『この子を残して』2009年11月19日 16時55分

【ブックカバー裏表紙の本書の紹介文】
 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!(本文から)
 長崎で原爆にあい、放射線を浴びて不治の原子病患者として床にふす父親と、二人の幼い孤児予定者。この三人が生きてゆく正しい道はどこにあるのか。父親が考えたこと、子供たちがしたこと、子供たちに話したいことを、あとで読んでもらうために書きに書いた父親の遺言書ともいえる感動の書。


 永井隆氏の著作『長崎の鐘』、『この子を残して』、『ロザリオの鎖』が届いたので、いま読んでいます。ヒロシマにばかり目が向いていて、これらナガサキの名著のことを今まで知らずにいたことが悔やまれます。
 永井氏はカトリックの信仰を持った放射線医学が専門の科学者(医学博士)です。『ロザリオの鎖』に収められている「科学者の信仰」という一文の中の、氏の「真理とは人間の創作以前のものである。(中略)正直な謙虚な自然科学者に神を信仰する者が多く、実験という面倒な仕事をせずにただ多くの報告を読んでいる文科系の人に唯物無神論者が多い」という意見には深くうなずきます。
 氏の著作を読んだ感想を、これから少しずつ書いていけたらと思っています。とりあえず、今日は『この子を残して』に収められている「完全な幸福」という文の一部を引用するにとどめます。

「完全な幸福」

 真実孤児の道はさみしい。孤児の真実の道は苦しい。この道を行く人は辛く、悲しく、難しい。この道は暗く、細く、けわしく、石多く、花少なく、窮して通じ、通ずれば窮す。路傍に立つ者は枯木のごとく冷たく、頼りなく、そっけなく、しばしば枝を張り出して妨げる。……手をつなぎゆく幼い二人、兄は十四、妹は八つ。

 信仰によって、そのさみしさが消えるのではない。苦しみがなくなるのでもない。辛さ、悲しさが除かれるのでもない。さみしさはいつまでも続く。苦しさはどこまでも苦しい。辛さ、悲しさはやっぱり辛さ、悲しさである。宗教はアヘンではない。肉体的な苦痛や、人間感情の悲哀を消してくれるのが信仰の目的ではない。信心のご利益ではない。神は愛であるから、苦しむ人間の苦しみを消してくださることはある。医学の力でなおらぬ病気が祈りによってたちまちなおった奇跡はたくさんある。それは人間に神の存在を認めさせるために、神が愛であることを知らせるために、時々神が行いなさる。ちょっとした秩序の変更であろう。地上的な苦しみや悩みを消していただくために神を信じるのは未熟な信仰である。腹が痛いからモルヒネを注射してください、と医者に頼むような気持ちで、信仰生活に入ってはいけない。真の信仰生活はまだまだ高いところを行く。

 人は生まれながら完全な幸福を求めている。その幸福がどこにあるかわからないので、勝手に見当をつけて探しに出る。ある者はその幸福は財産と関係があると思って金をためる。ある者は権力に結びついていると考えて立身出世を図る。あるいは学問知識によって見いだせると判断して大学の研究室に残る。そのほかいろいろある。私も若いころは体力をもって、地位のあがるにつれてその地位を利用して大いに幸福を追求した。大いに発展したほうだったから、大抵よさそうな部門には顔を出したものだ。そうして、結局、完全な幸福を見つけなかった。そうこうしているうちに原子爆弾を受け、初めて完全な幸福を手に入れるためには宗教によるほかはないことを知った。完全な幸福は神と一致することであった。―― 私は今幸福である。そして二人のわが子も、この心境をもつように祈っている。
(中略)
 孤児としてこの子がたどる肉体の道は苦難にみちている。神と一致してこの子が進む霊魂の道は幸福にみちている。その幼い肉身がどんなに虐げられ、さげすまれ、辱められ、痛めつけられようとも、霊魂は神の愛に直接結びつけられておるのだから、平安であり幸福である。

 イエズスは山上の垂訓でこう言った。
「さいわいなるかな泣く人、彼らは慰めらるべければなり」
―― 泣け!わが子。