真の強さとは2009年04月19日 09時06分

 先週から始まった新学期の授業の中の一つの「キリスト論」(河村先生)で、『アダム 神の愛する子』(ヘンリ・ナウエン著)と『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』の2冊を読んで考えたことをレポートにまとめる課題が出たので、この2冊を早速、一気に読みました。河村先生からは2冊について別々にレポートするのではなく、「2冊両方を合わせて考えたこと」を書くこと、という指示が特別に出されていたので、どういうことだろうと思いながら、最初に『アダム』を読みました。それで、ナルホドと納得して『マザー・テレサ』へと読み進むことができ、大変に恵まれました。
 実は『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』は既に持っていて、以前に読んだことがありました。その時は、「良いことがたくさん書いてあるなあ」という漠然とした感想しか持ちませんでしたが、今回『アダム』を読んだ後は、ある問題意識を持って読むことができたため、全然違う読み方ができ、多くのことを教えられて感謝でした。
 『アダム 神の愛する子』はナウエンが1996年に急死する直前に書かれたもので、このような素晴らしい本をナウエンが良くぞ遺していってくれたものだと神を賛美します。
 アダム・アーネットは介護者がいなければ何一つ自分ではできない最重度の障害者です。しかし、全くの受身であるアダムに接した者の多くは彼によって癒されていきます。大学教授の職を辞して障害者施設に身を投じたナウエンもまたアダムによって、大学で身につけた余計なプライドなどを取り除かれていきます。ナウエンはそんなアダムに、十字架に付けられた弱いイエス・キリストの姿を見ます。「キリスト論」の課題で河村先生は「受肉、即ち、神が人となるとはどういうことかを意識しながら、この2冊を読むこと」と指示しました。神が人になるとき、罪に汚れていない純粋な人となるはずです。すると、純粋な人とは、このアダム・アーネットまたは、十字架上のイエス・キリストのように全く弱い者ではないのかという仮説が私の中に浮かび上がってきました。
 もし純粋な人間が全く弱い者であるとしたなら、人間が持っているように見える強さは、いったい何によってもたらされるのでしょうか。この答えが『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』の中に隠されているのではないかと思い、この本を読む時は、その答え探しをしながら読みました。すると、一見強そうに見える現代人の心が、実はもろくて壊れやすいものだということが段々と見えてきました。人を強そうに見せているものは、必要のないプライドであったり、おごり高ぶり、優越感、・・・、といったようなもので、実はこれらは非常にもろいものなのです。だから人は余計に必死になって、これらが壊れないように厚く塗り固めるという虚しい努力を続けるわけです。
 マザー・テレサはこのような努力は一切しませんでしたが、強い人でした。彼女はインドで最も貧しい人々を助け、最期を看取る奉仕をずっと続けてきました。この最も貧しい人々こそが人となったイエス・キリストです。聖書は次のようにイエス・キリストの言葉を記しています。

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書25章40節)

 つまり、マザー・テレサは、人であるイエス・キリストを助けることで神であるイエス・キリストから強さをいただいていたのだ、ということになります。こうして私はパウロの次のことばが、ようやく理解できるようになりました。

「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(中略)なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント人への手紙第二12章9,10節)

 人が自分の力で強く見せようとする虚しい努力を放棄して初めて、神であるキリストの強さ、すなわち真の強さが人に現れるのだという構造が、いよいよはっきりと見えてきました。そのことを教えてくれた今回の2冊の本に感謝です。