静岡に来て1週間 ― 2009年07月20日 08時35分
神学院での寮生活とは何もかも違うので、ブログに何を書いたらいいか、と思っているうちに、静岡に来てから1週間たっちゃいました ^^
とりあえず、昨日、静岡教会での私の礼拝説教の原稿を載せます。
昨日は午前の礼拝後、静岡教会から総勢15名で沼津教会の伝道会に行きました。静岡教会の牧師先生は、この午後の沼津での伝道会の説教に集中するために、午前の礼拝の説教は私が担当しました。
「様々な姿で現れるイエス・キリスト」
聖書箇所:マタイの福音書25章31~40節
こんにちは。
神学生の小島です。
いつも神学生と神学院の働きのためにお祈りをどうもありがとうございます。
きょうは1年ぶりで皆さんと共に礼拝に出席できたことを、とてもうれしく思っています。
これから、9月の第一聖日の伝道礼拝の時まで、こちらで実習をさせていただきますので、どうかよろしくお願いいたします。
いま私が学んでいる聖宣神学院は、横浜市の緑区というところにあります。
周囲には、まだ自然がだいぶ残っていて、こちらに戻ってくる直前には、ヒグラシがカナカナカナカナと鳴いているのが聞こえました。
ヒグラシはご存知のように、木が生い茂って暗くなったような林の中でないといません。また、野鳥も、都会では見られない鳥がすぐ身近にいます。
一番感動したのは、ホトトギスが毎日のように「特許許可局」と鳴いていることで、あとコジュケイがチョット来い、チョット来いと春にはうるさく鳴いていました。
このような環境ですから、ウグイスももちろんいて、毎日、ホーホケキョと、きれいな声で鳴いています。
今は周辺の開発がどんどん進んでいて、高桑先生・春子先生がいらした頃とは、だいぶ違うということですが、まだまだ、そういう田舎風の雰囲気を残している、とても良いところです。
このような環境の中で、私は祈りと奉仕と学びの日々を過ごしています。この夏の静岡教会での奉仕では、きょうを含めて4回説教をする機会をいただいています。
この説教では、私が神学院に入る前には明確に気付いていなかったこと、そのことを皆さんと分かち合っていくことができたら、良いなあと思っています。それは、神学院に入る前は知らなかったこと、というよりは、何となく感じてはいたけど、はっきりと認識していなかったこと、それを、もう少しはっきりとした形でお伝えできたらと思っています。
きょうの説教の題目の「様々な姿で現れるイエス・キリスト」というのも、そのことの一つです。
きょうお読みしたマタイの福音書の箇所は、神学院に入る前からもよく知っていましたから、何となく、そうかなとは思っていましたが、でも私はどちらかと言えば、イエス・キリストと言えば西洋の絵画に出てくるようなお方、そんな風に型にハマッたイエス様の姿を、これまでは思い描いていたように思います。
それが、ある時から、イエス様っていろいろな姿で現れてくださっているのだな、ということが実感として分かるようになりました。
「ある時から」という、その出来事は今日のこの説教の後半でお証しさせていただきます。
神様は、いつも私たちと共にいてくださいます。信じていようが、いまいが、私たちと共にいてくださいます。
このことを、神様を信じている人はよく知っていますが、神様を信じない人には分かりません。そうすると、一つの疑問が生じます。神様を信じている人は、どのようにして神様の存在を感じることができたのでしょうか。
聖書があります。聖書を読めば、神様がいらっしゃるということを、知識としては得ることができます。
しかし、聖書を読んだだけで、神様が本当にいらっしゃるということを、実感することができるところまでいくでしょうか。
もうお分かりの方もいらっしゃると思いますが、神様を信じると、神様は、ただ単に共にいてくださるというだけでなく、私たちの内に住んでくださるようになります。
そうすると、私たちの言動、私たちが話すことや行うことに、神様が私たちの内におられるということの、証しが自然に表れるようになるんですね。
私たちの言動に、常にそれが表れるようになるというのは、なかなか難しいことです。
でも、人によっては、いつもいつもそれが表れていて、また、人によっては、時々、ちょっとだけ、表れる。
でもいずれにしても、神様が私たちの内にいてくださるという証しが表れます。まだ神様を知らない人は、それを見て、何となく神様の存在を感じるようになり、それが聖書を読むことで確信につながっていくようになる。そんなふうになっているのだと思います。
