どうして私をお見捨てに…2009年04月10日 05時22分

 イースターを目前にした今日、金曜日はイエス・キリストが十字架に付けられた日です。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」

 イエス・キリストは十字架上でこのような絶望的な叫び声をあげ、しばらく後に息を引き取ったとマタイ27章とマルコ15章に記されています。神を疑い非難するような不信仰な言葉を神の子であるはずのイエス・キリストがなぜ言ったのでしょうか?この問題については様々な人が様々な解釈をしています。
 私は次のように考えます。
 人間の罪を赦すための身代わりとなって死ぬ、その目的のためには罪なきイエス・キリストも最後の最後で罪人になる必要があった。そのために神を疑うという不信仰の罪をイエス・キリストは犯したのだ、と。
 そしてイエス様は3日後に復活しました。イエス様はかつて言いました。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6:37)。ひとたび神を信ずる者とされたからには、苦しみの中で神を疑うような不信仰の罪を犯してしまったとしても、神はその者を決して見捨てることはない、とイエス様はご自身の身をもって示してくださったのではないでしょうか。
 では、どのような者が神に本当に見捨てられるのでしょうか?それは、神を神とも思わず、神にへりくだることを知らず、人間の都合の良いように神を解釈し、好き勝手な人生を歩む者です。このような者が「聖霊をけがす者」であり、永遠の罪に定められます。私たちはマルコの福音書に記されている、イエス・キリストの次の御言葉を重く受けとめなければなりません。

「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
(マルコの福音書3章28,29節)

コメント

_ たなかやすこ ― 2009年04月10日 17時14分

KIJIMA さま

******人間の罪を赦すための身代わりとなって死ぬ、その目的のためには罪なきイエス・キリストも最後の最後で罪人になる必要があった。そのために神を疑うという不信仰の罪をイエス・キリストは犯したのだ、と。 ******
 
この部分がどうしても、私にはすっきり飲み込めません。イエスさまはすべての人間の罪を背負って、自分でご覚悟の上で十字架にまっすぐに進んでいかれました。人の裁きではなく、神の人類に対する裁きを、その身に引き受けられたのです。それは、そのように聖書が(旧約)預言している事が成就するためだと、イエスさまはおっしゃいます。私には、この十字架に際しても、なおイエスさまはどんな罪も犯しておられないと思います。イエスさまは完全な人と完全な神との間で、我々の想像を絶する苦悩の体験をされたのです。

人間としての肉体を持っている以上、申命記21:23にあるように、『木にかけられて神に呪われた者』となることに対する、精神的、肉体的恐怖はどれほどのものでしょう。ですから、できればこの杯を取り除いてください、とお祈りされたのです。でも、そのあとに、眠りこけている弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いから」と言われ、ご自分も意を決したように「父よ、どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのままになさってください。」と言うことがおできになったのです。

イエスさまの十字架は全人類の身代わりではありますが、決してイエスさまは神を疑うという不信仰は断じてなかったと思います。イエスさまはいつも聖であり、義であるお方です。そして、神の御前に従順であるべきことを学ばせるため、すべてを了解の上、我々の初穂となられたのです。それをⅠペテロ2:24では、このように言っています。
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは癒されたのです。』
この後半部分はまことに、真実だと思います。KOJIMAさんのおっしゃることにも通じるような気がします。つまり、苦しみの中で、どのような嘆きも、人類が味わう苦しみの極限を味わわれたイエスさまには、すべてを理解してもらうことができますから、遠慮なく叫んでいいということです。

また、一見嘆きに思えるこの「神よ。どうして私を見捨てられたのですか。」ということばも、実は詩篇22篇を口ずさまれたのだということを聞きました。その詩篇は実は最後は神さまへの賛美で終わっているのです。最後まで賛美する力が、十字架上の激痛の中で、残っていらっしゃらなかったのではないかと思います。イエスさまはこの詩篇にあるような、かつてあれほど親しい関係であった父なる神が沈黙されていること、それは、全人類の罪を背負われた(罪がある以上、一つでも取り除かれなければ、人間は聖なる神さまと交われないから、罪を帳消しにして私たちを救うために身代わりとなっている)イエスさまを、22篇の各節は、何と十字架上のその場面をまさしく再現していることでしょうか!!やはり、イエスさまはここでも、旧約のメシア預言がご自分に成就していることをおっしゃりたかったのではないでしょうか?確かに22篇は、後半は賛美と変化しており、「子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。」(30‐31節)となっています。

今日、GOOD FRIDAYに、一番にこのような十字架上のイエスさまのことを思い起こすことのできた恵みを、そのことのゆえに、KOJIMAさんに感謝します。

_ S.KOJIMA ― 2009年04月11日 06時18分

たなかさん、コメントをありがとうございました。

 ご意見を読ませていただき、私の「わが神、…」の解釈は信徒の方につまづきを与える恐れがあるかもしれないと思い、教会の掲示板からは削除しました。
 この休講期間中、聖書理解を深めるための本を何冊か読みましたが、その中で最も恵まれたのがサンダース著『パウロ』(土岐・太田訳、教文館)でした。サンダースはパウロの論理展開を以下のように説明しています(第9章「律法」p.199-200より引用)。

「第五章(「神学的諸前提」)でわれわれは、神の摂理を信じる者は歴史を逆向きに読む傾向を持つということに注目した。つまり、結果から始めて、神がその結果を意図した以上、それ以前のことはそれに至る予備的なものであったに違いない、と考えるのである。パウロの歴史理解を生み出したのは、神が彼に対して御子を啓示すると同時に異邦人への使徒に任命したという事実である。パウロがこの啓示から引き出すことのできた唯一の結論は、神はユダヤ人も異邦人もキリストへの信仰によって救おうとしている、というものであった。(中略)パウロはこれを譲歩できない結論と考えていたため、彼が考えたあらゆる事柄をこの結論に合わせて調整しなければならなかった。(中略)それゆえ彼は、すべての人を忌わしい罪人として描いたのである。」

 私はこの歴史を逆向きに読む思考法を、解釈が困難な「わが神、…」に適用してみたらどうかと思ったのです。われわれの罪を赦し、救うためにはイエス様といえども罪人になる必要があったのではないか、と。このほうが私にとってはしっくりくるので、私はこう考えることにしようと思ったまでで、人に押し付けるつもりはありません。たなかさんにとっては、イエス様はどんな罪も犯していないというのは譲れない一線だと思いますから、それは尊重します。われわれは神学者ではないのですから、それで良いのだと思います。イエス様にとって一番大切なことは、いかに多くの人がイエス様に関心を持って近づくかであり、そのためにはイエス様が死ぬ間際の極限状況にあってどのような状態にあったかの解釈が割れたとしても、どちらの者も受け入れてくださると信じます。
 同様に、イエス様は十字架上で詩篇を唱えていたのだとする考え方も私は尊重します。しかし、私自身はこの考えを支持しません。この考え方は遠藤周作氏が『イエスの生涯』の第12章で展開していますが、遠藤氏のイエス観は私とはあまりに掛け離れているので、この詩篇22篇説も支持できません。イエス様が罪人ダビデの詩を延々と唱えていたという説は、私には受け入れがたいことです。でも、そのほうがイエス様に親しみを感じるという方がいれば、イエス様は喜んで受け入れてくださるのではないかと思います。

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