中心はここだ!2009年11月07日 11時37分

 これは全くの個人的な考えですが、旧約・新約を合わせて約2000ページある聖書全体の中心となる聖句は、新約聖書・ヨハネの福音書4章の下記2節であると考えるに至りました。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(23節)
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(24節)」(ヨハネの福音書4章23,24節)

 聖書66巻の中心が上記2節だとするのは随分と乱暴な話ですが、聖書を読んだことがない方に聖書の説明を簡単にする時には、重要な聖句を示すのは必要なことです。
 しかし、聖書は重要な聖句で満ち溢れています。そこで、人によって違ってかまわないので聖書全体の中心がどの聖句にあるかを考え、その説明をしたら良いと思ったのです。

 では、なぜ私がこの2節を聖書全体の中心と考えるかを説明します。

 まず、「しかし」の中に旧約聖書の全てが包含されています ^^;
 この聖句は、イエスがサマリヤ地方を旅していた時に、その土地の女に語った言葉ですが、その時イエスは旅の疲れで井戸のかたわらに座っていました。

 なぜイエスはそんなに疲れていたのか?

 イエスはサマリヤ地方で、旧約の時代のイスラエルの民の不信仰の末路を様々な形で見て嘆息し、疲れ果てたのではないか、私にはそのように思えます。
 イエスはこの井戸のある町に来る途中で、かつてシロの町があった辺りを通って来たと思われます。シロの町にはモーセの時代に作られた神の契約の箱がヨシュアの時代に運び込まれましたが、神の箱はサムエルの時代に運び出されて敵地を転々とします。

 このように信仰が薄かったゆえにシロはペリシテによって滅ぼされ、サマリヤもアッシリアによって滅ぼされました。また、神はエレミヤを通じ、シロの町の名をあげてエルサレムの不信仰に警告を発しましたが、そのエルサレムもバビロニアによって滅ぼされました。

 これらの出来事に共通していることは、イスラエルの民が神の箱や神殿という「入れ物」にこだわり、霊である神ご自身を礼拝していなかったということです。

 イエスの時代、民は相変わらず神殿という入れ物にこだわり、神から離れていました。
 それゆえ、イエスは上記23節で「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」と言いました。

 この節の「父」と「礼拝」も極めて重要です。イエスは父なる神の御子であり、神から離れていた民(私たちを含む)の罪を赦すため、父によってこの世に送られたのです。

 私たちは、なぜ父なる神を礼拝しなければならないのでしょうか?それは、聖書の一番始め、創世記1章に書かれている通り、神が天地を創造し、私たち人間もお造りになったからです。

 24節「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 この霊とまことによる礼拝ができず、入れ物や物質を礼拝して神から離れてしまっている私たちを救うために、イエス様はこの世に来てくださいました。

 もうすぐクリスマスです。今年のクリスマスはぜひ、このヨハネの福音書4章23節、24節のみことばを噛み締めたく思います。

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