いま、神様と言いましたが、それは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは神様であると同時に、人でもある方です。
50%は神様で50%は人というのではなく、100%神様で、100%人である方です。だからこそ、イエス様は人の姿になって私たちの前に現れることができます。
いろいろな時に、いろいろな姿になって現れてくださいます。まだ神様を知らない人は、そのような人となったイエス様を見て、神様を感じることができるのです。
きょうの聖書箇所のマタイの福音書25章31節には、イエス・キリストが無力で弱い者の姿を通して現れているということが記されています。
順番に見ていきましょう。
31節「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴ってくるとき、人の子はその栄光の位に着きます。」
人の子とは、イエス様のことです。イエス様が最後の審判のために再び現れます。
32節「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け」
33節「羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」
イエス様は、我々全員を前に集めて、天国に入ることができる者と、そうでない者とに、より分けられます。右側に置かれた者たちが、天国に入ることができる者たちです。
34節「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
イエス様は、天国に入ることができる者たちに、その理由を告げます。
35節「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、」
36節「わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』」
イエス様はこうおっしゃいましたが、言われた人たちは、イエス様に直接これらのことをした覚えがないので、イエス様に尋ねます。
37節「すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ、いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。」
38節「いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。」
39節「また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
イエス様は答えます。
40節「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
イエス様は最も弱く小さく無力な者の姿で、この正しい人たちの前に現れていたのです。
マザー・テレサのことを、皆さんはご存知のことと思います。インドで貧しい人たちの最期を看取る奉仕をしていたマザー・テレサもこのマタイの25章40節を引用して、最も弱く無力な人たちの中にイエス・キリストの姿を見ていました。
この弱くて無力な人たちがイエス様であるということは、イエス様がどういうお方か、ということを理解するのに、非常に重要なことです。
そして、それは、私たち人間がどういう存在かということを理解する上でも、決定的に重要なことです。
どういうことかと言うと、イエス様は十字架に掛かって死にましたが、その時、イエス様は神から完全に切り離されて一人の人間になっていました。イエス様は十字架上で叫びます。「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」この絶望的な叫びをあげた時、イエス様は全く無力でした。
このことは、人間とは、本来、まったく弱くて無力な存在なのだということを教えてくれます。我々は、もともとは、全く弱い存在なのです。でも、私たちは一見したところでは、そんなに弱いようには見えませんね。
どうしてでしょうか。それは、神様が内に住んでいてくださるからです。神様が私たちを強めてくださっています。
それでは、神様を信じていなくて、神様が内に住んでいない人で、強く見える人たちは、何によって強められているのでしょうか。それは、プライドであったり、優越感であったり、虚栄心といったものです。そういう鎧や兜で身を固めていますから、一見強そうに見えます。
