絡める、という手法である。一例を挙げれば、ヨハネ2章13~16節の「宮きよめ」の出来事では、復活前のイエスの「実際の宮きよめ」の行動と、聖霊が住まうための復活後の「心の宮きよめ」の両方が描かれている。
 このように特異なヨハネの福音書の構造の概略を上図に示す。この図は1:1から21:25の最後まで読んだ後、1:35に戻り、11:44で終了することを示す。1:35~11:44の区間は2回通ることになる。
 21章はペテロが漁に出る場面や、パンと魚を食べる場面、炭火、3度同じことを繰り返すなど、20章までの出来事と関係する事柄が書かれている。そのため、読む者は最後(21:25)まで読み終わった後で再び1章から読み返したくなる。これは、ヨハネがその効果を狙って仕込んだ巧妙な仕掛けであると私は考える。
 そして2度目の1:35~11:44は復活したイエスと現代の我々とが出会って、イエスに招かれる場面から始まる。11:44のラザロの復活の場面は、イエスを信じる我々が終わりの日によみがえることを示し、福音書はここで終わるのである。

3.本構造の持つ卓越した特長
 以上のような構造を持つヨハネの福音書は、他の福音書には無いユニークな特長を持つ。
  A.神の永遠性が描き込まれている
  B.復活したイエスと現代の私との関係が示されている
 ヨハネの福音書には創造の初めから終わりの日まで、そして、さらにはその先までもが描かれていることが図から分かる。つまり、永遠の過去から永遠の未来までのことが描かれている。これは2000年前のある時期に起こったことしか書かれていないマタイ・マルコ・ルカの福音書と大きく異なる点である。
 永遠なる神は過去・現在・未来という概念は超越した存在である。しかし、時間に縛られている我々人間にはこのことは理解しづらい。ヨハネの福音書の理解を通じて我々は、神の永遠性についての理解を増し加えることができるであろう。それは、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ること(エペソ3:19)にもつながる。
 また、ヨハネの福音書には復活したイエスと我々一人一人(私)との関係が示されている。それゆえ、この関係はクリスチャンの数だけ存在する。この福音書の最後の21:25に「もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい」とあるのは、このことを指しているのかもしれない。
 この復活したイエスと私とが出会ってから授かる聖霊の恵みは時間順に書かれている。これについては、次節で述べる。

4.復活したイエスと出会った者が受ける聖霊の恵み
 ヨハネの福音書の記事は、2000年前のイエスが行動した時間順には書かれていない、ということが言われている。それは、復活後のイエスと我々(私)とが出会った時から受ける聖霊の恵みの順に書かれているからである。その恵みとは、概ね下記の通りである。
 ・復活したイエスの私個人への招き(1章)
 ・イエスの血(良いぶどう酒)による私の心の宮きよめ(2章)
 ・聖霊が私の心に入り、新しく生まれ変わる(3章)
 ・私が真の礼拝者となることを助けてくださる(4章)
 ・私が自立した信仰者となることを助けてくださる(5章)
 ・私を教会生活の恵みに与らせてくださる(6章)

5.不信仰な者への警告と偽預言者への警戒
 7章~10章は恵みではなく、不信仰な者への警告などが書かれている。
 ・イエスを信じない者への警告(7,8章)
 ・霊的な盲人への警告(9章)
 ・にせ預言者への警戒(10章)

6.終わりの日に涙を流すイエス
 ラザロの復活が描かれている11章は圧巻である。ラザロの復活が、終わりの日における私(イエスを信じる者)のよみがえりに置き換えられるとすれば、その裏ではイエスを信じない者たちが滅ぼされていることになる。11章には
 「イエスは、…、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」(33節)
 「イエスは涙を流された」(35節)
と、尋常ならぬイエスの姿が描かれている。永遠の神であるイエスの中では、ラザロの復活と終わりの日が同時進行していたと考えれば、「霊の憤り」とは終わりの日の不信仰者への神の怒り、そして「イエスの涙」は滅ぼされた者へのイエスの悲しみと解釈できるであろう。
 この福音書の記者ヨハネが、ヨハネの黙示録をも書いたことを考えれば、11章ではラザロの復活と終わりの日の裁きが同時進行していると考えても決して不思議ではない。ウイリアム・バークレーはヨハネの福音書の注解書の中で、このラザロの復活が他の3福音書に描かれていない問題の解釈に苦慮しているが、このラザロの復活の場面は終わりの日を示すのには必要不可欠であり、一方、他の3つの福音書では全体のバランスの関係から採用しなかったとの解釈もできるのではなかろうか。

