わたしの母とはだれのことですか2009年06月27日 05時21分

 「マルコの福音書」の授業で3章から説教を作ることになったので、急きょ作りました。(「剱岳」の説教作りはおあずけとなりました。スミマセン)

 ここで私はイエスの「家族」にスポットを当てることにしました。
 これは間違いなく、佐々部監督の影響です ^^

 この説教で私が語るイエス像は主観的に過ぎるかもしれません。
 聖書の教えを逸脱しない範囲で、いかに聖書の人間ドラマを生き生きと伝えるか。
 難しいことですが、そのギリギリを追求していきたいです。

朗読箇所: 「マルコの福音書」3章20, 21, 31-35節

 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。
 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」


 きょうはマルコの福音書3章をご一緒に学びましょう。3章全体でいくつかの段落があるうちのどこにスポットを当てながら見ていくのが良いだろうかと考えた結果、いまお読みした、イエスの家族が登場する場面にしました。家族、特に母マリヤの、息子イエスに対する思い、そしてイエスの母に対する思いを軸にすえると、この3章のメッセージがもっと強く伝わってくると思うからです。

 では、3章20節、21節と31節から35節までを順に見ていきましょう。
 20節、「イエスが家に戻られると」、この「家」とは、ガリラヤ湖北西岸の町カペナウムにある家のことです。「また大ぜいの人が集まって来たので」、ここに、「また」とあります。それ以前にも、そのようなことがあったのですね。3章の7節、8節を見ていただきますと、「イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々がイエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。」とあります。近くのガリラヤの人たちだけではなく、四方から、遠いところでは、エルサレムよりさらに南方のイドマヤ、その昔はエドムと呼ばれた地方からも、人々が集まってきました。イエスの評判はそれほど広がっていたということです。

 それからイエスは山に登り、12弟子を任命し、悪霊を追い出す権威を与えました。そのことが13節から19節に書いてあります。その間、人々は散っていたのでしょう。しかし、20節、「イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。」今度は12人の弟子たちも癒しの働きに当たっていましたが、それでも皆が食事する暇もないほどに大勢の人が押し寄せてきました。この大勢の人々がいたと言う状況を、頭の中に思い描いておいてください。

 次に21節。このイエスの評判は、当然、イエスの故郷のナザレにも届きました。しかし、故郷の人々はイエスが人を癒しているということを、そのまま信じることができませんでした。それで、中には「気が狂ったのだ」、新共同訳では「気が変になっている」という人たちがいました。それで、ナザレからカペナウムまで家族がイエスを連れ戻しに来ました。

 隣り合う20節の人と21節の人は同じカペナウムに向かう人でも、全く異なります。イエスの力を信じる者と信じない者です。ここに大きな対比が一つ描かれています。

 次に、31節に飛びます。
 「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。」

 カペナウムまで来たイエスの身内の中に、母マリヤもいたのです。マリヤの年齢はもう40台の後半で、当時としては高齢でした。ナザレからカペナウムまで直線距離で約30 kmあります。しかも平坦な道ではなく、山道を通らなければなりません。年老いた母マリヤがカペナウムまで行くということを、周囲の者は反対したに違いありません。しかし、母マリヤはイエスのことが心配でたまらなかったのでしょう。ナザレからガリラヤ湖岸の町までやってきました。

 32節「大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、『ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています』と言った。」

 「あなたをたずねています」は新共同訳ですと、「あなたを探しておられます」になっています。英語訳もseekやlook forが使われていますから、「探す」のほうが合っているのかな、と思います。つまり、探さなければ分からないほどに人がぎっしりといて、マリヤたちは、その人たちのうちでも実際に悪霊に憑かれて気が変になっているような人にばかり目が向いていたのではないかと思います。

 そんな母たちを見てイエスは言います。
 「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」


 きょう、私が皆さんと共に、一番じっくりと味わいたいと願っているのが、この33節の「わたしの母とはだれのことですか。」です。もちろん、この節は3章のメッセージの中心ではありませんから、その中心の学びは後でしっかりとするつもりですが、まずはこの33節を皆さんと共にじっくり味わいたく思います。

