ことばのキャッチ・ボール2009年03月18日 17時34分

 佐々部監督の映画『出口のない海』に、人間魚雷「回天」搭乗員の並木が整備兵の伊藤と基地近くの海辺でキャッチ・ボールをするシーンがあります。私は最近、ヨハネの福音書21章15-17節のガリラヤ湖畔でのイエス様とペテロとのやりとりの箇所を読むと、この『出口のない海』の海辺のキャッチ・ボールのシーンを思い出すようになりました。新約聖書・ヨハネの福音書のこの箇所を、少し長いですが引用します。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。
「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスは再び彼に言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。
「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロは、イエスが三度「あなたを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの羊を飼いなさい。」

 このように文章で同じ内容の会話が三度繰り返されると、かなりしつこい感じを受けますが、野球やサッカーなどの球技では、基本に忠実なボールのやり取りを地道に繰り返すことで基本動作が養われていきます。神様と人間との間も、このように単純で基本的な言葉のやり取りをすることで、正しい関係が築かれていくのではないかと、この箇所を読むと思います。
 既にこのブログでは何度も書いていますが、3月8日に行われた須郷さん演出・主演の劇『靴屋のマルチン』の後で、私は多くの方に、褒めていただきました。

「劇、よかったですよ。」
「えっ、本当ですか?ありがとうございます!」

 この会話が何度ともなく繰り返されました。劇の1週間後の礼拝の日にも、朝に藤が丘駅から教会への迎え便の車の中でY兄とS兄が褒めてくださり、礼拝後の送り便でもH姉とK姉のお二人が「良かった」と言ってくださいました。
 「良かったですよ」と言ってくださった方に、私が「えっ、本当ですか?」と言うのは、私自身は、自分の演技が良かったとは全然、思っていないからです。しかし、前回の日記に書いたように、この劇には神様の働きが現れていました。私が全てを須郷さんと神様にゆだねたからこそ、作りものではない私本来の持ち味が引き出され、そのことを見ていた方々は好感を抱いてくださったのだと思います。
 そのことになかなか気付かない私に対して神様は、ペテロに何度も同じ言葉を繰り返したのと同じように、この劇を見た方々の口を通じて、「それが本来のあなたの良さなのだよ」と言ってくださっているようです。それは、靴屋のマルチンが親切にもてなした一人一人がまさに神様であったのと、きっと同じことなのでしょう。本当に感謝なことです。

コメント

_ たなかやすこ ― 2009年03月21日 21時49分

KOJIMAさま

「言葉のキャッチボール」というとき、非常に軽快な言葉のやり取りを思うので、果たしてこの場面は、私には微妙であり、結構重い気持ちで受け取っていたのではないかと思いました。

若い頃、聖書を読んでいて、ギリシャ語には4つの愛の言葉(アガペー、フィリア、ストルゲー、エロス)があると教わりました。それぞれ、見返りを求めない神の愛、友としての愛、親子の愛、男女の愛、という風に区別しているということでした。この場面で、新改訳では、欄外の注にそのはじめの2つが触れてあります。

イエスさまは、最初ペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上にわたしを愛しますか。」とお尋ねになりますが、その際の「愛する」はアガパオーという『神の愛』を表す動詞が使われており、それに対して、ペテロはあの十字架に引いて行かれた愛する主を3度否んだ後ですから、日本語では同じく「愛する」ですが、ギリシャ語では、フィレオーと言う『友としての愛』で、「わたしがあなたを愛することはあなたがご存知です。」としか言えなかったのだろうと納得します。でもすっきりと、わたしはあなたを愛します、ではなく、あなたは私の失敗も弱さも何もかもご存知ですと、いう意味で、あなた(主イエスさま)に主語を置いていることは、一目置くべき、挫折を経験したペテロの言葉だと思います。

2度目には主は「この人たち以上に」を抜いて、ただ「あなたはわたしを愛しますか。」とお尋ねになりますが、やはりここでもイエスさまはアガパオーを求めておられます。ペテロはやはり、ここでもフィレオーです。私には、ここではイエスさまがペテロを憐れんで、その言葉を抜いてくださっているように思えます。以前、他の誰もが主の元を離れようとも、自分だけは絶対離れませんと強がりを言っていたペテロが、すっかり自分の弱さを認めていることが、1度目の質問で分かったからだと思うのです。

そして3度目には、さらに驚くことに、イエスさまの方が何とアガパオーをやめてフィレオーを使って、まるで歩み寄るかのように、「わたしを愛するか。」と尋ねておられるのです。ペテロに、もう強がらなくてもいい、そのままの弱い、非常に人間的なあなたでいいからわたしを愛するか、と尋ねられておられるように思うのです。
それで、ペテロは感じ入って、「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です。」と主の御前にひれ伏している姿を想像します。3度も言われて、聖書にあるように「心を痛めて」ではなく、「感じ入って」「感動して」ではないかという気がするのですが、これは私の勝手な読み込みです。

また、イエスさまとペテロはユダヤ人だから、ギリシャ語では話していなかったと言われれば、それもそうかなと、二人の間には、日本語と同じく、愛についてのニュアンスを区別する言葉はなかったのだろうかなどと、思考があやふやにもなってきます。

_ S.KOJIMA ― 2009年03月28日 12時05分

たなかさま
 コメントありがとうございました。3度目の問いでイエス様がフィレオーを使ったのはイエス様の歩み寄りだという解釈には、なるほどと思いました。私の神学院でのギリシャ語の学びはまだ全三期の一期分が終わったばかりですが、原語で聖書をより深く味わうことができるよう、今後も励みたく思います。2月に2008年度の講義が終わってから1ヶ月以上たつので、早くも大半を忘れていますが ^^;
 また、木曜日には神学院教会での派遣礼拝・任命式ご出席お疲れさまでした。たなかさん他、他の兄姉にもお会いできてうれしかったです。近々、高津教会を訪れることになると思います。その時にはまた、よろしくお願いいたします。

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