7.おわりに
 以上のようなヨハネの福音書の大きな構造に関する解釈が注解書に書かれていないのは不思議なことである。それゆえに未だ神学生である私がこのような大胆な主張をすることに不安も覚えるが、私としては上記の解釈の細かい点については誤りがあったとしても、全体の構造の解釈に大きな誤りはないのではないかと思っている。
 この小論を読んだ方からコメントをいただければ幸いです。

風はおのが好むところに吹く2010年01月07日 06時08分


 一昨年の秋、私が神学校に正式に入学する直前のことですが、『風はおのが好むところに吹く』という小冊子を、この冊子を編集した方からいただきました。「タイトルはヨハネ伝3章8節からとった」と編集後記にありました。
 この時以来、私はヨハネの福音書3章8節が何を意味するのかを、折にふれて考えるようになりました。ヨハネ3:8は文語訳ですと「風はおのが…」ですが、新改訳第3版ですと下記になります。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊(みたま=聖霊)によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 ギリシャ語でもヘブル語でも、「風」と「霊」は同じ単語が使われています。ですから、紀元前の人々が風と霊を似たものとして見ていた、ということまでは分かります。しかし、どこがどう似ているのか、ということが私には、なかなか分かりませんでした。注解書を読んでも、なかなか納得できる解説はありませんでした。
 ところが、2,3日前、この聖句の意味するところを再び考え始めた時、大きなヒントが与えられました。
 それは、風が移動する様子ではなく、【音】に注目すべきではないか、ということです。このヒントを基に、さらに思い巡らしを続けました。そして下記のような結論を得ました。

 風そのものには【音】はありません。風が音を出すのは、風が空気の振動を誘発するからです。空気の振動が発生するメカニズムは複数あると思いますが、最も単純なのは物体の振動です。例えば声です。声(有声音)は肺からの呼気が声帯を振動させて音になります。
 御霊(=聖霊)の風が吹くとき、神を信じる者の心(魂)は歓喜で震えます。私たちは、素晴らしい感動を味わうことができます。しかし、神を信じない者の心は震えません。
 聖霊の風は絶えず吹いています。多くの場合は、そよ風(やさしい風)であり、稀に激しく吹く時(リバイバル)もあります。そうして聖霊はかたくなな人の心を部分的にも揺らし、それに気付いた者には少しずつそのかたくなさを溶かしていってくれます。そうして心全体が聖霊の風により振動する時、素晴らしい歓喜が訪れます。
 ヨハネの福音書には、読者が聖霊の風を感じることができるように仕込まれた仕掛けが、あちこちにあります。

 ヨハネの福音書3章8節は、そのことを暗に示しています。

 この福音書は本当に深いです。私は益々この福音書の世界に引き込まれていっています ^^

ハートのタネはどれ?2010年01月09日 23時00分

クイズです。
下の①~③のうち、ハートのタネはどれでしょう?
教会の子ども向けのクイズですが、簡単過ぎますかね?



 今夜は劇団巌流第二級の東京支部の新年会だそうですが、私は明日の教会の子供向けの話の準備をしていました ^^
 昨年は新年会に出ている仲間がうらやましくてうらやましくて悶々としていましたが、今年はヨハネ効果で極めて穏やかです ^^

 明日の教会の子ども向けの話は「種まきのたとえ」(マタイ13:1-23)です。それで、昨秋たくさん取れた風船かずらのハートの種を小さい袋に入れて、子どもたちに「お年玉」と言ってあげることにしました。



 大量のタネ(あまりに多いので一部を収穫しただけでしたが)をどうしようかと思っていましたが、ちょうど良い使い道があって感謝でした。



 ちなみに、「種まきのたとえ」とは、マタイだけでなくマルコ4:3-20とルカ8:5-15にも出て来る有名なたとえ話で、神のことばが種にたとえられています。神のことばを受け入れる心が良い土壌に例えられ、神のことばが根付かない心が悪い土地に例えられています。

映画の「恵みの座」とヨハネのそれ2010年01月13日 15時30分

 映画のエキストラの醍醐味の一つは、映画の撮影現場を内側から見学できることです。撮影現場の見学は外側からでも可能ですが、遠巻きにしか見ることができません。しかし、エキストラになると監督さんが俳優さんに演技指導している様子なども、すぐ近くから見ることができます。現場の息づかいを肌で感じることができます。この恵まれたポジションは映画の「恵みの座」と言えるでしょう。

