復活の証拠2009年04月06日 12時11分

 イエスが十字架上で確実に死亡し(前々回の日記)、そのイエスの遺体が埋葬した墓から誰に盗まれたわけでもなく忽然と消えた(前回の日記)後、どうなったのでしょうか。もし、イエスが消えたままであったのなら、世界の歴史はそこから大きく動くことはなく、2000年後の今の地球がどのようになっているのかは全く想像もつきません。少なくとも今の姿とは全く異なっているということだけは断言できます。
 イエスの遺体が消えた後に何が起きたかは、新約聖書のいろいろな書に記されています。新約聖書(書店で簡単に手に入ります)は4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、使徒の働き、13のパウロ書簡(ローマ人への手紙、コリント人への手紙等)、ヘブル人への手紙、7つの公同書簡(ペテロの手紙、ヨハネの手紙等)とヨハネの黙示録の計27書からなります。書かれた年代は紀元50年~90年ごろで、ほとんどは紀元50年~60年ごろの10年間に書かれています。
 イエス・キリストが十字架上で死んだのが紀元30年とされていますから、新約聖書の書の多くはイエスの死後20~30年に書かれたことになります。私事で言えば30年前の4月は私が大学2年生になった時、20年前は私がアメリカに留学していた時ですから、その頃のことはハッキリと覚えていますし、当時の私の仲間のほぼ全員が今も生きています。『ナザレのイエスは神の子か?』(いのちのことば社 2004)によれば、関係者が全て死亡した100年後以降に書かれた書物は伝説化した作り話が書かれている可能性があるが、数十年後というのは、伝説化するには短すぎる。そこが新約聖書と他の主要な宗教の聖典との最も大きな違いであるということです。
 さて、紀元55年前後に書かれたパウロ書簡の「コリント人への手紙第一」の15章に、パウロがコリント人に教えたこととして、次のような記述があります。
「キリストは、聖書(旧約)の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書(旧約)の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」
 パウロはかつてキリスト教徒を迫害していた人物ですが、復活したイエスがパウロに現れてイエスの教えを伝道する者に変えられました。180度の転回です。その時の様子が「使徒の働き」の9章に詳しく書かれています。それによれば、このパウロの回心はパウロ一人の思い込みによるものではなく、ダマスコに住んでいたキリスト教徒のアナニヤという人物がまた重要な役割を果たしています。アナニヤは迫害者パウロを恐れていましたが、アナニヤにもイエスが現れ、パウロのところに行くように命じます。アナニヤが訪れたことによってパウロは自分の身に起きたことを理解し、変えられました。アナニヤにこのような役割が与えられるとは、アナニヤ自身も全く思っていなかったことでしょう。
 私は静岡の出身で、静岡と東京とは180kmぐらい離れています。キリスト時代のパレスチナの地図を見ると、アナニヤがいたダマスコとエルサレムとの距離は、ちょうど静岡と東京ぐらいの距離です。パウロは静岡のクリスチャンを縛り上げて東京に引いて行き、牢獄につなぐために東京から静岡に行ったのです。そのことを知っていた静岡のアナニヤが、どうしてパウロに会うことができるでしょうか。静岡の田舎の人から見ると、東京の人はただでさえ恐ろしい感じがします。まして、自分たちを迫害する目的で東京から来た人など、恐ろしくて会えるはずがありません。しかし、イエス・キリストが与えた力により、静岡のアナニヤはその役割を立派に果たしたのです。
 このパウロの回心に大きな役割を果たしたアナニヤの話は、「使徒の働き」の記者ルカによる作り話でしょうか。キリスト教をユダヤの外の地の果てにまで広めたパウロの回心にエルサレムから遠く離れたダマスコの田舎者が絡んでいたことなど、医者であり歴史家であるルカが作為的に話を捏造するわけがありません。パウロとアナニヤに本当にイエスが現れたのだと素直に解釈するのが適当でしょう。

 さて、今日アナニヤの話を書くことになろうとは、私が上で「180度の転回です」と書くまでは全く考えていませんでした。パウロが180度転回した後、文章をどう続けようか、選択肢がいろいろあったのであれこれ考えていたところ、ふとアナニヤのことが頭に浮かんだのです。そしてダマスコとエルサレムの距離がちょうど静岡と東京ぐらいの距離だということも、この後で知りました。
 この種の経験は誰にでもあることと思いますが、これこそが神のささやきなのです。神様は誰に対してでも、いつもささやき続けてくださっています ^^