でも、実はそれは、もろく壊れやすいものです。そういう、もろく壊れやすいものを精神的な支えにして生きている人が、日本にはたくさんいます。そして、そのような見せかけの強さが壊れてしまって自信を失っている人たちが、たくさんいます。あるいは、そういう見せかけの強ささえ初めから持ち合わせておらずに、絶望しながら生きている人もたくさんいます。
しかし、イエス様を信じて、イエス様が内に住んでくださると、本当の強さを得ることができます。そして、その内に住んでいてくださるイエス様は私たちを通して外側に現れてくださいます。そのようにして、私たちは、まだイエス様を信じていない人たちにイエス様のことを知らせる助けとなることができます。
神学院に入る前の私のイエス観は、型通りのことの域を出ていなかったと思いますから、今話したことには、なかなか気付きませんでした。
しかし、今年の3月に神学院で、須郷さんと神様のおかげで大変大きな経験をさせていただき、私のイエス様の見方は大きく広がりました。
須郷さんというのは、先月の伝道会で、この教会で奉仕をされた須郷さんのことです。須郷さんは今年の3月まで神学院の神学生でした。
ただ、昨年は須郷さんは4年生でインターン実習の年でしたので、私が神学院に行き始めた6月には既にインターンに出ていて、今年の1月の後半に神学院に戻って来るまでは、ほとんど会うことはありませんでした。
しかし、1月の後半から3月中旬の卒業式の日までは須郷さんも男子寮で暮らしていましたから、2ヶ月弱の期間でしたが、一緒に寝泊りして同じ釜のご飯を食べながら、寮の早天の祈祷会や晩の祈祷会で須郷さんの説教を聞いたり、私の説教も聞いてもらうことができて、本当に良かったなあと思っています。
きのう、この説教の準備をしながら、先月の須郷さんのここでのコンサートのCDを聞いて、なんだかすごく懐かしくなりました。
須郷さんの男子寮での説教というのは、だいたいギターを持って何か歌いながらの説教だったんですね。2ヶ月弱の間に5回ぐらいは須郷さんの説教があったと思いますから、すごく贅沢な経験をさせてもらったなと思います。
さて、私がこれからお証しする大きな経験というのは、この男子寮での祈祷会ではなく、3月の卒業式の一週間前に神学院教会で持たれた、卒業生が企画した伝道会のことです。その伝道会は卒業生による賛美や、お証しや説教、また神学生全体による賛美などがあったのですが、もう一つ、卒業生による劇がありました。演じられたのは、トルストイ原作の「靴屋のマルチン」です。
20分ぐらいの短い劇でしたが、この劇の脚本を須郷さんが書き、主役のマルチンを須郷さんが演じました。そして、私もマルチンの友人役を演じさせてもらいました。
靴屋のマルチンというのは、ご存知の方も多いと思いますが、ご存知ない方のために簡単にご紹介すると、ある所に靴屋をしているマルチンという老人がいました。
このマルチンは一人寂しく暮らしていますが、ある時、そのマルチンにイエス様が声を掛けます。
「マルチン、マルチン、明日、私はあなたの所に行きます。待っていなさい。」
翌日、マルチンはイエス様が来られるのを楽しみにして、靴屋の仕事場で仕事をしながら窓の外を見ていました。冬の寒い日で、外には凍えている人たちがいました。
それは貧しい母親であったり、両親がいないみなし子であったり、雪かきをしている老人だったりしました。それらの人たちをマルチンは暖かい部屋の中に入れてもてなしてあげました。
そんな風にして一日が過ぎて、夜になってしまいました。ああ、イエス様はとうとう来なかったなあ、とマルチンががっかりしていると、イエス様が声を掛けます。
「きょう、私はあなたの所に行きましたよ。」と言い、きょうマルチンがもてなした貧しい母親の幻が現れ、「私だよ、マルチン」、と言います、次いでみなし子や、老人なども次々に現れ、「私だよ、マルチン」と言います。
こうしてマルチンはきょう一日イエス様が一緒にいてくださったことを知り、今までは人生に希望を持てずに寂しく暮らしていたのが、もっと明るく前向きに生きるようになる、というようなお話しです。
つまり、このお話しはきょうの聖書箇所のマタイ25章40節が基になっているものです。
この劇を神学院教会の3月の伝道会で行ったんですね。何度か練習をして、この劇の本番に臨みました。
最初に練習したのが、本番の日の確か5日前の夜でしたが、男子だけで男子寮の中で行いました。
女子も参加する劇なんですが、最初に男子だけでとりあえず、やってみましょう、という感じでしたから、私もとりあえずという感じで、あまり本気ではなく、かなりいい加減な気持ちで最初の練習に臨みました。
