信仰のチャレンジ ― 2009年11月12日 22時35分
ジョン・オズワルト先生が講師を務めた3日間のセミナーを終えて神学院に戻った今の私の心にあるのは、次の御言葉です。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
最初の文は新約聖書のヨハネ4:24(11月7日の記事)、そして後の文はローマ人への手紙12:1からです。
「供え物」は日本の神道や仏教でもしますし、キリスト教の起源のユダヤ教においては、いけにえの動物が非常に重要な供え物です。しかし、キリスト教においては供え物は必要ではありません。イエス・キリストが十字架上で犠牲のいけにえとなってくださったからです。このことを、ただ信じさえすれば、神様から豊かな恵みが注がれます。
この、信じさえすれば良い、供え物は必要ないということを前提とした上で、パウロは上記ローマ12:1で、我々の「からだ」を供え物としてささげなさいと書いています。
何と大胆な言葉でしょうか。
神様に捧げる供え物は、聖いものでなければなりません。きよくないものを捧げることは、神様を冒涜することになります。ですから、パウロは我々に聖い者になり、自身をささげなさいと書いています。
そんな聖い者になれるはずがない、と大抵の者は思います。私もそう思います。しかし、オズワルト先生は、聖霊の力を信じれば、聖霊なる神が私たちを聖めてくださると説きました。私自身がどんなに頑張っても無理なことでも、聖霊の力を信じれば、それは可能だと言います。
私の中には悪ぶりたい思いが未だに残っており、きよくなることへの抵抗感が今なお残っていることを告白しなければなりません。しかし、聖くなることに抵抗することは、聖霊に抵抗することと同じことです。
私は聖霊に抵抗するわけにはいきません。
私は降参しなければなりません。きよくなることへの抵抗感を捨て去らなければなりません。聖霊の力を信じ、全てをゆだねなければなりません。
昨晩、私は敗北感にまみれていました。しかし、新たな一歩を踏み出さなければなりません。
これは、私にとっては大きなチャレンジです。
もう後へは引けません。前に進むのみです。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
最初の文は新約聖書のヨハネ4:24(11月7日の記事)、そして後の文はローマ人への手紙12:1からです。
「供え物」は日本の神道や仏教でもしますし、キリスト教の起源のユダヤ教においては、いけにえの動物が非常に重要な供え物です。しかし、キリスト教においては供え物は必要ではありません。イエス・キリストが十字架上で犠牲のいけにえとなってくださったからです。このことを、ただ信じさえすれば、神様から豊かな恵みが注がれます。
この、信じさえすれば良い、供え物は必要ないということを前提とした上で、パウロは上記ローマ12:1で、我々の「からだ」を供え物としてささげなさいと書いています。
何と大胆な言葉でしょうか。
神様に捧げる供え物は、聖いものでなければなりません。きよくないものを捧げることは、神様を冒涜することになります。ですから、パウロは我々に聖い者になり、自身をささげなさいと書いています。
そんな聖い者になれるはずがない、と大抵の者は思います。私もそう思います。しかし、オズワルト先生は、聖霊の力を信じれば、聖霊なる神が私たちを聖めてくださると説きました。私自身がどんなに頑張っても無理なことでも、聖霊の力を信じれば、それは可能だと言います。
私の中には悪ぶりたい思いが未だに残っており、きよくなることへの抵抗感が今なお残っていることを告白しなければなりません。しかし、聖くなることに抵抗することは、聖霊に抵抗することと同じことです。
私は聖霊に抵抗するわけにはいきません。
私は降参しなければなりません。きよくなることへの抵抗感を捨て去らなければなりません。聖霊の力を信じ、全てをゆだねなければなりません。
昨晩、私は敗北感にまみれていました。しかし、新たな一歩を踏み出さなければなりません。
これは、私にとっては大きなチャレンジです。
もう後へは引けません。前に進むのみです。
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