 さて、「ヨハネの福音書」には、これ以上に素晴らしい「恵みの座」が用意されていることに、最近になって気付きました。
 ヨハネの福音書には、使徒ヨハネの名前は登場しません。従って、表面上は使徒ヨハネがどの場面にいるのか我々には分かりません。しかし、最初にイエスに出会った二人の弟子(1章35節)のうちの一人はヨハネであり、捕らえられたイエスの様子を見にペテロと共に大祭司の中庭に入ったもう一人の弟子(18章15節)もヨハネであろうことは我々にも想像がつきます。

 なぜヨハネは福音書の中で自らの居場所を明らかにしていないのでしょうか?

 それは、私たちにその居場所を提供するためだと私は考えます。

 ヨハネが私たちに居場所を提供してくれているおかげで、私たちは福音書の登場人物たちと同じ場の中に身を置くことができ、彼らの息づかいを肌で感じることができるのです。
 そして、13章以降では、な!な!なんと、ヨハネは「イエスが愛しておられた者」(13:23、19:26、20:2、21:7、21:20)という最上級の「恵みの座」を私たちに提供してくれています。

 何という素晴らしい恵みでしょうか。
 イエスはこれほどまでに私たちを愛してくださり、近くにいてくださるのです。

 ヨハネは我々読者にここまで感じ取ってほしいと思っているのではないでしょうか。

「桜の国」からの平和のメッセージ2010年01月16日 10時42分

「Peace be with you!(NIV)」
「あなたがたに平和があるように(新共同訳)」
「平安があなたがたにあるように(新改訳)」
(ヨハネ20:19,21,26)

「イエスの愛されたあの弟子がぺテロに言った。『主です。』」
(ヨハネ21:7)

 年末から年始にかけて、新約聖書の「ヨハネの福音書」について従来にはない新しい解釈が与えられるという、圧倒的な恵みを神様からいただきました。
 なぜ今、私に与えられたのか?このことを、恐れと畏れの両方をもって真剣に考えるとき、必然的に神様から私への召命(伝道者としての使命を与えられたこと)に立ち返らなければなりません。
 私の召命の御言葉はイザヤ52:7です。映画『夕凪の街 桜の国』の撮影にエキストラとして参加した翌日の2006年8月15日、広島平和公園内のベンチで「私を平和のために用いてください。」という長い祈りを捧げたことに神様が応えてくださり、2008年4月19日の早朝に与えられた御言葉です。

 「良い知らせを伝える者の足は 山々の上にあって、
 なんと美しいことよ。
 平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、
 救いを告げ知らせ、
 『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」
 (イザヤ52:7)

 この、私が「平和を告げ知らせ」る使命をいただいていることと、今回の「ヨハネの福音書」の新解釈のこととを合わせ考えるとき、以下のように考えるべきと思いました。
 私たちは「ヨハネの福音書」を通じて神様が私たちに伝えたいことを、もしかしたら十分にとらえきれていないのではないか。この福音書のことを考えるとき、私たちは1:1、1:5、1:14、3:16などにあまりにとらわれ過ぎてはいないだろうか。これらは確かに素晴らしい聖句ですが、もっと重要なメッセージがあるのではないか。例えば、冒頭に引用したヨハネ20:19,21,26です。

「Peace be with you!(NIV)」
「あなたがたに平和があるように(新共同訳)」
「平安があなたがたにあるように(新改訳)」

 イエス・キリストはこの御言葉を、【その場にいた弟子全員に3回も】おっしゃっています。これは、本当に重要な御言葉だととらえるべきです。このことが今、私に示されたということは、イエス様は、ヒロシマ・ナガサキという被爆地を持つ「桜の国」から、平和の貴さを、この御言葉を通してもっともっと訴えていくように私たちを促しているのだと思います。
 私たちは、イエス・キリストが私たちに向けておっしゃったことをとらえ損ねないようにしなければなりません。そのために、イエス様の最も近くにいた使徒ヨハネは自分の名前をこの福音書に敢えて出さず、私たちにその居場所を提供してくれました。1:35でアンデレと共にいた弟子はヨハネでしたが、敢えて名前を出さないでいてくれたために、私たちはその場にいてイエス様の招きを受けたように感じることができるのです。
 そして、愛された者としてイエス様の一番近くにいる私たちが、冒頭に挙げたもう一つの御言葉