そうしたら、須郷さんは、最初からしっかり本気モードで、いきなり、すごい迫力で演技し始めたんですね。
私の役はマルチンの友人で、最初にマルチンの家へ行って、「お~い、マルチン、いるか~?」と言いながら勝手にマルチンの家に入っていってしまう、そういう役です。それに対してマルチンは友人をジロッとにらみます。
須郷さんが書いた脚本のマルチンは気難しい老人という設定だったので、私をジロッとにらんで、「何か用か。わしゃ、忙しいんだ。用があるなら、さっさと言ってくれ。」と、怒ったように言うんですね。
友人の私はそれにはお構いなく、明るい調子で
「お前も家にばかりいないで、これから一緒に出かけないか? 広場でダンスをするんだ。俺たちの古い踊りを教えてやろうぜ」
と言います。
それに対してまたマルチンがまた、気難しいことを言うという感じで劇が進むんですが、とにかく、その気難しいマルチンが、ものすごくおっかないんですね。
いつも優しい須郷さんが本気で怒っているような感じで、私は最初の練習の時、本当に恐ろしくなってしまいました。
それで、最初私は、どうせ素人の劇だからと思って、いい加減な気持ちでいたのですが、これは本気で取り組まなければと思い、須郷さんの演技指導と神様に全てをゆだねて一生懸命に練習をして本番の演技に臨みました。
そうしたところ、劇が終わってから、神学院教会の実に多くの人が私の演技を褒めてくださいました。1週間後、2週間後も、あの劇の演技は良かったですね、と教会員の方が言ってくださいました。
これは私にとって、本当に大きな出来事でした。私は型や枠にはめられるのが大嫌いで、自分らしくありたいと思うあまり、これまで人との間に知らず知らずのうちに壁を築いていたということに気付かされました。
今回の劇では私は須郷さんの演技指導と神様に全てをゆだねて演技をしました。そうすると、私が話しかけなくても、教会員の方のほうから私に「良かったですね」と話しかけてくださったのです。
それは教会員のお一人お一人を通じてイエス様が私に直接、「それでいいんだよ。そうやって自分らしさへのこだわりを捨てることで、かえって本来の自分の良さが現れるんだよ」と教えてくださったのだと思います。
こうして私は教会員のお一人お一人にイエス様の姿が見えるようになると共に、本当の自分らしさというものは、自分が何とかして作り上げていくものではなく、神様に全てをゆだねた時に、神様が引き出してくださるものだということを、知ることができました。
このことが分かってから、私は余計な力を抜くことができるようになり、本当に感謝な出来事でした。
そして、その翌月の4月のイースターの聖日には、私は、半年ぶりで母教会の高津教会に行き、教会員の方々といろいろと話をすることができましたが、その教会員の方々とのお交わりの中にイエス様を感じることができました。
それまで、神学院に入学する前には、私は高津教会の方々との間にも壁のようなものを作っていたと思いますから、その壁をイエス様が取り去ってくださり、本当に感謝だなあと思いました。
そして、4月の第4聖日からは、私は深川教会と高根教会へ行っています。ここで、多くの方々と新たに交わることができて、いろいろなことを学ばせていただいていますが、一番感謝なことは、それぞれの方々のお一人お一人の中にイエス様がいるんだということを学べているということです。
今週、久し振りでこの静岡教会に来て、そのことをまた学ばせていただいていますし、きょうの午後は沼津教会へ行くということですから、それもまた、楽しみなことです。
イエス様が内に住んでおられる兄弟姉妹の姿を見ることができるのは、私たちにとって本当に励みになります。
イエス様を信じるということは、信じようと思ってできることではなく、自分で何かをしようという思いを捨てて、イエス様にすべてをゆだねることです。
そうすると、イエス様は私たちのうちに入ってきてくださいます。
そういうふうに余計な力を抜いて、イエス様に入ってきていただくと、これまでに味わったことのない心の平安を得ることができます。
そしてさらに、私たちの内に入ってくださったイエス様は、今度は私たちの個性を引き出してくださいます。
イエス様を信じると、私たちは個性の無い者になるのではなく、逆にイエス様により個性を引き出されて生き生きとした者に変えられていきます。イエス様とは、そういうお方です。
ぜひ、もっともっと多くの方々に、このイエス様のすばらしい恵みを知り、味わっていただきたいと思います。
