compassion 共苦2009年07月11日 00時12分

 きょうの「キリスト論」の授業で、ターミナル・ケアのホスピスのチャプレン(チャペルの聖職者)を務める藤井浩さんへのインタビュー番組『See you in the morning ―娘からの贈りもの』(NHK「心の時代」2006)を皆で見ました。
 教会の牧師時代の藤井さんは教会を大きく成長させる目覚しい働きをしていましたが、娘さんをガンで亡くされた後で働くようになったホスピスでは、患者さんの声を聞く以外に何もできない無力さを感じます。
 しかし、その「無力な私」こそが牧師の本当のあり方ではないかと思うという、藤井さんの言葉でこの番組は閉じられます。
 牧師が無力さを自覚する時、そこに共に苦しんでくださるイエス・キリストが現れてくださり、患者に平安がもたらされ、「See you in the morning 明日の朝、また会いましょう」という希望が与えられるのだということを学ぶことができ、とても感謝な授業でした。
 神は沈黙しているのではなく、共に苦しんでいてくださる、ということは、遠藤周作氏の小説『沈黙』の中でも語られています。
 『沈黙』の主人公のロドリゴがイエスに
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました。」
と言ったのに対して、イエスはこう答えます。
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに。」

 イエス・キリストの共苦について、もっと深く学んでいきたいと思いました。
 なお、このNHKの番組は、インターネットでも配信されているのを見つけましたので、私は先ほどもう一度見て、感動を新たにしました。

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2008000394SA000/index.html

(番組紹介記事)
 40年の牧師生活を引退した後、藤井浩さんはホスピスのチャプレン(聖職者)をしています。長女がこのホスピスに入院し、見送ったことがきっかけでした。死を目前にした人のそばで、何もできない無力な私がいる。できることは共に苦しみ、話し相手になるだけ。しかし、それこそが牧師の使命ではないかと気づいたのです。患者の人に「また明日」と明るく言ってもらうために、残りの人生を捧げたいと考えています。

分かち合いたい恵み2009年07月11日 16時08分

 きのう見たホスピスのチャプレンのインタビュー番組のことを、また考えています。
 なぜイエスは無力な者のうちに現れて、慰めを与えてくれるのでしょうか。
 それはイエス自身が神に見捨てられ、無力な者として十字架上で死ぬ苦しみを味わったからです。イエスは十字架上で息を引き取る前に大声で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫びます(マタイ27:46)。
 神に見離される恐怖を誰よりも強く味わったからこそ、イエスは神を頼る弱い者を決して見捨てずに愛を注いでくださるのだと思います。
 自分の力に頼り、神に頼らない人には、このイエスの愛が伝わりません。
 愛は強制したとたんに愛でなくなるから、伝えたくても伝えようがないとキリスト教は教えますが、それは私にとっては寂しいことです。
 このイエスの愛の恵みをもっと多くの人と分かち合えたらと思います。