「イエスの愛されたあの弟子がぺテロに言った。『主です。』」
(ヨハネ21:7)

のように、まだイエス様の存在に気づいていない人々に、それを教えて差し上げる役割が与えられているのだと思います。

 「ヨハネの福音書」の新しい解釈について1月14日の男子寮での晩の祈祷会で話しました。その時の全文原稿を下に貼り付けます。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。


 ジョン・オズワルト先生は著書『「聖き」を生きる人々』の中で、「ヨハネの福音書が他の福音書に書かれてあることに触れる場合、これは特に重要なことであると思って間違いありません。」と述べています。その上で先生は、バプテスマのヨハネが「自分は水でバプテスマを授けるが、自分のあとから来る救い主は聖霊によってバプテスマを授ける」と語ったことが四つの福音書の全てに書かれていることを挙げ、イエスがこの世に来られた最終的な目的は人々に聖霊を与えるためであったとしています。オズワルト先生はさらに、この目的について、

「聖霊が住まうための宮をきよめるために贖いは絶対に必要でしたが、犠牲それ自体が目的ではなく、むしろ、より偉大な目的のための手段です。その目的とは、人が神ご自身によって満たされ、神の聖い歩みを進みことができるようにするという、旧約聖書の信仰者たちが一日千秋の思いで待ち望み続けてきたことです。」

と述べています。
 したがって、第四福音書であるヨハネの福音書の第一章に、このバプテスマのヨハネの証言が書かれているということは、この書は、イエスの働きと共に、聖霊の働きについても書くことが重要な目的と考えてよいと思います。
 しかし困ったことに、イエスの生涯を記した福音書は、この聖霊の素晴らしい働きを生き生きと描くには甚だ不都合でした。なぜなら、聖霊が人々に注がれたのは、イエスが天に上げられ、地上にいなくなった後のことだったからです。それゆえマタイもマルコもこの出来事には触れず、ルカも福音書の中には記さず、「使徒の働き」という別の書物に記しています。
 ですから、私たちは「使徒の働き」を読めば、ペテロやパウロの働きを通じて聖霊の働きを見ることができます。しかし、これにも問題があります。ペテロやパウロの働きを通して私たちは聖霊の働きを知ることができるますが、それはあくまでペテロやパウロのことであり、私たちがそれを共有するのは、なかなかに難しいことです。
 ところが、ヨハネは驚くべき手法を使って、イエスの働きと聖霊の働きの両方を福音書の中に描き込み、しかも、我々もその聖霊の働きの恵みを共有できるようにしました。
 いいでしょうか、ここは重要なので、もう一度言わせていただきます。
 ルカはイエスの働きと聖霊の働きを同時に書くことはできなかったので、「使徒の働き」という別の書を書いて、聖霊の働きは別に書きました。しかし、その聖霊の働きはペテロやパウロに対するものであるので、我々が共有するのはなかなか難しいことです。出来事を頭で理解することはできても、それを読んで我々に聖霊が働くということは難しいと思います。
 ところが、ヨハネは驚くべき手法を使って、イエスの働きと聖霊の働きの両方を福音書の中に描き込み、しかも、我々もその聖霊の働きの恵みを共有できるようにしました。
 その驚くべき手法というのは、最後の21章まで読んだら、もう一度、一章に戻って読むような構造にしてある、というものです。
そして、2回目に読む時に、読者に聖霊が働きやすいような環境を作っています。
 聖霊はイエスを信じなければ働きませんが、100%信じなければ働かないというわけではないと思います。少し信じれば、少し働いてくださいます。それにより、もう少し信じることができます。そしてそのことにより、さらに聖霊が働いてくださいます。そのような関係になっていると思います。その両者が瞬時的に進む人もいれば、極めてゆっくりの人もいると思いますが、そういうものだと思います。
ヨハネ20章の最後の31節に、

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とあります。

 前も言いましたが、このヨハネの福音書には「信じる」「信じた」「信じない」という言葉が100回近くも使われています。こうして、20章まで読み進めて来て、イエスのことを少し信じる気になった人がいたら、その人が2回目を読む時には、聖霊が少し働くようにしてあるんですね。その仕掛けが21章です。20章で一回終わっているのに、何で21章が付け加わっているか、それは、読者にもう一度一章から読んでもらいたいからです。
 21章にはペテロが漁に出た場面とか、パンと魚とか、炭火とか、3度同じことを繰り返すこととか、イエスと弟子が出会ってからあった出来事を思い起こすような書き方になっています。そうすると、もう一回始めから読みたくなるんですね。皆が皆そうなるわけではないと思いますが、一部でもそういう人がいれば感謝なことです。
 そうして一章に戻ります。1節から読んでもよいと思いますが、私は35節からが良いと思います。イエスと弟子たちとが最初に出会う場面です。この時、私たち自身が、復活したイエスから直接声を掛けられるというわけです。

