『旭山動物園物語』2009年03月02日 18時56分

 マキノ雅彦監督作品、西田敏行さん主演です。
 ラストでは佐々部清監督の『陽はまた昇る』を思い出しました ^^
 エンドロールで西田さんが背を向けて画面の奥の方にずっと歩いていくところでは、奥田瑛二監督の『長い散歩』での緒方拳さんを思い出しました TT
 動物園と教会とはもちろん全然違うけれど、多くの方に来ていただくという点で、見習うべきところがたくさんあると思いました。

ひさびさの演技 ^^2009年03月05日 13時10分

 今度の日曜日(8日)の午後1:00~2:30に聖宣神学院教会のウエスレー・チャペルで、今年度の卒業生・聴講修了生4名の企画によるイベントがあります。われわれ在校生もコーラスと劇の協力をすることになっていて、私も両方に出ます。コーラスは『その日、全世界が』、そして劇(20分弱)はトルストイ原作の『靴屋のマルチン』で、私はマルチンの友人役をします。何と、セリフ付きです ^^
 劇の主役のマルチン役は、卒業生の須郷裕介さんが務めます。須郷さんは神学院に入学する前は7年間、劇団四季にいて、『オペラ座の怪人』、『壁抜け男』などに出演した、元プロのミュージカル俳優です。おとといの夜、寮で初めて劇の練習をした時、私はリラックスモードでヘラヘラ笑いながら練習を始めたら、いきなり本気モードの須郷さんのプロの演技に度肝を抜かれてしまいました ^^; 劇団巌流第二級の団員としては須郷さんの相手役を立派に務めたいところですが、自分の演技のレベルの低さをしっかりと思い知らされて、恥ずかしい限りです。でも、そうとばかりも言っていられないので、日曜日の出番に備えて出来る限りの準備をしたく思っています。
 日曜日の午後、お時間がありましたら、是非、聖宣神学院教会にいらしてください ^^
 http://www.bt-church.com/

情のからみ・霊のからみ2009年03月07日 06時29分

 今度の日曜日(8日・13:00~14:30)のイベントでする芝居『靴屋のマルチン』の稽古を実際の講壇上で何度か行いました。元劇団四季の須郷さんの演技指導は、演技経験のほとんどが通行人役^^の私には、本当に勉強になります。
 まずは、二人のセリフの掛け合いのタイミング。早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけないのが基本ですが、状況によって相手がしゃべり終わるか終わらないかのうちに、間髪を入れずに言葉を返さないといけない場合もあるし、相手の言葉をゆっくり・しっかり聞いてから、返さないといけない場合もある。このタイミングがピタリと決まると、二人の間に生きた人間関係が生まれるし、ずれると死んでしまいます。
 それから、私が須郷さんに向かって話し掛ける時の上半身の角度の重要性も教わりました。前傾気味にすると、相手への親密感をより多く表現でき、これができないと、気難しいマルチンが友人の友情を煙たがるという芝居が成立しなくなります。
 以上のことを私なりに分析してみました^^
 ちょっと前傾姿勢になるだけで、二人の間の空気がグッと濃くなる。これは、いったい何だろうか。物理的に角度が変わるとか、距離が縮まるとか以上の変化が明らかにあります。それはきっと、前傾姿勢になった時に、役者の気持ちも瞬間的にグッと高まり、前に向かって放射されるからではないでしょうか。それを受ける相手役は、それをモロに受けるし、見ている観客も、二人の情のからみを感じるのです。この推論が正しければ、我々は目に見えない感情のぶつかり合い、からみ合いをしっかりと感じ取っていることになります。
 目に見えない神の霊と人間の霊とのからみ合いも、このようなものであろうかと、私の思い巡らしは、いつの間にか、と言うか、いつものように^^; そちらへと向かっていきました ^^

良い力の抜け方?2009年03月10日 21時51分

 日曜日に劇をしました。終わった後で多くの方が私の演技を褒めてくださいました。自分では、そんなに良くできたとは思っていなかったので、不思議な気分でいましたが、見に来てくださった劇団巌流のチル友さんがmixiで、笑顔の演技が良かったとコメントしてくださっているのを見て、少し合点がいきました。つまり、良い感じで力が抜けていたのだろうな、と。そのことは、私自身も感じていました。緊張しやすい私が、たいして緊張せずにリラックスして演技できたからです。気持ちよく演じさせてもらいました。
 それにしても、本当にいろいろな方から良かったと言っていただきました。神様と脚本・演出・主演の須郷さんに全てをゆだねて演技した結果だと思います。自分の力だけに頼って頑張って何かをして良い結果が出た場合、賞賛してくれる人はもちろんいるけれど、皆が皆、褒めてくれるわけではないことを経験上知っています。しかし、自分の力に頼らずに何かをして良い結果が出た場合は、こんなにも多くの人に褒めてもらえるんだなあ、ということを、小さな劇を通じて知ることができ、感謝です。