お祈りします。
とりあえず、昨日、静岡教会での私の礼拝説教の原稿を載せます。
昨日は午前の礼拝後、静岡教会から総勢15名で沼津教会の伝道会に行きました。静岡教会の牧師先生は、この午後の沼津での伝道会の説教に集中するために、午前の礼拝の説教は私が担当しました。
「様々な姿で現れるイエス・キリスト」
聖書箇所:マタイの福音書25章31~40節
こんにちは。
神学生の小島です。
いつも神学生と神学院の働きのためにお祈りをどうもありがとうございます。
きょうは1年ぶりで皆さんと共に礼拝に出席できたことを、とてもうれしく思っています。
これから、9月の第一聖日の伝道礼拝の時まで、こちらで実習をさせていただきますので、どうかよろしくお願いいたします。
いま私が学んでいる聖宣神学院は、横浜市の緑区というところにあります。
周囲には、まだ自然がだいぶ残っていて、こちらに戻ってくる直前には、ヒグラシがカナカナカナカナと鳴いているのが聞こえました。
ヒグラシはご存知のように、木が生い茂って暗くなったような林の中でないといません。また、野鳥も、都会では見られない鳥がすぐ身近にいます。
一番感動したのは、ホトトギスが毎日のように「特許許可局」と鳴いていることで、あとコジュケイがチョット来い、チョット来いと春にはうるさく鳴いていました。
このような環境ですから、ウグイスももちろんいて、毎日、ホーホケキョと、きれいな声で鳴いています。
今は周辺の開発がどんどん進んでいて、高桑先生・春子先生がいらした頃とは、だいぶ違うということですが、まだまだ、そういう田舎風の雰囲気を残している、とても良いところです。
このような環境の中で、私は祈りと奉仕と学びの日々を過ごしています。この夏の静岡教会での奉仕では、きょうを含めて4回説教をする機会をいただいています。
この説教では、私が神学院に入る前には明確に気付いていなかったこと、そのことを皆さんと分かち合っていくことができたら、良いなあと思っています。それは、神学院に入る前は知らなかったこと、というよりは、何となく感じてはいたけど、はっきりと認識していなかったこと、それを、もう少しはっきりとした形でお伝えできたらと思っています。
きょうの説教の題目の「様々な姿で現れるイエス・キリスト」というのも、そのことの一つです。
きょうお読みしたマタイの福音書の箇所は、神学院に入る前からもよく知っていましたから、何となく、そうかなとは思っていましたが、でも私はどちらかと言えば、イエス・キリストと言えば西洋の絵画に出てくるようなお方、そんな風に型にハマッたイエス様の姿を、これまでは思い描いていたように思います。
それが、ある時から、イエス様っていろいろな姿で現れてくださっているのだな、ということが実感として分かるようになりました。
「ある時から」という、その出来事は今日のこの説教の後半でお証しさせていただきます。
神様は、いつも私たちと共にいてくださいます。信じていようが、いまいが、私たちと共にいてくださいます。
このことを、神様を信じている人はよく知っていますが、神様を信じない人には分かりません。そうすると、一つの疑問が生じます。神様を信じている人は、どのようにして神様の存在を感じることができたのでしょうか。
聖書があります。聖書を読めば、神様がいらっしゃるということを、知識としては得ることができます。
しかし、聖書を読んだだけで、神様が本当にいらっしゃるということを、実感することができるところまでいくでしょうか。
もうお分かりの方もいらっしゃると思いますが、神様を信じると、神様は、ただ単に共にいてくださるというだけでなく、私たちの内に住んでくださるようになります。
そうすると、私たちの言動、私たちが話すことや行うことに、神様が私たちの内におられるということの、証しが自然に表れるようになるんですね。
私たちの言動に、常にそれが表れるようになるというのは、なかなか難しいことです。
でも、人によっては、いつもいつもそれが表れていて、また、人によっては、時々、ちょっとだけ、表れる。
でもいずれにしても、神様が私たちの内にいてくださるという証しが表れます。まだ神様を知らない人は、それを見て、何となく神様の存在を感じるようになり、それが聖書を読むことで確信につながっていくようになる。そんなふうになっているのだと思います。
いま、神様と言いましたが、それは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは神様であると同時に、人でもある方です。