「あなたがたは何を求めているのですか。」
「来なさい。そうすればわかります。」

 実際、私はイエス様に直接声を掛けていただいているような気になりました。そして、驚くべきことに、ここにも巧妙な仕掛けが仕込んであるんですね。
 35節にふたりの弟子がいたことが書いてあって、「そのうちの一人はアンデレであった」と40節にあります。もう一人はヨハネであったと思われますが、ヨハネはそれを敢えて書いていません。
 どうしてでしょうか。
 それは、私たちに居場所を提供するためです。
 もし「二人の弟子はアンデレとヨハネであった」と書いてあったら、私たちは「使徒の働き」のペテロやパウロを見るように、聖霊の働きを共有できなくなってしまいます。それゆえ、ヨハネは私たちのために場所を空けてくれた、というわけです。
 このように、ヨハネの福音書の前半は、復活前のイエスの時代と、復活後の聖霊の時代の出来事が絡み合いながら進行していくという面白い構造になっています。
 例えば、4章23節に「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」とありますね、しかし、厳密に言うと、サマリヤの女とイエス様が話をしていた時は、まだその時ではありませんでした。この時はまだ、聖霊が誰にでも注がれる時代にはなっていませんでした。イエス様が十字架に掛かる前だからです。しかし、この福音書を読んでいる我々にとっては、「今がその時」です。この福音書が書かれたのは、ペンテコステに弟子たちに聖霊が降った後のことですから、読者には聖霊が働くわけです。ヨハネはこのように、読む者に聖霊が働くことを願って書いたのだと私は思います。
 さて、この4章23節だけでも、ヨハネの福音書の前半が復活前のイエスと復活後のイエスの両方が書かれている構造になっているということをお分かりいただけると思いますが、私がこのような構造がこの福音書にはあると確信している最大の要因は、1章から6章までの出来事の配列にあります。
 1章でまず、復活のイエスに出会った者がイエスの招きに応じると、2章でイエスの血により罪がきよめられます。そうして3章で聖霊が入って新しく生まれ変わります。新しく生まれた者は4章で真の礼拝者になります。そして、5章は飛んで、6章で教会生活の恵みに与ります。このように、6章までは、イエスを信じて招きに応じた者が受ける恵みが、受ける恵みの順に書かれています。
 では、この2重構造がどこまで続くかというと、それは11章のラザロの復活までです。11章のラザロの復活は、終りの日の、私たちのよみがえりを示しています。6章までは恵みが書かれていますが、それ以降は一転してイエスを信じない者への警告が書かれていて、終末がヒタヒタと近づいていることを予感させます。そして10章でにせ預言者に警戒するよう説かれていて、11章の終りの日に至ります。このことは、後でもう少し詳しく述べることにして、1章から、もう一度見ていきたく思います。

 さきほど、ヨハネが我々のために、居場所を空けてくれたと言いましたね。私たちは、そのように、ヨハネの立ち位置から、この福音書に描かれている出来事を見ていけば良いわけです。皆さんは、私がこの神学院に入学する前には何本かの映画にエキストラ出演していたことをご存知だと思います。エキストラに参加していて何よりも楽しいことは、映画の撮影現場を内側から見学できることです。映画の撮影の見学は外側からでも出来ますが、遠巻きに見るよりも内側から見たほうが断然おもしろいです。監督さんが俳優さんに演技指導しているところなども、すぐ間近で見ることができて、まさに映画の製作現場の息づかいを肌で感じることができます。
 ヨハネが私たちのために用意してくれた場所も同じです。福音書の現場を外側から遠巻きに見るのではなく、ヨハネの立ち位置から、イエスと弟子たちの息づかいを感じることができるようにヨハネがわざわざ私たちのために場所を空けてくれました。