「女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』」(サムエル記第一18章7節)

卒業イベントで思ったこと2009年03月14日 23時07分

 3月13日に聖宣神学院の第57期生の卒業式が藤本満先生の司会のもとに行われました。この式において、私は東京フリーメソジスト桜ヶ丘教会の野田秀先生の祝辞が特に強く心に残りました。野田先生は「牧師はリーダーであると同時にしもべでもある」というお話をされました。リーダーとしもべの中間という中途半端なものではなく、両者なのだということを強調しておられました。リーダーであることを意識し過ぎるとしもべの謙虚さを忘れてしまうので非常に難しいことではあるが、とにかく両者を両立させる必要があるのだと。
 以下は私の解釈ですが、この2つを両立させることは聖霊の働きがあって初めて可能であろうと思いました。すると、リーダーが父的な働き、しもべが御子的な働きであるとするなら、父・御子・聖霊の三位一体の神の働きが牧師の仕事の中に見事に現れていることになります。
 以上のことを、私の最近の経験を通して牧師の仕事以外の営みにも広く適用してみたく思います。
 3月8日の聖日の午後、神学院教会で、卒業生の企画による伝道会「心の泉アワー」が開かれました。この伝道会で私は元劇団四季の須郷兄が『靴屋のマルチン』を脚色した劇に卒業生と共に出演しました。私は映画のエキストラで通行人役はたくさんしたことがありますが、セリフ付きの役は演じたことはありませんから、すべてを須郷兄と神様にゆだねて練習し、本番に臨みました。すると、伝道会が終わった後で、非常に多くの方が私を褒めてくださいました。これまで私は自分らしくありたいということを意識し過ぎるあまり、必要以上に自分のカラーを出そうとする傲慢なところがありました。その場合、褒めてくれる人もいることはいますが、そんなに多くの人が褒めてくれるわけではありません。それでも私は自分が自分らしくいられるなら、それで良いのだと思っていました。しかし、今回のことは大いに考えさせられました。つまり、すべてを神と他者にゆだねたほうが本来の自分らしさが出ているのではないだろうかと。そして、そのことに人は好感を持ち、共感してくれるのだと。逆に、自分らしさを出そうと意識しすぎると本来の自分らしさは失われてしまうようです。
 人の共感を得ることを、人の心を動かすことと言い換えるなら、それは即ちリーダー的な父の働きとも言えるのではないでしょうか。すべてを神と他者にゆだねることはしもべ的な御子の働き、そして、本来の自分らしさを出すことを聖霊の働きとすれば、ここにも父・御子・聖霊の三位一体の神の働きが現れていることになります。
 人は天から与えられた才能をしもべ的な謙虚さで磨いて用いるなら、そこに神の働きが現れて、自分が思っている以上に人々の心を動かすのだということを学んだ卒業イベントのひと時でした。

ことばのキャッチ・ボール2009年03月18日 17時34分

 佐々部監督の映画『出口のない海』に、人間魚雷「回天」搭乗員の並木が整備兵の伊藤と基地近くの海辺でキャッチ・ボールをするシーンがあります。私は最近、ヨハネの福音書21章15-17節のガリラヤ湖畔でのイエス様とペテロとのやりとりの箇所を読むと、この『出口のない海』の海辺のキャッチ・ボールのシーンを思い出すようになりました。新約聖書・ヨハネの福音書のこの箇所を、少し長いですが引用します。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。
「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスは再び彼に言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。
「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロは、イエスが三度「あなたを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの羊を飼いなさい。」

 このように文章で同じ内容の会話が三度繰り返されると、かなりしつこい感じを受けますが、野球やサッカーなどの球技では、基本に忠実なボールのやり取りを地道に繰り返すことで基本動作が養われていきます。神様と人間との間も、このように単純で基本的な言葉のやり取りをすることで、正しい関係が築かれていくのではないかと、この箇所を読むと思います。
 既にこのブログでは何度も書いていますが、3月8日に行われた須郷さん演出・主演の劇『靴屋のマルチン』の後で、私は多くの方に、褒めていただきました。