50%は神様で50%は人というのではなく、100%神様で、100%人である方です。だからこそ、イエス様は人の姿になって私たちの前に現れることができます。
いろいろな時に、いろいろな姿になって現れてくださいます。まだ神様を知らない人は、そのような人となったイエス様を見て、神様を感じることができるのです。
きょうの聖書箇所のマタイの福音書25章31節には、イエス・キリストが無力で弱い者の姿を通して現れているということが記されています。
順番に見ていきましょう。
31節「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴ってくるとき、人の子はその栄光の位に着きます。」
人の子とは、イエス様のことです。イエス様が最後の審判のために再び現れます。
32節「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け」
33節「羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」
イエス様は、我々全員を前に集めて、天国に入ることができる者と、そうでない者とに、より分けられます。右側に置かれた者たちが、天国に入ることができる者たちです。
34節「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」
イエス様は、天国に入ることができる者たちに、その理由を告げます。
35節「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、」
36節「わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』」
イエス様はこうおっしゃいましたが、言われた人たちは、イエス様に直接これらのことをした覚えがないので、イエス様に尋ねます。
37節「すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ、いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。」
38節「いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。」
39節「また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
イエス様は答えます。
40節「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
イエス様は最も弱く小さく無力な者の姿で、この正しい人たちの前に現れていたのです。
マザー・テレサのことを、皆さんはご存知のことと思います。インドで貧しい人たちの最期を看取る奉仕をしていたマザー・テレサもこのマタイの25章40節を引用して、最も弱く無力な人たちの中にイエス・キリストの姿を見ていました。
この弱くて無力な人たちがイエス様であるということは、イエス様がどういうお方か、ということを理解するのに、非常に重要なことです。
そして、それは、私たち人間がどういう存在かということを理解する上でも、決定的に重要なことです。
どういうことかと言うと、イエス様は十字架に掛かって死にましたが、その時、イエス様は神から完全に切り離されて一人の人間になっていました。イエス様は十字架上で叫びます。「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」この絶望的な叫びをあげた時、イエス様は全く無力でした。
このことは、人間とは、本来、まったく弱くて無力な存在なのだということを教えてくれます。我々は、もともとは、全く弱い存在なのです。でも、私たちは一見したところでは、そんなに弱いようには見えませんね。
どうしてでしょうか。それは、神様が内に住んでいてくださるからです。神様が私たちを強めてくださっています。
それでは、神様を信じていなくて、神様が内に住んでいない人で、強く見える人たちは、何によって強められているのでしょうか。それは、プライドであったり、優越感であったり、虚栄心といったものです。そういう鎧や兜で身を固めていますから、一見強そうに見えます。
でも、実はそれは、もろく壊れやすいものです。そういう、もろく壊れやすいものを精神的な支えにして生きている人が、日本にはたくさんいます。そして、そのような見せかけの強さが壊れてしまって自信を失っている人たちが、たくさんいます。あるいは、そういう見せかけの強ささえ初めから持ち合わせておらずに、絶望しながら生きている人もたくさんいます。