 さて聖書に戻って、1章の最後の51節

「天が開けて神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

は、イエスの再臨のことを示しています。「新実用聖書注解」のこの51節の解釈に苦慮している様子が興味深いです。この部分は再臨を示すようであるけれども、この福音書には再臨の場面の記述が他にないということで、ここだけ再臨の記述があることに注解者は違和感を覚えています。 しかし、再臨の場面は11章のラザロの復活の章にしっかりとあるんですね。このように、この福音書を2回目に読むときは、復活のイエスと私たちとの出会いが書かれているのだという目で読むと、次々と新しい発見があるので、本当に読んでいて面白いです。
 次に2章です。カナの婚礼の良いぶどう酒はイエスの血を示します。このことが、2章後半の宮きよめと続けて書いてあるということは、これは明らかにイエスの血による私たちの罪のきよめを意味しています。
ヨハネの手紙第一の1章7節に「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。福音書の記者とこの手紙の記者は同じですから、この2章はイエスの血による私たちの罪のきよめと考えて間違いありません。そうすると、2章1節の「それから三日目に」という記述もなかなか興味深いです。この三日目に至る前に、一章では29節と35節と43節に三回、「その翌日」と書いてあります。そうすると、この三日目というのは、バプテスマのヨハネがイエス様について言及してから6日目ということになります。6日目というと、安息日の前の日です。イエス様は安息日の前の日に十字架に掛かって血を流しました。この2章1節の「三日目」という記述には、その意味も込められているのではないかと私には思えます。
 さて3章です。この章は、イエス様の血によって罪がきよめられた後で、聖霊が人に注がれることによって新しく生まれることが書いてありますが、また、聖化の恵み、ホーリネスですね、についても書いてあります。
 このニコデモの箇所で大事な点は、新しく生まれるのは、「母の胎に入る」などという人の行動ではなく、神様が聖霊によって人を生まれ変わらせてくださる、ということだと思います。ニコデモのように知識のある人は、とかく自分の行動で何かを変えていこうとしますが、神様の側でそれをしてくださるのです。この、何でも自分で何とかしようとすることが、罪に支配されている、ということだと思います。
 そして、3章の後半のバプテスマのヨハネの記事は、とても興味深いものです。25節に「ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。」
とあります。このきよめはholinessではなくて、purificationのほうですが、バプテスマのヨハネの言ったことはホーリネスのことだと思います。まず、

29節「花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」

バプテスマのヨハネは神に遣わされた預言者ですから、イエスの復活前のこの時代にあっても、聖霊に満たされていました。そこで、ここには、聖霊に満たされている人の恵みが書いてあります。つまり喜びで満たされています。そして30節が非常に重要です。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

 これは、まさにきよめの教えだと思います。
 この1章から3章までに救いのプロセスが書かれています。イエスの招きに応じてイエスを信じて心を開くとイエスが罪からきよめてくださり、そこに聖霊が入って新しく生まれ、そのことによって自分の罪をより意識するようになり、聖化の道を歩むようになります。
 ここで興味深いのは、このプロセスの中に悔い改めが入っていないことです。私の場合もそうだったのですが、自分の罪に気づいていなくても、イエス様に心を開けば、聖霊が入ってくださって、きよめが始まり、そのことによって罪にも気づいていきます。ニコデモも自分中心の罪にこの段階ではまだ気づいていませんが、やがて自分の罪深さにも気づいていったと思います。だからこそ、7章の終わりでニコデモはイエス様を擁護し、19章の終わりでは十字架から降ろされたイエス様のために没薬を持ってきました。
 ヨハネの福音書は、とにかくイエス様を信じることの大切さをひたすら訴えているのだと思います。イエス様を信じれば、聖霊が働いて、自分の罪深さについても気づくようになるのだと、ここでは、示しているのだと私は解釈します。
 こうして、きよめられていくことで、4章で言う、真の礼拝者へと変えられていきます。
 ここまではイエス様と私たちとの個人的な関係でしたが、6章には教会生活の恵みが書かれています。個人で信仰を維持していくことは難しいことですから、教会が必要です。
 ところで、いま、5章を飛ばしたことに、お気づきになったことと思います。複数の注解書に書いてあることですが、多くの注解者が、5章と6章は入れ替えた方が前後のつながりが良くなると主張しているそうです。私もこの考えに賛成します。つまり5章と6章は入れ替えたほうがいいと思います。イエスの招きに応じることによって得られる恵みの流れが、このままだと5章で断ち切られますが、4章の後に6章が来ればきれいにつながりますし、それ以降の、イエスを信じない者への警告も5章が6章の後ろに来たほうが7章以降に、きれいにつながっていきます。
 ですから、ここでは4章で言う真の礼拝者へと変えられていくためには、6章の教会生活が必要だという流れでいきたいと思います。
 6章のどこが教会生活でしょうか。後半の「いのちのパン」は聖餐のパンを示しますから、明らかに教会との強い関連を示しますが、前半の5千人の給食もまた、教会を表わしていると思います。まず、6章10節にあるように、草の上に座らせたことは、詩篇23篇の緑の牧場を思い起こさせます。つまり、主は牧者です。また、マルコとルカには、この時、「百人、五十人と固まって席についた」(マルコ6:40、ルカ9:14)と記しています。この百人とか五十人は標準的な大きさの教会の建物に入る人数と考えることができます。また、「余ったパンで十二のかごがいっぱいに」なったことは、ペンテコステ以降の初代教会の時代に主が次々と教会を増やしたことを意味すると思います。
 次の「いのちのパン」の話は、会堂で話されたと、59節にあります。59節