「劇、よかったですよ。」
「えっ、本当ですか?ありがとうございます!」

 この会話が何度ともなく繰り返されました。劇の1週間後の礼拝の日にも、朝に藤が丘駅から教会への迎え便の車の中でY兄とS兄が褒めてくださり、礼拝後の送り便でもH姉とK姉のお二人が「良かった」と言ってくださいました。
 「良かったですよ」と言ってくださった方に、私が「えっ、本当ですか?」と言うのは、私自身は、自分の演技が良かったとは全然、思っていないからです。しかし、前回の日記に書いたように、この劇には神様の働きが現れていました。私が全てを須郷さんと神様にゆだねたからこそ、作りものではない私本来の持ち味が引き出され、そのことを見ていた方々は好感を抱いてくださったのだと思います。
 そのことになかなか気付かない私に対して神様は、ペテロに何度も同じ言葉を繰り返したのと同じように、この劇を見た方々の口を通じて、「それが本来のあなたの良さなのだよ」と言ってくださっているようです。それは、靴屋のマルチンが親切にもてなした一人一人がまさに神様であったのと、きっと同じことなのでしょう。本当に感謝なことです。

「三日間の奇蹟」の「審理」2009年03月28日 11時47分

 今週は月曜から木曜まで神学院を会場にして教団の年会があり、その裏方の奉仕で忙しかったため、ブログ更新がすっかり滞ってしまいました。
 イエス・キリストの復活を祝う復活祭(イースター)は今年は4月12日(日)にあります。イースターを前にして佐々部監督が映画化した小説『四日間の奇蹟』について少し思いを巡らしています。
 いま、本が手元にありませんので記憶が曖昧な点もありますが、「キリエ・エレイソン」(主よ、あわれみたまえ)というギリシャ語で始まる『四日間の奇蹟』には三人の主人公の如月、真理子、千織の犠牲的な愛が綴られており、それはまさに十字架上で犠牲的な死を遂げたイエス・キリストの愛そのものであると思っているところです。きっと作者は十字架で死んで三日目に復活したイエス・キリストの「三日間の奇蹟」を十二分に意識していたはずであろうと思います。「三日間」を「四日間」にしたのは、同じにしたのでは余りに畏れ多いからであろうと勝手に想像を膨らませています ^^
 さて、いま私の手元にはリー・ストロベル著『The Case for Christ(キリストの審理)』という本の邦訳『ナザレのイエスは神の子か?』(峯岸麻子訳)という本があります。もう何度も読み返したこの本は、聖書に書かれているイエス・キリストに関する記述がどれだけ信頼できるかについて、事件記者の著者が刑事裁判に例えながら、著名な聖書学者に証人尋問する形式で書き進められています。
 この三部構成の「審理」の圧巻は第三部「イエスの復活を調べる」であり、
  第11章 医学的証拠
  第12章 消えた遺体
  第13章 イエス、再び現る
  第14章 状況証拠
という章立てになっています。第11章にはイエスが仮死状態から蘇生したのではなく、いったん確実に死亡したのだという医学的証拠が述べられています。第12章は埋葬したはずのイエスの遺体が墓から消えたことが事実かについての論証、そして第13章は復活したイエスに出会った人々の目撃証言の真偽について詳細に述べられています。これらはいずれも聖書の記述が正しいことを示していますが、慎重な著者はさらに第14章の状況証拠についての証言も求め、最終的に、イエスが十字架上で確実に死亡した後、墓に埋葬され、その遺体が消えた後に人々の前にイエスが再び現れたことは事実であると結論しています。
 つまり、イエス・キリストが復活したのは歴史的な事実なのです。ということは、イエス・キリストが弟子たちや多くの人々に語った言葉も本当のことだということです。イエス・キリストが何を語ったのかということについて、日本人はあまりに知らな過ぎます。少し大きめの書店の宗教書コーナーに行けば、聖書は必ず置いてあり、簡単に買い求めることができますから、ぜひ聖書に何が書いてあるか、読んでいただきたく思います。そして、聖書についての話を聞きに、ぜひ教会を訪れていただきたく思います。
 今年の正月、私は修行中のため新年会に行きたくても行けない我が身の心情をパウロの言葉で表しました。花見シーズンを迎え、「桜の国」で花見をするというチル友さんたちをうらやましく思いながら、再びパウロの言葉を引用します。

「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。(中略)
 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」
(新約聖書・コリント人への手紙第一 15章14,15,19節)