しかし、イエス様を信じて、イエス様が内に住んでくださると、本当の強さを得ることができます。そして、その内に住んでいてくださるイエス様は私たちを通して外側に現れてくださいます。そのようにして、私たちは、まだイエス様を信じていない人たちにイエス様のことを知らせる助けとなることができます。
神学院に入る前の私のイエス観は、型通りのことの域を出ていなかったと思いますから、今話したことには、なかなか気付きませんでした。
しかし、今年の3月に神学院で、須郷さんと神様のおかげで大変大きな経験をさせていただき、私のイエス様の見方は大きく広がりました。
須郷さんというのは、先月の伝道会で、この教会で奉仕をされた須郷さんのことです。須郷さんは今年の3月まで神学院の神学生でした。
ただ、昨年は須郷さんは4年生でインターン実習の年でしたので、私が神学院に行き始めた6月には既にインターンに出ていて、今年の1月の後半に神学院に戻って来るまでは、ほとんど会うことはありませんでした。
しかし、1月の後半から3月中旬の卒業式の日までは須郷さんも男子寮で暮らしていましたから、2ヶ月弱の期間でしたが、一緒に寝泊りして同じ釜のご飯を食べながら、寮の早天の祈祷会や晩の祈祷会で須郷さんの説教を聞いたり、私の説教も聞いてもらうことができて、本当に良かったなあと思っています。
きのう、この説教の準備をしながら、先月の須郷さんのここでのコンサートのCDを聞いて、なんだかすごく懐かしくなりました。
須郷さんの男子寮での説教というのは、だいたいギターを持って何か歌いながらの説教だったんですね。2ヶ月弱の間に5回ぐらいは須郷さんの説教があったと思いますから、すごく贅沢な経験をさせてもらったなと思います。
さて、私がこれからお証しする大きな経験というのは、この男子寮での祈祷会ではなく、3月の卒業式の一週間前に神学院教会で持たれた、卒業生が企画した伝道会のことです。その伝道会は卒業生による賛美や、お証しや説教、また神学生全体による賛美などがあったのですが、もう一つ、卒業生による劇がありました。演じられたのは、トルストイ原作の「靴屋のマルチン」です。
20分ぐらいの短い劇でしたが、この劇の脚本を須郷さんが書き、主役のマルチンを須郷さんが演じました。そして、私もマルチンの友人役を演じさせてもらいました。
靴屋のマルチンというのは、ご存知の方も多いと思いますが、ご存知ない方のために簡単にご紹介すると、ある所に靴屋をしているマルチンという老人がいました。
このマルチンは一人寂しく暮らしていますが、ある時、そのマルチンにイエス様が声を掛けます。
「マルチン、マルチン、明日、私はあなたの所に行きます。待っていなさい。」
翌日、マルチンはイエス様が来られるのを楽しみにして、靴屋の仕事場で仕事をしながら窓の外を見ていました。冬の寒い日で、外には凍えている人たちがいました。
それは貧しい母親であったり、両親がいないみなし子であったり、雪かきをしている老人だったりしました。それらの人たちをマルチンは暖かい部屋の中に入れてもてなしてあげました。
そんな風にして一日が過ぎて、夜になってしまいました。ああ、イエス様はとうとう来なかったなあ、とマルチンががっかりしていると、イエス様が声を掛けます。
「きょう、私はあなたの所に行きましたよ。」と言い、きょうマルチンがもてなした貧しい母親の幻が現れ、「私だよ、マルチン」、と言います、次いでみなし子や、老人なども次々に現れ、「私だよ、マルチン」と言います。
こうしてマルチンはきょう一日イエス様が一緒にいてくださったことを知り、今までは人生に希望を持てずに寂しく暮らしていたのが、もっと明るく前向きに生きるようになる、というようなお話しです。
つまり、このお話しはきょうの聖書箇所のマタイ25章40節が基になっているものです。
この劇を神学院教会の3月の伝道会で行ったんですね。何度か練習をして、この劇の本番に臨みました。
最初に練習したのが、本番の日の確か5日前の夜でしたが、男子だけで男子寮の中で行いました。
女子も参加する劇なんですが、最初に男子だけでとりあえず、やってみましょう、という感じでしたから、私もとりあえずという感じで、あまり本気ではなく、かなりいい加減な気持ちで最初の練習に臨みました。
そうしたら、須郷さんは、最初からしっかり本気モードで、いきなり、すごい迫力で演技し始めたんですね。