「これは、イエスがカペナウムで教えられた時、会堂で話されたことである。」

とあります。この会堂で、ということから、6章は教会生活の恵みについて語られているのだと私は解釈します。

 ここまでが恵みです。
 しかし、6章の最後の部分で、多くの者たちがイエスから離れていきます。
66節「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」とあります。
この段階では人々はイエスのもとを去っただけで迫害まではありませんでしたが、次の5章でイエスが安息日にベテスダの池で病人を癒したことで、迫害が始まります。

16節「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。」とあります。

 こうして、5章、そして7章から10章はイエスを信じない者への警告が書かれ、霊的には非常に緊迫感が感じられます。特に10章はにせ預言者のことが書かれ、終末が近いことを予感させます。
10章12節にある「雇い人」が「にせ預言者」を示すと思います。

12節「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。」
13節「それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」

 こうして、終わりの日の前に、にせ預言者が現れ、いよいよ11章に向かいます。11章の直前の40節は、これまた興味深いです。
「そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。」
 イエス様はヨルダン川の向こう側に行かれました。そこは、バプテスマのヨハネがバプテスマを授けていた所とありますから、そこはイエス様が公生涯を始められた場所です。イエス様はそこから、ラザロを復活させるために再びヨルダン川を渡ってこちら側に来ました。つまり、これはイエスの再臨を意味しています。

 この11章には、ただならぬ雰囲気が充満しています。
33節「イエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」
「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」とあります。ここは終わりの日ですから、イエスを信じる者がよみがえる一方で、信じなかった者に対するさばきが裏で行われていることを示すと思います。そして、
35節「イエスは涙を流された」
 これを、皆さんは、どう解釈しますか。
私は、イエスを信じなかったために滅びた者たちを見た、イエスの悲しみの涙であると思います。

 そして、いよいよラザロの復活の場面に臨みます。41節でイエスは言います。
「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」
イエス様の願いとは、何だったのでしょうか。これ以前には書いてありません。しかし、この言葉が、イエスが復活した後の言葉とすれば、17章のいわゆる「大祭司の祈り」のことを指すと考えて良いのではないかと思います。
 そして、44節でラザロは復活します。
「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。ほどいてやって、帰らせなさい。」

 私は、ヨハネの福音書はここで終わると思います。
 一度、21章の最後まで行き、1章に戻り、復活のイエスと私たちとの出会いがあった後、聖霊の働きの恵みをいただき、最後は終わりの日のよみがえりがあって、ここで終わります。これ以上進むと、今度はまた十字架の受難に入って行きます。イエス・キリストの十字架は1度だけのこと(ヘブル9:28)ですから、ここで終わりです。

 しかし、それでは何となく、途中で終わってしまうような感じもありますね。それに、この福音書の記者のヨハネにしても読者にはもっともっと何回もグルグルとこの福音書を何度も何度も読んでほしいと願っているはずです。

 そこで、さらに何度も読む私たちのために、ヨハネは素晴らしいプレゼントを用意してくれていました。
それが、13章23節にあります。

「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。」

 1章の説明の時、私はヨハネが私たちのために居場所を用意してくれたと言いました。その私たちを、「イエスが愛しておられた」のです。イエス様は私たちを愛していてくださり、私たちはそのイエス様のすぐ右側の席に着いていて、イエス様の息づかいを感じることができるのです。素晴らしい恵みです。
 「イエスが愛しておられた者」と同様の表現は、あと19:26、20:2、21:7、21:20にも出てきます。