 ここでちょっと、イザヤ書46章4節を共にお開きしたく思います。ここは一昨日、説教学でN姉が開き、昨日のチャペルではY先生が開いた箇所です。偶然とは思えない気がするので、3日連続で開いてみましょう。

 あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。
 あなたが、しらがになっても、わたしは背負う。
 わたしはそうしてきたのだ。
 なお、わたしは運ぼう。
 わたしは背負って、救い出そう。

 イエス様は、このように言っておられる神の御子です。神様は、救いたいと願っている者は、年をとってしらがになっても背負って救ってくださるとおっしゃっています。その神の御子イエスが、自分を心配してナザレから山道を越えてやってきた年老いた母親を、どうして、いとおしく思わないことがあるでしょうか。そんな母親をいとおしく思わないようなイエス様だったら、私は信じないでしょう。イエス様は、きっと母マリヤをいとおしく思っていたはずです。それなのに、あえて33節の「わたしの母とはだれのことですか」と冷たく言い放ったところに、私はイエス・キリストの、自身がこの世で果たすべき役割に対する使命感の並々なる大きさを感じます。イエス・キリストにはこの世で果たすべき使命が与えられています。その使命を果たすためには親子の私情に流されるわけにはいかないのです。

 その使命とは、十字架に掛かることであり、弟子たちを訓練することであり、そして、きょうこれからご一緒に見る、3章の中心メッセージを大勢の人々に伝えることです。
 では、3章の中心メッセージとは何でしょうか。それが28節、29節と、34節、35節です。それは、わたしたちは誰でも、永遠の罪に定められるか、赦されるか、のどちらかであるという、神の厳粛な宣告です。それゆえ、イエスがここで親子の私情をはさむ訳にはいきません。永遠の罪か救いかを裁くのは他ならぬイエスご自身なのです。イエスは既に2章10節で律法学者たちに「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」と言って明らかにしています。

28節「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。」
29節「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪にさだめられます。」

 聖霊をけがす者とは、30節で説明されているように、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言ってイエスの働きを否定する者のことです。そのような者は「だれでも」、永遠に赦されず、とこしえの罪にさだめられます。

 母マリヤとイエスの兄弟たちは、イエスがこのように厳しい宣告をしている時に来てしまいました。マリヤがどんなに心優しく、人間的に素晴らしい女性であったとしても、そして、母という、イエスに最も身近な者であったとしても、イエスの働きを否定する者は赦してもらえません。律法学者たちも同じです。どんなに聖書に通じていても、イエスの働きを否定する者は赦されません。

 逆に、どんな罪人でも、無学な者であっても、強欲な取税人であったとしても、イエスの言うことを信じるなら、「だれでも」赦されます。

 34節「そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。』」
35節「『神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」

 神のみこころを行う人は、「だれでも」神の家族にしていただけます。

 母であったとしてもイエスを信じなければ罪に定められ神の家族にはなれず、逆に罪人であったとしても、イエスを信じれば罪が赦され、神の家族にしていただくことができます。

 イエスを心配して30km以上もある山道を越えてきた年老いた母を見ながら、「わたしの母とはだれのことですか」と言ったイエスの心の中はどんなに痛んでいたことでしょうか。母マリヤとイエスの兄弟たちは、「イエスは気が狂ったのだ」という先入観を持って、外でイエスを探していました。そんな家族の姿を見て、イエスは悲しかったことでしょう。

 私たちの身近にも心優しくて素晴らしい人たちがたくさんいます。でも、イエス様について誤った先入観を持っているため、イエス様の近くにいながら、イエス様の姿を見ることができないでいます。この世でどんなに良い人であってもイエス・キリストを信じなければ、とこしえの罪に定められます。

 聖霊をけがす者は「だれでも」、永遠に赦されず、とこしえの罪にさだめられます。
 神のみこころを行う人は「だれでも」、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。

 重大な使命を神から託され、並々ならぬ決意を持って、このメッセージを我々に伝えてくださったイエス様の心情を思い、我々も並々ならぬ決意を持って伝道に励まなければならないのではないでしょうか。

 お祈りいたします。

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