私の役はマルチンの友人で、最初にマルチンの家へ行って、「お~い、マルチン、いるか~?」と言いながら勝手にマルチンの家に入っていってしまう、そういう役です。それに対してマルチンは友人をジロッとにらみます。
須郷さんが書いた脚本のマルチンは気難しい老人という設定だったので、私をジロッとにらんで、「何か用か。わしゃ、忙しいんだ。用があるなら、さっさと言ってくれ。」と、怒ったように言うんですね。
友人の私はそれにはお構いなく、明るい調子で
「お前も家にばかりいないで、これから一緒に出かけないか? 広場でダンスをするんだ。俺たちの古い踊りを教えてやろうぜ」
と言います。
それに対してまたマルチンがまた、気難しいことを言うという感じで劇が進むんですが、とにかく、その気難しいマルチンが、ものすごくおっかないんですね。
いつも優しい須郷さんが本気で怒っているような感じで、私は最初の練習の時、本当に恐ろしくなってしまいました。
それで、最初私は、どうせ素人の劇だからと思って、いい加減な気持ちでいたのですが、これは本気で取り組まなければと思い、須郷さんの演技指導と神様に全てをゆだねて一生懸命に練習をして本番の演技に臨みました。
そうしたところ、劇が終わってから、神学院教会の実に多くの人が私の演技を褒めてくださいました。1週間後、2週間後も、あの劇の演技は良かったですね、と教会員の方が言ってくださいました。
これは私にとって、本当に大きな出来事でした。私は型や枠にはめられるのが大嫌いで、自分らしくありたいと思うあまり、これまで人との間に知らず知らずのうちに壁を築いていたということに気付かされました。
今回の劇では私は須郷さんの演技指導と神様に全てをゆだねて演技をしました。そうすると、私が話しかけなくても、教会員の方のほうから私に「良かったですね」と話しかけてくださったのです。
それは教会員のお一人お一人を通じてイエス様が私に直接、「それでいいんだよ。そうやって自分らしさへのこだわりを捨てることで、かえって本来の自分の良さが現れるんだよ」と教えてくださったのだと思います。
こうして私は教会員のお一人お一人にイエス様の姿が見えるようになると共に、本当の自分らしさというものは、自分が何とかして作り上げていくものではなく、神様に全てをゆだねた時に、神様が引き出してくださるものだということを、知ることができました。
このことが分かってから、私は余計な力を抜くことができるようになり、本当に感謝な出来事でした。
そして、その翌月の4月のイースターの聖日には、私は、半年ぶりで母教会の高津教会に行き、教会員の方々といろいろと話をすることができましたが、その教会員の方々とのお交わりの中にイエス様を感じることができました。
それまで、神学院に入学する前には、私は高津教会の方々との間にも壁のようなものを作っていたと思いますから、その壁をイエス様が取り去ってくださり、本当に感謝だなあと思いました。
そして、4月の第4聖日からは、私は深川教会と高根教会へ行っています。ここで、多くの方々と新たに交わることができて、いろいろなことを学ばせていただいていますが、一番感謝なことは、それぞれの方々のお一人お一人の中にイエス様がいるんだということを学べているということです。
今週、久し振りでこの静岡教会に来て、そのことをまた学ばせていただいていますし、きょうの午後は沼津教会へ行くということですから、それもまた、楽しみなことです。
イエス様が内に住んでおられる兄弟姉妹の姿を見ることができるのは、私たちにとって本当に励みになります。
イエス様を信じるということは、信じようと思ってできることではなく、自分で何かをしようという思いを捨てて、イエス様にすべてをゆだねることです。
そうすると、イエス様は私たちのうちに入ってきてくださいます。
そういうふうに余計な力を抜いて、イエス様に入ってきていただくと、これまでに味わったことのない心の平安を得ることができます。
そしてさらに、私たちの内に入ってくださったイエス様は、今度は私たちの個性を引き出してくださいます。
イエス様を信じると、私たちは個性の無い者になるのではなく、逆にイエス様により個性を引き出されて生き生きとした者に変えられていきます。イエス様とは、そういうお方です。
ぜひ、もっともっと多くの方々に、このイエス様のすばらしい恵みを知り、味わっていただきたいと思います。
お祈りします。









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