 最後に、これらを一緒にお読みして終わりたいと思います。これらに出てくる愛する弟子とは、皆、私たちのことです。その場にいる気持ちになって読んでみてください。

 まず、19章26節です。
「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方、そこに、あなたの息子がいます』と言われた。

 次に、20章2節
「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。『だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

 次は、21章7節。
「そこで、イエスが愛されたあの弟子がペテロに言った。『主です。』すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」

最後は、21章20節です。
「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、『主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。」

 ヨハネはこうして、復活したイエスと私たちとの交わりが、より濃いものとなるように、そして私たちに聖霊が豊かに働くことを願って、この福音書を記したのです。

賀川豊彦『死線を越えて』を読んで2010年01月20日 18時59分


 大正時代の大ベストセラー小説『死線を越えて』の復刻版が昨年出版されたとのことで、ずっと気になっていましたが、今週は少し時間がありましたので、昨日と今日とで一気に読みました。

 出版年の1920年の日本の人口が今の半分以下なのに、上中下の三巻本の総発行部数が400万部とのことですから、驚異の大ベストセラーです。

 この作品は若き日に神戸の貧民窟(スラム街)に身を投じた作者の自伝的小説です。山折哲雄氏がこの復刻版に寄せた推薦文には、

「賀川がスラム街に入ったころ(中略)、貧富の差ははなはだしく、貧民階層の不満が世の中を覆っていた。そのような時代に、スラム街における愛と献身の物語が文字どおり彗星のように登場したのだといっていいだろう。キリスト教のヒューマニズムが多くの人びとの心を惹きつけ、たちまち広い層に浸透していったのである。
 その当時の社会状況が今日の日本の姿に重なって映らないであろうか。(後略)」 とあります。

 主人公が身を投じたスラム街の住人は、善人もいますが、多くはドスを見せながら金をせびる前科者たちや売春婦たち、それに乞食たちです。このような人たちが狭く汚い場所に密集して住んでいます。

 このスラム街は、外の世界と比べると全くヒドイ環境ですが、一歩引いてもう少し広い目で見るとき、実はこのスラム街は私たちが住んでいる外の世界がギュッと濃縮されているだけであって、私たちもここと変わりない汚れた世界に住んでいるのだ、ということに気付きます。

 この本を通して、このことに気付いたことは感謝でした。なぜなら、キリスト教で言うところの【罪】に、なぜ人はなかなか気付かないか、ということが分かったからです。

 つまり、こういうことです。

 キリスト教では、人の罪深さを強調しますが、私たちが住んでいる世界がそもそも罪で汚れていて、私たちは生まれた時からそこに住んでいるので、自分がその罪に染まっていることに気付きにくいのだ、ということです。

 ですから教会では、人に「あなたは罪人です」という前に、もっとこの世の罪のことを説くべきであろうと思いました。私もそのように教わっていれば、もっと早くに気付いていたかもしれません。

 イエス・キリストは、罪にまみれたこの世から私たちを救い出すために、神であるにもかかわらず、人となってこの世に来てくださいました。
そして『死線を越えて』は、さまざまな経験を経て、次第にイエス・キリストに似た者へと変えられていった者の物語です。

 『死線を越えて』は現代においても、ぜひ多くの人々に読んでもらいたい本だと思いました。

ヨハネの四重奏曲2010年01月23日 15時49分


 1月31日(日)の深川教会の礼拝説教は私が担当します。
 「ヨハネの四重奏曲」というタイトルで準備中です。

 年賀状でご案内した時は「時をかける使徒ヨハネ」というタイトルでした。時間の流れの中を過去へ未来へ自由に駆け巡るヨハネの福音書の面白さを味わっていただきたくて、このようなタイトルを考えましたが、限られた時間の中では時間旅行のスケジュールが厳しく、置いてきぼりになって、時の迷子になってしまう方がいるかもしれない ^^ と思い、変更することにしました。

 「ヨハネの四重奏曲」では、ヨハネの福音書を通じて三位一体の神の恵み、特に聖霊の恵みを感じていただけたらと願っています。
 お時間がありましたら、ぜひ深川教会へお出かけください。

 【2010年1月31日(日)の礼拝のご案内】

 場所:インマヌエル深川キリスト教会
 住所:江東区住吉2-27-1
 (地下鉄・半蔵門線、都営新宿線・住吉駅A4出口徒歩2分)
 時間:午前10時~11時20分
 説教題:「ヨハネの四重奏曲」(予定)
 聖書箇所:新約聖書・ヨハネの福音書より